第21-1話 正しいだけでは(1)
その日の魔法学座学は、いつもと少し違った。
セヴェリオ・カルディス教授は、教室へ入ると教本を開かなかった。
代わりに、一冊の古い記録簿を教卓へ置いた。
革表紙の角は擦れ、中央には国家魔導事故調査院の旧章が刻まれている。
教室の空気が少し変わった。
カルディスは右手袋を外した。
額から右眉へ続く火傷痕が、窓から差し込む光の中でいつもより目立って見えた。
「今日は、過去の事故記録を扱います」
筆記板へ日付を書く。
二十七年前。
南部河口地方。
排水魔導施設。
「大雨による河川増水に対応するため、地方魔導官十二名が緊急排水術式を運用しました」
魔導投影盤に図面が現れた。
三系統の排水陣。補助術者。監督官。避難区域。
「結果から言います」
カルディスは淡々と言った。
「施設は損壊。術者四名死亡。七名重傷。周辺住民二十三名が負傷」
学生たちの表情が変わる。
「原因は、術式そのものの欠陥ではありません」
次の資料が投影された。
「第一班が、緊急性を理由に起動前確認の一部を省略した。第二班は、それを見て終了礼式の一部を省略した。そして第三班は、通常なら確認される魔力位相差を報告しなかった」
カルディスは教室を見渡した。
「全員、自分が省略した部分は安全性に直接関係しないと考えていました」
誰も発言しない。
「フェルマー生」
突然、呼ばれた。
エリアスが顔を上げる。
「はい」
「あなたなら、この事故をどう評価しますか」
ヒルデガルドがわずかに横を見る。
嫌な予感がした。
エリアスは投影された記録を見る。
少し考えてから口を開いた。
「確認してもいいですか」
「どうぞ」
「最初に省略されたのは、神格奉告と定型確認句だけですか」
「記録上は」
「その時点では、安全に直接関わる確認手順は省略されていない?」
カルディスの目が細くなった。
「そうです」
エリアスはもう一度資料を見る。
「なら、最初の省略自体が事故原因だったとは言えないと思います」
空気が止まった。
ヒルデガルドは目を閉じそうになった。
カルディスの表情は変わらない。
「続けなさい」
「問題は、その省略が次の省略を許容する前例になったことです」
エリアスは答える。
「最初の班は、安全上不要だと判断した部分だけを省いた。でも、それを見た第二班は、自分たちも省略していいと考えた。第三班では、それが報告義務にまで広がった」
「つまり?」
教授の声が少し低くなった。
「礼式そのものが事故を防いでいたというより、決められた手順を現場判断で変更してよいという認識が広がったことが、事故につながったのだと思います」
誰も動かない。
内容だけを聞けば、かなりまともな回答だった。
むしろ、カルディスがこれまで教えてきたことに近い。
しかし教授は尋ねた。
「では、第一班の判断は正しかったと?」
「その判断だけを見れば」
ヒルデガルドの指が机の上で止まった。
エリアスは続けてしまう。
「少なくとも、その省略自体を事故原因とするのは正確ではないと思います」
カルディスの右手が、ほんのわずかに震えた。
すぐに止まる。
教室のほとんどの学生は気づかなかった。
ヒルデガルドは気づいた。
「正確ではない」
教授が繰り返す。
「はい」
「四人が死んだ事故記録を前にして?」
エリアスが少し戸惑った。
「死亡者数と因果関係は、分けて考えるべきだと思います」
誰かが小さく息を呑んだ。
カルディスはエリアスを見る。
長い沈黙だった。
「フェルマー生」
「はい」
「あなたは、現場で一つの手順を省くことが、次の人間に何を許可するか理解していますか」
「今の記録で、それが問題だったことは理解できます」
「違います」
初めて教授の声が強くなった。
「理解していない」
エリアスも黙る。
「あなたは、自分なら境界を正しく引けると考えている」
「そうは言っていません」
「同じです」
「違います」
即答だった。
ヒルデガルドが横を見る。
――やめて。
声には出せない。
カルディスの火傷痕。
外された右手袋。
国家魔導事故調査院の旧章が刻まれた記録簿。
そして、いつも以上に固い表情。
彼女には、もう分かっていた。
これは学問上の議論だけではない。
「僕が言っているのは」
エリアスが続ける。
「何が危険だったのかを正確に分けないと、次の事故を防げないということです」
カルディスの目が止まる。
「死者が出たから、そこへ至るまでの判断を全部間違いだったことにしたら――」
「そこまでです」
静かな声だった。
しかし、教室全体が凍った。
エリアスも口を閉じる。
カルディスは記録簿を閉じた。
ぱたん。
「今日の授業は、ここまでにします」
まだ鐘まで二十分以上ある。
誰も動かなかった。
教授は右手袋を着け、記録簿を持つ。
教室を出る直前、一度だけ振り返った。
「フェルマー生」
「はい」
「次回の対抗実技」
一拍。
「よく考えて臨みなさい」
扉が閉じた。
教室には、しばらく誰の声もなかった。
*
「何をしたか分かってる?」
廊下へ出た瞬間、ヒルデガルドが言った。
エリアスは困った顔をした。
「言い方が悪かったのは分かる」
「それだけ?」
「内容は間違ってないと思う」
「そういうところ!」
声が少し大きくなった。
通りかかった学生がこちらを見る。
ヒルデガルドは声を落とした。
「教授、あの事故と何か関係があるんじゃない?」
エリアスが止まる。
「どうして?」
「分からないの?」
「事故調査院の記録を持ってきたから?」
「それだけじゃない。右手」
彼女は自分の右手を示した。
「震えてた」
エリアスは黙った。
そこは見ていなかった。
「火傷痕もある。事故調査院の古い記録を持っている。少なくとも、あの事故をただ教本で知っているだけの人には見えなかった」
「……そうか」
「そうか、じゃないでしょう」
「じゃあ、どうすればよかった?」
「少なくとも、あそこで『その判断だけを見れば正しかった』なんて言わない」
「でも、質問は事故の評価を――」
「エリアス」
今度は静かだった。
「正しいことなら、いつでも、そのまま言っていいわけじゃないの」
エリアスは眼鏡を押し上げた。
「それは分かる」
「分かってない」
「分かってるよ」
「だったら――」
彼女はそこで止めた。
深く息を吐く。
「……もういい」
歩き出す。
エリアスも追った。
少しして。
「ヒルデガルド」
「何」
「教授に謝った方がいい?」
「私に聞かないで」
「でも」
「自分で考えなさい」
三度目だった。
*
謝罪は、結局うまくいかなかった。
翌日。授業前。
エリアスはカルディス教授へ声をかけた。
「昨日は、配慮のない言い方をしてすみませんでした」
教授は彼を見る。
「内容については?」
エリアスが止まった。
ここで「考えを改めました」と言えば、たぶん話は簡単だった。
だが、それを言うことはできなかった。
「……考えは変わっていません」
カルディスは数秒黙った。
「そうですか」
それだけだった。
形式上、謝罪は成立した。
人間関係としては、何も直らなかった。




