第15-1話 最初の夜(1)
出発の鐘が鳴ったのは、朝靄がまだ演習場の草を白く覆っている頃だった。
学院外門には、一年生たちが班ごとに並んでいる。
制服ではない。
灰緑色の野外上衣。
丈夫な脚衣。
足首まで覆う防水軍用靴。
背には背嚢。
腰には水筒、簡易医療具、信号具。
学院生の集団というより、小さな軍隊に近かった。
ただし、よく見れば統一感はない。
大きな背嚢を平然と背負う者。
何度も肩紐を調整している者。
出発前から水を飲んでいる者。
自分の偵察魔導具が正常に動くか確認している者。
エリアスは背嚢を一度持ち上げ、顔をしかめた。
「十五・八」
ガイウスが言った。
「昨日、十五にするって言ってなかったか?」
「鎌が増えた」
「持とうか?」
「駄目」
「何で?」
「自分で持てる量にした意味がなくなるから」
ガイウスは少し笑った。
「正しい」
本人の背嚢は二十キロを優に超えている。
それで朝から機嫌がいいのだから、やはり身体の作りが違う。
リオネルが長柄の鎌を一本担いだ。
「これさ」
「はい」
マリエッタが答える。
「どう持っても農作業に行く人にしか見えない」
「農具ですから」
「軍事演習だよ?」
「軍隊も草の上を歩きます」
反論の余地がなかった。
ヒルデガルドは手袋を締め直す。
「そろそろよ」
前方で旗が上がった。
各班が順番に動き始める。
ガイウスが四人を見る。
昨日までなら、少し勢い込んだ声を出したかもしれない。
今日は違った。
「予定通り行く」
簡潔だった。
「何か変わったら、その時考える。いいな?」
四人が頷く。
五人も歩き始めた。
*
最初の二刻は、驚くほど何も起こらなかった。
街道。
畑。
小さな集落。
演習区域へ入る頃には人家が減り、道の両側に雑木林が増える。
空は晴れていた。
春の終わりの陽光が葉の間から斑に落ち、朝露を残した草が靴の脛を濡らした。
「いい天気だな」
ガイウスが言う。
エリアスは空を見る。
「このままなら」
「言うなよ」
リオネルが振り返る。
「何が?」
「そういうこと言うと雨が降りそうだろ」
「僕が言って天気変わるなら便利なんだけど」
「それはそれで怖い」
行軍速度は速くなかった。
意図的だった。
予定表では、午前の平均速度は街道区間で一刻あたり約四キロ。
丘陵へ入れば三キロ以下。
ガイウスならもっと速く歩ける。
リオネルも問題ない。
マリエッタも農作業で歩き慣れている。
ヒルデガルドも身体教育の成績は悪くない。
最初に速度を落とす理由になったのは、結局エリアスだった。
「遅くない?」
本人が聞く。
「予定通りだ」
ガイウスが答える。
「僕に合わせてる?」
「班に合わせてる」
「同じじゃない?」
「今日はお前が一番遅い。明日は違うかもしれない」
エリアスは少し黙った。
「なるほど」
ガイウスは前を向いた。
班長らしい言い方だった。
エリアスは、それ以上何も言わなかった。
*
街道から外れたのは昼前だった。
ここから丘陵へ向かう。
踏み固められた道は細くなり、やがて獣道程度になる。
最初に長柄鎌の出番が来た。
マリエッタが先端を軽く振る。
ざっ。
膝下の草がまとめて倒れる。
もう一度。
ざっ。
「……速い」
リオネルが感心した。
「だから言ったでしょう」
ガイウスが剣鉈で顔の高さに垂れた枝を払う。
上はガイウス。
下はマリエッタとリオネル。
エリアスとヒルデガルドは少し後ろを歩く。
切り開くといっても、道を作るほどではない。
後続に進路を教えるような痕跡を残すのは避ける。
最低限、人間一人が通れる幅だけ。
それでも、剣一本で草も枝も処理するより速かった。
「これ、申請した時の教官、すぐ許可したでしょう」
エリアスが言った。
「まだ気にしてるの?」
ヒルデガルドが聞く。
「少し」
「便利だからじゃない?」
「そうかもしれない」
「何か仕掛けがあると思ってる?」
エリアスは森を見る。
「分からない」
ヒルデガルドがため息をついた。
「その答え、便利ね」
「便利だから使ってる」
*
午後。
最初の偵察魔導具を飛ばした。
一人三基まで支給されている、小鳥ほどの大きさの魔導具。
魔石から供給された魔力によって内部機構を動かし、淡い魔力膜を展開して浮遊する。
ヒルデガルドが一基。
リオネルが一基。
前方へ出す。
エリアスは自分の偵察魔導具を温存した。
「使わないの?」
リオネルが聞く。
「今、二つ飛んでるから」
「三つの方がよく見えるぞ」
「同じ場所を三つで見るより、あとで一つ残ってた方がいい」
「なるほどねえ」
リオネルが笑う。
「お前、本当に貯金好きだな」
「商人の子だから」
「関係ある?」
「たぶん」
前方に大きな動きはない。
別班らしい痕跡が一度見つかった。
折れた枝。
泥についた靴跡。
ヒルデガルドがしゃがむ。
「同じ方向ね」
ガイウスが聞く。
「追う?」
少し間。
彼女は首を振った。
「私たちを見つけた痕跡はないと思う」
「なら放置する」
即決だった。
戦うことが目的ではない。
平原への進出。
補給線維持。
そして状況変化への対応。
昨日決めた優先順位が、そのまま判断基準になっている。
*
午後三時を過ぎた頃から、エリアスの口数が減った。
最初に気づいたのはヒルデガルドだった。
「疲れた?」
「少し」
「本当に少し?」
「まだ歩ける」
「それは答えになってないわ」
エリアスは一瞬考える。
「脚が重い。でも息は平気」
前を歩いていたガイウスが振り返った。
「休憩する」
「僕だけならいいよ」
「俺も水を飲みたい」
ガイウスは言った。
マリエッタも、
「私は靴を確認します」
と続ける。
リオネルが、
「俺は何しよう」
と言う。
「黙って座ってれば?」
ヒルデガルドが答えた。
「冷たいなあ」
全員が荷物を下ろした。
マリエッタは本当に靴紐を緩める。
「足、見た方がいいですよ」
エリアスも靴を脱いだ。
靴下が湿っている。
「もう?」
「防水靴は外から濡れにくい代わりに、中が蒸れます」
ガイウスが言う。
「休憩ごとに乾かせるなら乾かした方がいい」
エリアスが彼を見る。
「また母さんみたい」
「いい加減その言い方やめろ」
*
予定した野営地へ着いたのは、日が傾き始める少し前だった。
小さな谷から一段上がった平坦地。
水場から近い。
しかし近すぎない。
周囲に樹木。
風も弱い。
マリエッタが地面へ手を触れる。
少し目を閉じた。
「ここなら大丈夫です」
「水は?」
「下の谷です。雨が降っても、ここまでは上がらないと思います」
リオネルが周囲を見る。
「敵からは?」
ヒルデガルドが答える。
「谷底より見つかりにくい。焚き火はなし」
「寒くない?」
「寒くない」
「夢がないなあ」
「演習よ」
野営準備が始まった。
天幕。
荷物。
水。
食事。
そして周囲確認。
エリアスが天幕の紐を結んでいると、マリエッタが横から見た。
「それ、朝まで持ちません」
「結んだよ」
「結んだことと、結べていることは違います」
どこかで聞いたような言い方だった。
「みんな僕に厳しくない?」
「エリアスが色々雑だからでしょう」
ヒルデガルドが即答した。
*
夕食は携行食だった。
固いパン。
塩気の強い肉。
乾燥豆を戻した簡単な煮込み。
そして学院名物の保存魚板。
エリアスは一口食べた。
止まる。
「野外で食べれば、少し美味しく感じるかと思った」
ヒルデガルドは普通に食べている。
「どうだった?」
「不味い」
「でしょうね」
「どうして普通に食べられるの?」
「食べ物だから」
「答えになってない」
ガイウスは二枚目に入っている。
リオネルが見る。
「味わってる?」
「食ってる」
「違うんだよなあ」
マリエッタは煮込みに魚板を少し崩して入れた。
「こうすると多少ましです」
エリアスが目を見開く。
「先に教えてよ」
「自分で工夫してください」
五人の笑い声が、暗くなり始めた森へ小さく広がった。




