第20-1話 弱い魔法(1)
魔法実技場は、朝から騒がしかった。
統学院西棟のさらに外。石造りの低い壁に囲まれた楕円形の演習場には、大小の標的が並んでいる。
木板。吊り下げられた鉄輪。砂を詰めた革袋。
一番奥には、腰ほどの高さの石柱が十本。
「次。レオンティス生」
呼ばれたガイウスが前へ出た。
制服の上着を脱ぎ、袖を肘まで捲っている。
イリーナ・サルヴェリア魔法実務教官が眉を寄せた。
「レオンティス生」
「はい!」
「制服を脱ぐ必要は?」
「動きやすいので!」
「今日は格闘訓練ではありません」
「はい!」
返事だけはいい。
周囲から笑いが漏れた。
「まあいいでしょう。第三標的。衝撃術式。指定出力六割」
「了解!」
ガイウスが右足を引き、掌を前へ向ける。
空気が変わった。
魔法に敏感でない者にも分かるほど、周囲の魔力が一点へ集まる。
次の瞬間。
どん。
鈍い音が響いた。
吊り下げられていた革袋が大きく跳ね上がる。鎖が軋み、後ろの木枠まで揺れた。
学生たちから声が上がった。
サルヴェリア教官は測定板を見る。
「七割二分」
「あ」
「六割と言いましたね」
「……はい」
「実務で指定された出力を二割も超過すれば、何が起きます?」
ガイウスが考える。
「魔力を無駄にします」
「他には?」
「味方を巻き込む可能性があります」
「そうです」
教官は評価表へ書き込んだ。
「出力、優。制御、良。指定出力遵守、可」
ガイウスが頭を掻く。
後ろから声が飛んだ。
「それでもすげえよ」
軍務志望の学生だった。
「七割であれか」
「レオンティス、近衛向きじゃないか?」
「中央軍だろ」
ガイウスは照れたように笑いながら列へ戻った。
リオネルが肘で突く。
「人気者」
「うるさい」
「七割二分」
「うるさい」
「指定出力遵守、可」
「それ以上言ったら持ち上げるぞ」
「何でそれが脅しになるんだよ」
*
「次。フェルマー生」
エリアスが前へ出た。
同じ第三標的。
「衝撃術式。指定出力六割」
「はい」
掌を前へ出し、魔力を集める。
静かだった。
ガイウスの時のような圧迫感はない。光も弱い。
ぱん。
革袋が少しだけ動いた。
鎖が揺れる。
それで終わった。
一瞬、演習場が静かになった。
誰かが小さく笑う。
「……六割?」
別の学生が言った。
「俺の三割くらいじゃないか」
軍務志望の少年が続ける。
「フェルマー、行軍では頭使ってたのにな」
「魔物に計算問題でも出すのか?」
笑いが起きた。
エリアス本人は気にする様子もなく、測定板を見ていた。
サルヴェリア教官が数値を読む。
「六割一分」
記録する。
「指定値との差、一分。出力、可。制御、優」
先ほどの少年がまだ笑っている。
「でも実戦じゃ、当たっても痛くないですよ」
教官の筆が止まった。
「そうですか?」
少年が少し戸惑う。
「え?」
「魔法の価値は、出力だけで決まると?」
「いえ、そういう意味では――」
「では、どういう意味です?」
「……すみません」
教官はそれ以上追及しなかった。
エリアスを見る。
「フェルマー生。もう一度。今度は三割」
「はい」
ぱん。
革袋がほんの少し揺れた。
サルヴェリア教官が測定板を見る。
「三割〇分」
記録する。
「よろしい」
エリアスは列へ戻った。
ガイウスが横を空ける。
「相変わらずだな」
「弱い?」
「小さい」
エリアスが見る。
ガイウスは続けた。
「でも、行軍の最後に狼煙玉を十個以上、同時に起動しただろ」
「あれは力いらないから」
「俺にはできん」
「練習すれば?」
「途中で全部まとめて燃やす自信がある」
エリアスは少し想像した。
「それは困るね」
「だろ?」
ガイウスは笑った。
「種類が違うんだよ」
前では次の学生が呼ばれていた。
*
その日の午後。
魔法学座学。
こちらでは、エリアスの方が得意だった。
少なくとも。
本人はそう思っていた。
教壇に立つのは、セヴェリオ・カルディス教授。
魔法理論。術式史。神格と魔力経路。魔法行使に伴う倫理と礼式。
統学院でも、古典的な魔法教育を重視する教員だった。
筆記板には一つの術式が描かれている。
三重環。起動句。神格への奉告。対象指定。効果式。終了句。
「では」
カルディス教授が振り返った。
「この術式を河川氾濫時の排水補助へ用いる場合、どの部分を変更しますか」
数人が手を挙げる。
「フェルマー生」
「対象指定です」
「それだけですか」
「効果を出すだけなら」
教室が少し静かになった。
教授の眉が動く。
「効果を出すだけなら?」
エリアスは筆記板を見る。
「奉告句と終了礼式は、排水量そのものには影響しません。緊急時なら省略可能です」
ヒルデガルドが隣から横目で見る。
まずい。
そんな顔だった。
教授は静かに尋ねた。
「省略可能?」
「はい」
「誰の判断で?」
エリアスは質問の意味を考えた。
「術者です」
教室の空気が一段冷えた。
教授は筆記板へ向き直る。
「では、フェルマー生。この術式を最初から説明してください」
エリアスは立った。
構造。魔力経路。対象指定。出力調整。逆流防止。終了処理。
内容は正確だった。
ほとんど間違えない。
「最後に?」
教授が尋ねる。
「残留魔力を解放します」
「その後です」
「……記録します」
「その前」
エリアスは少し考えた。
「ああ」
分かった。
「終了礼です」
「そうです」
教授は静かに言った。
「座りなさい」
*
授業後。
廊下へ出たところで、ヒルデガルドが追いついた。
「エリアス」
「何?」
「あなた、あれは駄目よ」
「どこ?」
本当に分かっていない。
「『効果を出すだけなら』」
「でも、効果だけならいらないよ」
「そこじゃないの」
「じゃあ、どこ?」
ヒルデガルドは少し考えた。
「魔法学では、術式だけを教えているわけじゃない」
「知ってる」
「分かってないから言ってるの」
エリアスは眼鏡を押し上げた。
「洪水で人が溺れてる時に、神様への挨拶を全部やる?」
「省略する場合はあるでしょうね」
「じゃあ同じじゃない?」
「違う」
「どう違うの?」
「あなたは、省略できることと、省略してよいことを同じにしてる」
エリアスが黙った。
そこは少し分かった。
ヒルデガルドは続ける。
「礼式には、術者が手順を確認する意味もあるでしょう。平時から勝手な省略を認めれば、必要な部分まで削る人が出る」
「僕は削らないよ」
「あなた一人の話じゃないの。制度の話」
エリアスは数秒考えた。
「なるほど」
「分かった?」
「うん」
ヒルデガルドの表情が少し緩む。
「でも、今日の設問は緊急時だったよね」
彼女は立ち止まった。
エリアスも止まる。
「……そこに戻るの?」
「だって」
「もういい」
歩き出す。
「怒った?」
「教授が怒った理由が少し分かっただけ」
「なんで?」
ヒルデガルドが振り返った。
「自分で考えなさい!」
*
翌週。
また魔法学。
「フェルマー生。起動前奉告の意味は?」
「術式そのものの安全性には直接寄与しません」
その翌週。
「フェルマー生。神格名は正式称号で」
「この課題でも必要ですか?」
さらに翌週。
「フェルマー生」
「はい」
「返答の前に、一度相手の質問意図を考えなさい」
「今も考えています」
教室の空気は、少しずつ悪くなっていった。
エリアスに悪意はない。
カルディス教授にも、最初はなかった。
だから余計に悪かった。
エリアスは質問されたから答える。理解できなければ理由を聞く。理由に納得できなければ、さらに聞く。
教授は、それを魔法学の基礎姿勢そのものへの軽視だと受け取り始めた。
一方のエリアスには、内容を理解しているのに、なぜ形式ばかり評価されるのかが分からない。
筆記試験は高い。術式解析も上位。実技制御も優秀。
しかし。
魔法行使規範。
礼式運用。
実務姿勢。
この三項目だけが落ちていった。




