第11-2話 学院の一日(2)
貴族と平民の関係も、学院外とは少し違った。
法学の授業。
教授が学生を指名する。
「アルトハウゼン生」
ヒルデガルドが立つ。
「はい」
教授は彼女を爵称では呼ばない。
同じ教室には高位貴族の子弟もいる。農家の出身者も、商家の子もいる。
授業中は全員が姓に「生」を付けて呼ばれる。
王国法の答案に家柄は関係ない。
だが、休憩時間になれば事情は少し変わる。
貴族の学生たちは、家同士の関係を知っている。
誰の父がどの中央官署にいる。誰の伯父が軍務院の高官で、誰の姉が王室府に出仕している。
そうした情報を、エリアスはほとんど知らなかった。
ある日、教室の反対側にいる学生を見て、普通に尋ねた。
「ヒルデガルド。あの人、誰?」
彼女が小声で答える。
「侯爵家の嫡男」
「偉い?」
「かなり」
「そうなんだ」
「その理解のまま、いきなり話しかけないでね」
「何で?」
「あなたは人との距離の取り方が雑なの」
エリアスには、まだよく分からなかった。
*
もっと分かりやすい人物もいた。
中央食堂の配膳列。
前方に、周囲の学生が無意識に少しだけ距離を取っている少女がいる。
学院の制服は他の学生と同じだった。
ただし、胸元には小さな王家章がある。
リオネルが声を落とした。
「王族?」
ヒルデガルドが頷く。
「第三王女、エレオノーラ殿下よ」
「普通に並ぶんだ」
「在学中は、学院生として扱うのが原則だから」
エリアスも見る。
エレオノーラ王女は自分で盆を持ち、パンと煮込みを受け取っていた。
前の学生が落とした匙にも気づき、拾って渡す。
その光景だけなら、他の学生と変わらない。
もちろん、完全に同じではなかった。
食堂の少し離れた場所に、学生ではない護衛官が二人いる。
王女自身は学院生でも、王族であることまで消えるわけではない。
ガイウスが聞いた。
「授業も同じ?」
「原則はね」
「演習も?」
「同じ。ただし、危険度の高い実習については学院と王室側で安全管理を調整するはずよ」
エリアスが首を傾げる。
「つまり、同じだけど同じじゃない?」
ヒルデガルドは少し考えた。
「国家の制度って、だいたいそういうものよ」
*
留学生も目立った。
基本の制服は同じだが、国外学生であることを示す細い識別線が襟元に入っている。
ヴェルディア。
カラド。
ノルディス河口王国。
ザフィード。
他にも、さらに遠方から来た学生がいる。
授業は共通語で行われるが、発音や言い回しにはそれぞれ癖があった。
統計演習で、ヴェルディア出身の学生が発表した。
「この地域の穀物価格上昇は、供給不足によるものと考えます」
ディメトリウス教授が尋ねる。
「理由は?」
「価格が上昇しているからです」
「それは結果です」
教室に小さな笑いが起きた。
教授は気にしない。
「供給が減ったのか、需要が増えたのか。それとも市場参加者が、将来不足すると考えただけなのか。価格だけでは判断できません」
学生が頷く。
「では、追加資料が必要です」
「そうです。それでいい」
外国人だから甘くすることもなければ、厳しくすることもない。
だが、授業が終われば別だった。
何人もの学生が彼のところへ集まる。
「ヴェルディアでは麦価をどう集計してる?」
「地方ごとだ。全域平均はあまり使わない」
エリアスもその輪へ入った。
少し離れたところでは、ヒルデガルドが誰と誰が話しているのかを見ている。
同じ留学生を見ても、二人が気にするものはやはり違っていた。
*
ある午後。
第一班の五人が魔法理論棟から行政学舎へ向かっていた。
九柱路へ出たところで、前方から数人の教職員が歩いてくる。
中央にいるのは、黒い長衣をまとった細身の老人だった。灰白色の髪。手には黒檀の杖。
「学院長」
ヒルデガルドが小さく言った。
五人は自然に道の端へ寄り、学院礼を取る。
ヴァレティウス学院長も、歩みを止めないまま軽く返礼した。
そのまま通り過ぎる。
そう思った時だった。
「フェルマー生」
エリアスが固まった。
「はい」
学院長が足を止め、振り返る。
「地方学院時代の監査実習報告を読みました」
エリアスは慌てて姿勢を正した。
「ありがとうございます」
「アルトハウゼン生の報告も」
ヒルデガルドも一礼する。
「ありがとうございます」
学院長は二人を見た。
「異なる方法から、同じ問題へ近づいていましたね。良い経験だったと思います」
「はい」
二人の返事が重なる。
「ただし」
学院長はエリアスを見る。
「他人が見たものを、自分が見ていないという理由で軽視しないこと」
「……はい」
次にヒルデガルドを見る。
「逆も同じです」
「はい」
学院長はそれだけ言うと、再び歩き始めた。
黒い長衣が、九本の石柱の間を遠ざかっていく。
五人はしばらく黙っていた。
最初に口を開いたのはリオネルだった。
「怖くない?」
エリアスが見る。
「何が?」
「学院長が、一年生になる前の実習報告まで読んでること」
ガイウスが言った。
「全員分を読んでるわけじゃないだろ」
「それでも、名前まで覚えてるんですね」
マリエッタも少し驚いている。
ヒルデガルドは前を見た。
「学院長だからでしょう」
「その説明で納得できる?」
リオネルが言う。
エリアスは少し考えた。
「でも、父さんも常連客がいつも何を買うか覚えてたよ」
全員が彼を見る。
「何?」
リオネルが吹き出した。
「学院長を商店主と同じにするなよ」
*
学生自治の範囲は、エリアスが想像していたより広かった。
寮内の清掃当番、食堂の混雑整理、談話室の利用、小図書室の貸出、寮対抗行事、軽微な規律違反。
日常的な問題の多くは、学生自身が処理する。
第七寮では、第一班をはじめとする五人班が当番や共同作業の基本単位になることも多かった。
教職員が直接介入するのは、安全に関わる問題、重大な規律違反、成績や進路、対外問題、暴力や身分を利用した不当な扱いなどである。
談話室で誰が長椅子を長く使った。
夜に誰が騒いだ。
共用本を誰が戻さなかった。
そんなことまで教師のところへ持ち込めば、むしろ注意される。
「その程度は、自分たちで解決しなさい」
ミルセティアは本当にそう言った。
ある日、リオネルが尋ねた。
「学生に任せすぎじゃないですか?」
ミルセティアは机上の書類の端を二度揃えた。
「卒業後、あなた方は国家組織へ入ります」
「はい」
「そこで、上司が人間関係の問題をすべて解決してくれると思いますか?」
「思いません」
「では、今から練習してください」
終わりだった。
*
夕方。
一日の授業を終えた学生たちが、九柱路を寮地区へ戻っていく。
朝とは、人の流れが逆だった。
制服の襟元を少し緩める者。本を抱える者。運動場へ向かう者。食堂の献立について話す者。
三柱目では、誰かが友人を待っている。
六柱目の脇では、上級生たちが立ち話をしている。
九本の古い石柱も、この時間にはただの道標と待ち合わせ場所にしか見えない。
王族も、貴族も、平民も、国外から来た学生も、この時間だけはずいぶん普通の学生に見えた。
エリアスは教本を抱えて歩いていた。
隣にヒルデガルド。
少し前にはガイウスとリオネル。
マリエッタは歩きながら、明日の課題予定を確認している。
「なんか」
エリアスが言った。
ヒルデガルドが見る。
「何?」
「思ってたより普通だね」
「何が?」
「統学院」
ヒルデガルドは周囲を見た。
王国の中枢を将来担う人材を育てる学院。
卒業後十年間の国家服務を約束した学生たちが学ぶ場所。
王族もいる。
貴族もいる。
平民もいる。
国外から来た学生もいる。
軍人や官吏が教師として出入りし、普通の学校では扱わないようなことまで学ぶ。
普通であるはずはない。
それでも、前を歩くリオネルがガイウスの背中を軽く叩いた。
ガイウスが振り返る。
マリエッタが何か言って笑う。
五柱目の向こうで、どこかの上級生が友人を呼ぶ。
制服の袖をまくった一年生が、九柱路を横切って食堂へ走っていく。
ヒルデガルドも少し笑った。
「そうね」
少し間を置く。
「でも、普通でいられるうちだけかもしれないわよ」
エリアスは意味を考えた。
「試験が始まるから?」
「……まずは、それでいいわ」
五人はそのまま、九柱路を歩いていった。
第七寮へ戻るために。
明日もまた、この道を通る。
今の五人にとっては、それだけの道だった。




