第18話 (オマケ) 行軍中の観察不足
行軍演習が終わった翌日。
第七寮の談話室。
リオネルは長椅子に寝転がりながら、ふと思い出したように言った。
「なあ」
ガイウスが報告書から顔を上げる。
「何だ」
「今回の演習で、一番理解できなかったことがある」
マリエッタが尋ねた。
「補給集積所への浸透ですか?」
「違う」
「教官側の罠?」
「違う」
ヒルデガルドは嫌な予感がした。
リオネルはエリアスを指差した。
「こいつ」
エリアスが眼鏡を上げる。
「僕?」
「お前」
「何が?」
リオネルは身体を起こした。
「そこからだよ」
*
一日目。
丘陵へ入ってしばらくした頃。
エリアスはすでに少し汗をかいていた。
歩けないほどではない。
遅れてもいない。
ただ、時々。
右肩を回す。
少し歩く。
また右肩を回す。
ヒルデガルドはしばらく後ろから見ていた。
三度目。
歩調を速め、横へ並ぶ。
「フェルマー生」
「何?」
「止まって」
「どうしたの?」
「背嚢」
「大丈夫だよ」
「大丈夫かどうかは聞いてないわ」
エリアスが止まる。
ヒルデガルドは後ろへ回り、肩紐を確認した。
右側が短すぎる。
「左右がずれてる」
「そう?」
「動かないで」
肩紐を緩める。
背中側の位置を直す。
胸の固定帯も少し上へ。
エリアスはされるがままだった。
「これで歩いてみて」
数歩進む。
エリアスの表情が変わった。
「あ。楽」
「でしょう」
「すごいね」
「基本でしょう」
「僕、一人だったら気づかなかった」
「でしょうね」
ヒルデガルドは何事もなかったように歩き始めた。
その後ろ。
リオネルがマリエッタへ小声で言う。
「なあ」
「はい」
「あれ、普通?」
マリエッタは少し考えた。
「背嚢を直すことですか?」
「いや」
リオネルは前の二人を見る。
「あの距離」
マリエッタも見る。
少し考える。
「言わない方が面白いと思います」
「同意」
ガイウスは聞こえていた。
だが、前を向いたまま何も言わなかった。
*
昼の休憩。
五人は木陰に座っていた。
エリアスが水筒を傾ける。
一口。
もう一口。
ヒルデガルドが見る。
「飲みすぎないで」
「喉乾いた」
「全部飲んだら午後困るでしょう」
「まだ半分あるよ」
「次の水場まで?」
エリアスは地図を見る。
「一刻半くらい」
「ならいいけど」
リオネルがパンを噛みながら二人を眺めていた。
エリアスが気づく。
「何?」
「いや」
「見てたよね」
「見てた」
「何で?」
リオネルは水筒を指した。
「ヒルデガルド、お前の水まで管理するんだなと思って」
エリアスは少し考えた。
「班員だからじゃない?」
ヒルデガルドが微妙な顔をした。
マリエッタは水筒で口元を隠す。
ガイウスは黙ってパンを食べ続ける。
リオネルだけが何度か頷いた。
「そうだな」
「うん」
「班員だからな」
「そうでしょう」
「そういうことにしとく」
エリアスが眉を寄せる。
「何が?」
「何でもない」
*
一日目の夜。
夜警の交代。
エリアスの番が終わり、ヒルデガルドが起きてきた。
「時間よ」
「うん」
周囲の状況を引き継ぐ。
エリアスは天幕へ戻りかけて、一度止まった。
「そうだ」
「何?」
「昼間、ありがとう」
「何が?」
「背嚢」
自分の肩を指す。
「直してくれたでしょう」
ヒルデガルドは一瞬黙った。
「……今ごろ?」
「歩いてみたら、かなり違ったから」
「最初から違うと言ったでしょう」
「うん。だから、ありがとう」
あまりにも普通に言うので。
ヒルデガルドも普通に返した。
「……どういたしまして」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
エリアスは天幕へ戻っていった。
一人残ったヒルデガルドは、しばらく暗い森を見ていた。
それから小さく息を吐き、偵察魔導具を浮かせた。
誰も見ていない。
少なくとも。
本人は、そう思っていた。
少し離れた天幕の中で、まだ眠っていなかったリオネルが目を開けていた。
*
翌朝。
朝食を取りながら、リオネルが聞いた。
「昨日の夜さ」
「何?」
エリアスが答える。
「ヒルデガルドに何か言ってた?」
「うん」
「何て?」
「背嚢直してくれてありがとうって」
「それだけ?」
「それだけ」
「反応は?」
エリアスはパンを食べながら考えた。
「どういたしまして、って」
「それだけ?」
「うん」
リオネルは少し黙った。
「……そうか」
「何?」
「いや。お前、礼はちゃんと言うんだな」
エリアスが眉を寄せる。
「言うよ」
「そこはちゃんとしてるんだよなあ」
「どういう意味?」
「まだいい」
「何が?」
「何でもない」
*
二日目。
雨の前。
風が少し強くなってきた頃。
ヒルデガルドの銀髪が一度、顔へかかった。
エリアスが自然に言う。
「髪、邪魔じゃない?」
「少しね」
「切れば?」
ヒルデガルドが止まった。
「……切れば?」
「うん」
「これでも結んでるんだけど」
「もっと短くしたら行軍は楽そう」
前方でリオネルの足が止まりかけた。
ガイウスが肩を掴み、そのまま前へ歩かせる。
「止まるな」
「いや、今の――」
「止まるな」
後ろ。
ヒルデガルドは笑顔だった。
「フェルマー生」
「何?」
「あなたは女性の髪について、あまり軽々しく意見しない方がいいわ」
「そうなの?」
「そう」
「覚えとく」
「本当に?」
「たぶん」
彼女の眉が動く。
マリエッタが間へ入った。
「雨が来そうです」
見事な救援だった。
*
二泊目。
雨。
男子側の天幕では、三人が湿った靴下を眺めていた。
リオネルが口を開く。
「フェルマー」
「何?」
「ヒルデガルドって綺麗だと思う?」
ガイウスが横から言った。
「急に何聞いてるんだ」
「いいだろ。暇なんだから」
エリアスは少し考えた。
「綺麗だと思うよ」
リオネルが起き上がる。
「お」
「髪とか、すごく手入れされてるし」
「うん」
「服もいつも整ってる」
「うんうん」
「字も綺麗」
リオネルの顔から期待が消えていく。
「そうじゃなくて」
「何が?」
「女の子として」
エリアスは困った。
「女の子として綺麗って何?」
リオネルはガイウスを見る。
ガイウスは静かに首を振った。
「やめとけ」
「俺が悪かった」
「何で?」
「寝ろ」
「まだ夜警前だけど」
「いいから寝ろ」
*
同じ頃。
女子側の天幕。
マリエッタが髪の水気を拭きながら尋ねた。
「アルトハウゼン生」
「何?」
「フェルマー生のこと、好きなんですか?」
ヒルデガルドの手が止まった。
「……何を突然」
「気になったので」
「どうしてそうなるの?」
「よく見ていますから」
「班員だからよ」
「レオニス生の肩紐は直していませんでしたね」
「自分で直せるでしょう」
「ヴァルカ生の水筒も見ていませんでした」
「彼は自分で管理するでしょう」
「フェルマー生は?」
ヒルデガルドは一瞬詰まった。
「……そういうところがあるのよ」
マリエッタが少し笑う。
「では、そういうことにしておきます」
「何よ」
「何でもありません」
ヒルデガルドは毛布を少し強めに引いた。
数秒。
「それに」
「はい?」
「好きとか、そういう話ではないわ」
「はい」
「本当に分かってる?」
「もちろんです」
あまり信用できない返事だった。
*
三日目。
補給集積所へ向かう途中。
五人は低い姿勢で移動していた。
リオネルが先行。
マリエッタが足元。
ガイウスが周囲。
エリアスとヒルデガルドが後ろ。
少し急な斜面。
雨で地面が緩んでいる。
エリアスの足が滑った。
「危ない」
ヒルデガルドが腕を掴む。
身体が止まる。
「ありがとう」
「ちゃんと足元見て」
「見てた」
「見てて滑ったの?」
「泥だったから」
「なら、もっと見なさい」
エリアスは彼女に腕を掴まれたまま言った。
「アルトハウゼン、意外と力あるね」
彼女が手を離す。
「……今、言うことそれ?」
「他にある?」
前を歩いていたリオネルの肩が震えた。
ガイウスが小声で言う。
「笑うな。見つかる」
「無理」
「耐えろ」
マリエッタは振り返らず、
「静かにしてください」
とだけ言った。
*
演習終了後。
学院へ戻る街道。
五人で歩いていた。
エリアスの歩調が、少しずつ落ちていく。
最初に気づいたのはヒルデガルドだった。
何も言わず、自分も速度を落とす。
やがて二人が並んだ。
少し前。
リオネルが気づく。
マリエッタを見る。
彼女も気づいている。
リオネルが口を開きかけた。
マリエッタが首を振る。
言わない。
ガイウスも一度だけ振り返った。
状況を見る。
少し笑う。
そのまま前へ。
後ろでエリアスが言った。
「アルトハウゼンも疲れた?」
「え?」
「歩くの遅くなったから」
前を歩く三人の肩が、ほぼ同時に揺れた。
ヒルデガルドは数秒黙った。
「……そうね」
「やっぱり」
「ええ。とても疲れたわ」
エリアスは何も疑わない。
「僕も」
「知ってる」
「何で?」
「見れば分かるでしょう」
エリアスは少し笑った。
「やっぱり、人を見るの得意だね」
ヒルデガルドも笑った。
今度は怒らなかった。
*
第七寮の談話室。
回想を終えたリオネルが、長椅子から身体を起こす。
「というわけだ」
エリアスは報告書から顔を上げた。
「何が?」
「お前には一つ、重大な欠陥がある」
「魔力出力?」
「違う」
「体力?」
「違う」
「生活能力?」
ヒルデガルドが小声で言った。
「それもあるわね」
「聞こえたよ」
リオネルは人差し指を立てる。
「人の気持ちに鈍い」
エリアスは少し考えた。
「そうかな」
四人が同時に彼を見る。
「何?」
リオネルは呆れた顔をした。
「お前、人を見るのが苦手なわけじゃないんだよ」
「そう?」
「むしろ変なところは見てる」
ガイウスが頷く。
「数字とか、行動とか」
マリエッタも言う。
「誰が何をしたかも、意外と覚えていますよね」
「普通じゃない?」
「問題はそこじゃない」
リオネルが言った。
「じゃあ何?」
「自分に向いてるものだけ分かってない」
エリアスが眉を寄せる。
「何が向いてるの?」
一瞬。
談話室が静かになった。
ヒルデガルドがリオネルを見る。
リオネルはその視線を受けた。
「……まあいい」
報告書へ視線を戻したガイウスも言う。
「今はな」
マリエッタが笑った。
「四年ありますから」
ヒルデガルドが振り向く。
「何が四年あるの?」
「何でもありません」
エリアスも聞く。
「何の話?」
誰も答えなかった。
リオネルは再び長椅子へ寝転がった。
「観察不足だよ、フェルマー」
「僕が?」
「お前が」
エリアスは納得できない顔で報告書へ戻った。
その向かいで。
ヒルデガルドだけが、少し困ったように頬杖をついた。




