第21-2話 正しいだけでは(2)
実技試験前夜。
第七寮一階の談話室。
遅い時間だった。
ほとんどの学生は自室へ戻り、魔石灯の淡い光だけが残っている。窓の外は暗い。
エリアスは長椅子に座り、翌日の競技規則を読んでいた。
ヒルデガルドが向かいへ座る。
「まだ起きてたの」
「うん」
「何してるの?」
「規則の確認」
少し安心したように、彼女が紙を覗き込む。
「対策?」
「まあ」
指定術式。安全限界。競技区域。失格条件。占有判定。勝敗条件。
すべてに細かな印がついている。
「心配じゃないの?」
「してるよ」
「見えない」
「何したら心配してるように見える?」
「そういう話じゃない」
ヒルデガルドは少し苛立った。
「再評価で基準を満たせなかったら、進級判定にかかるのよ」
「うん」
「それでも改善できなければ、在籍審査だってある」
「知ってる」
「なのに、何でそんな普通なの?」
エリアスは少し考えた。
「普通じゃないよ」
「じゃあ?」
「相手より出力が弱いのは、今日心配しても変わらない」
「……」
「魔力容量も急には増えない」
「そうだけど」
「だから、そこを心配するのに時間を使っても何も変わらないでしょう」
ヒルデガルドの眉が寄る。
「そういう合理性の話じゃないの」
「でも、明日だから」
「怖くないの?」
今度は、答えるまでに少し間があった。
「怖いよ」
彼女の表情が変わる。
「このまま何も成し遂げずに、実家へ戻って店を手伝うことになるのも嫌だし」
「……ええ」
「みんなと別れるのも嫌だ」
一瞬。
彼女の目が止まった。
本人は気づかない。
「だから、できることだけやる」
エリアスは競技規則を持ち上げた。
「今できるのは、これを読むことだから」
ヒルデガルドはしばらく彼を見る。
「あなたって」
「何?」
「すごく繊細なのか、ものすごく図太いのか分からない」
エリアスは考えた。
「両方じゃ駄目?」
彼女はとうとう笑った。
「もういい」
立ち上がる。
「寝なさい」
「もう少し」
「睡眠不足でも魔力制御は落ちるでしょう」
「それは困る」
「でしょう?」
「あと十五分」
「十分」
「十二分」
「……十二分で」
交渉成立。
ヒルデガルドは歩き出した。
数歩進んでから振り返る。
「エリアス」
「何?」
「負けないで」
直球だった。
言ってから、自分でも少し驚いた。
エリアスは普通に笑った。
「うん。頑張る」
それだけ。
ヒルデガルドは階段へ向かう。
「そこはもう少し何かあるでしょう」
小さく呟いた。
もちろん。
聞こえていなかった。
*
翌日。
魔法実務競技場。
普段の演習場とは違う。
直径およそ六十メートルの円形競技場。中央には低い石柱が五本置かれ、外周を魔力吸収壁が囲んでいる。床面には複数の術式線が刻まれていた。
観覧席には学生と教員。
サルヴェリア魔法実務教官。
そして、カルディス教授。
エリアスは競技場へ入った。
向こう側から対戦者も入ってくる。
軍務志望。
体格もいい。
魔法実技では学年上位。
エドガー・ヴァン・ロッセル。
剣技授業で、
「将軍になりたい」
と言って教官に、
「下士官志望かと思った」
と返された、あの学生だった。
エドガーは少し苦笑した。
「まさかエリアスとやるとは思わなかった」
「僕も」
「悪いけど」
手を握る。
魔力が強く反応した。
「手加減はできない」
「しなくていいよ」
「……余裕あるな」
「ないよ」
「そう見えない」
「昨日も言われた」
エドガーは笑った。
「変な奴」
二人は開始位置へ向かった。
サルヴェリア教官が中央に立つ。
「競技規則を確認します。制限時間、十五分」
五本の石柱を示した。
「各石柱は、一定時間継続して魔力制御を行うことで占有できます。終了時、三本以上を占有している者を勝者とします」
領域争奪戦。
一見すれば単純だった。
しかし。
「相手の術式への干渉を認めます」
観覧席がざわめく。
「攻撃術式は規定出力まで。身体への直接攻撃は禁止。石柱への魔力供給線を破壊、遮断、奪取することは認めます。安全術式を故意に解除した場合は即時失格」
さらに続ける。
「五本すべてを同時に維持する必要はありません」
エリアスの目がわずかに動いた。
観覧席のヒルデガルドは、それを見逃さなかった。
何か見つけた。
たぶん。
「なお、これは通常の対抗実技であると同時に、フェルマー生については魔法行使規範の再評価を兼ねます」
競技場が少し静かになった。
「礼式。起動前確認。安全手順。術式選択。終了処理。すべて評価対象です」
カルディス教授の視線がエリアスへ向く。
「勝敗のみで再評価を判定するものではありません」
エリアスが小さく頷いた。
勝てば合格ではない。
負ければ不合格でもない。
問われるのは、もっと面倒なものだった。
自分が正しいと思う判断を、他人にも説明できる形で行えるか。
決められた手順を守りながら、必要なら例外を選び、その理由に責任を持てるか。
それを十五分間、実際にやってみせなければならない。
競技場中央へ旗手が進み出る。
赤い旗。
エドガーが構えた。
強い魔力が、開始前から周囲へ滲む。
エリアスも右手を上げる。
弱い。
だが、静かだった。
観覧席では、ガイウスが腕を組んでいる。リオネルは前のめりになり、マリエッタは膝の上で両手を握っていた。
ヒルデガルドだけは、石柱ではなくエリアスの顔を見ている。
旗が上がった。
競技場全体が静まる。
あと一瞬。
振り下ろされれば始まる。
これは、単にエドガーに勝てるかどうかを試す十五分ではない。
エリアスがこれまで主張してきたことを、自分自身で実行できるのか。
正しいと考えるだけではなく。
その正しさを、規則の中で使える形にできるのか。
赤い旗が振り下ろされた。




