第11-1話 学院の一日(1)
朝の第七寮は、鐘が鳴る前から騒がしい。
二階の男子居住区では、扉が開く音、洗面所の水音、靴を履く音が廊下へ漏れていた。
エリアスが目を覚ました時には、向かいのベッドはすでに空だった。ガイウスの寝具は整えられ、制服もない。
「……早いな」
窓の外を見る。
中庭の向こう、朝靄の薄い運動場を、金髪の大きな影が走っている。
エリアスはしばらく眺めてから、もう一度寝具へ戻りかけた。
「……やめた」
昨夜、ガイウスから言われたことを思い出したからだ。
『朝の一鐘が鳴ってから起きると、食堂が混むぞ』
入学してまだ日も浅いのに、ガイウスの生活習慣が少しずつ自分へ侵食している気がした。
*
統学院の制服は、全員が同じ濃紺を基調としている。
立ち襟の上衣、動きやすい脚衣、黒か濃茶の短靴。男女で仕立てには多少の違いがあるが、身分によって制服そのものを変えることは禁止されていた。
ただ、よく見れば差は分かる。
ヒルデガルドの上衣は身体にきれいに合っている。学院規格から外れてはいないが、おそらく家の仕立屋が本人に合わせて調整したものだろう。縫い目が整い、袖にも余りがない。
一方、エリアスの制服は学院指定店の標準品で、少し肩が余っている。
ガイウスは逆に肩まわりが窮屈そうだった。
リオネルは規格通りに着ているはずなのに、なぜか少し着崩して見える。
マリエッタは最も標準的だったが、毎日きちんと手入れされていた。
「フェルマー」
朝食へ向かう途中、ヒルデガルドが彼の胸元を見る。
エリアスが先回りした。
「今日は大丈夫」
「何が?」
「釦」
「……確認したのね」
「ガイウスが」
ヒルデガルドは少し黙った。
「自分で確認しなさい」
「いや、今日はたまたまだよ」
「たまたま?」
「運動から戻ってきたガイウスと寮の入口で会って、そのまま一緒に出ることになったから」
ヒルデガルドの目が少し細くなる。
「つまり、偶然会ったから確認してもらえた、と」
「そう」
「毎朝それを期待しないでね」
「分かってる」
返事だけは素直だった。
ヒルデガルドには、あまり分かっているようには見えなかった。
*
第七寮から学院中央部へ向かうには、九柱路を通るのが一番分かりやすい。
正門から中央講堂へ向かって延びる広い石畳。その両側には、古い石柱が九本残っている。
学院が建てられる以前からあったとも、創設時に建てられたともいわれているが、由来については諸説あり、はっきりしない。
新入生にとっては、そんなことより使い勝手の方が重要だった。
「五柱目から魔法棟側へ曲がるぞ」
ガイウスが言った。
「三柱目じゃなかった?」
エリアスが聞く。
「三柱目は行政学舎」
マリエッタが訂正する。
「統計・国家分析棟なら、四柱目を過ぎてから右です」
リオネルが彼女を見る。
「もう全部覚えたの?」
「案内に書いてありました」
「聞く相手を間違えた」
ヒルデガルドが小さく笑った。
九柱路は待ち合わせにも使われる。
『三柱目で待つ』
『七柱目の脇』
それだけで、だいたいの場所が通じた。
朝は中央講堂や各学舎へ向かう学生で混み、夕方には人の流れが逆になる。
エリアスも数日で九本の位置を覚えた。
ただし、石柱の由来ではない。
どこで曲がれば、どの建物へ一番早く着くか。
そちらを先に覚えた。
そのことをヒルデガルドに話すと、
「あなたらしい覚え方ね」
と言われた。
*
授業の間には、十五分の移動時間がある。
その十五分が、統学院では意外に忙しい。
行政学舎から魔法理論棟。魔法理論棟から統計・国家分析棟。そこから中央講堂脇の小教室。
学院の敷地は広く、鐘が鳴ってからのんびり歩いていると、本当に次の授業へ遅れる。
九柱路から枝分かれする道へ入ると、学生の流れも細かく分かれていく。
濃紺の制服が何十人、何百人。
一年生の制服はまだほとんど共通である。専門課程を示す標識が増えていくのは、進路が分かれ始めてからだ。
向こうから上級生の集団が来た。
一年生たちは自然に少し道を譲る。
すれ違う時、右手を胸へ添え、軽く頭を下げる。
学院礼。
上級生も同じように返す。
ガイウス、マリエッタ、ヒルデガルド、リオネル。
エリアスだけが一拍遅れた。
三年生の一人が通り過ぎながら、小さく笑った。
「一年、まだ慣れてないな」
「すみません」
「謝るほどじゃない。次から早くやれ」
それだけだった。
上級生だから絶対的に偉いわけではない。
だが、学院生活を先に経験している者へ一定の礼を払う。
それが統学院の慣習だった。
*
寮の中では、その関係は少し違う。
第七寮に暮らしているのは、エリアスたちと同じ第七十三期の学生だけだった。
統学院では、一つの寮舎を一つの同期が四年間使う。入学時に一斉に入り、卒業時に一斉に出る。次の新入生がその寮舎を使うのは、それからだった。
同期の結びつきを強くするために、意図してそうしているらしい。
ただし、入学して最初の一か月だけは例外だった。
まだ寮則も設備の使い方も分からない新入生のために、上級生が交代で寮を訪れ、生活上の指導を行う。
その期間が終われば、寮監が関与する安全上の問題や重大な規律違反を除き、寮生活は同期の学生自治に委ねられる。
だから、キャンパスで出会う一般の上級生が、単に年長だからという理由で一年生へ命令することはできない。
学院礼をする。
道を譲る。
経験のある先輩として敬意を払う。
それと、命令に従うことは別だった。
ある昼。
行政学舎の廊下で、書類箱をいくつも抱えた二年生が足早に歩いていた。
明らかに教員に頼まれた仕事らしく、腕はすでに限界に近い。
その途中で、一年生の集団とすれ違う。
二年生は立ち止まり、息を整えながら声をかけた。
「君、一年だろ」
一年生が振り向く。
「はい」
二年生は書類箱を少し持ち直した。
「先生の研究室まで、この書類を運ぶのを手伝ってくれないか」
一年生は一瞬だけ箱の量を見る。
そして尋ねた。
「それは命令ですか。それとも依頼ですか?」
二年生は少し目を見開き、それから苦笑した。
「すまない。お願いだ」
一年生は頷いた。
「分かりました」
自然に一つの箱を受け取る。
二人はそのまま並んで歩き出した。
近くで見ていた別の二年生が、小さく呟く。
「……あれは、ああやって確認するのか」
誰も止めない。
教師もいない。
ただ、学院の中で越えてはいけない線が、こういう形で共有されていく。




