【第三部:深淵の共鳴】 第一章 沈黙の感染 第3話【善意のボランティア】
「志村、この偽アプリの配信元サーバーを追え」
「それが……配信元が存在しないんです」
志村の言葉に、松永は振り向いた。
「どういうことだ?」
「感染経路はネットのサーバーからではありません。
地域の『スマホ教室』や『自治体イベント』で配布された、
SDカードや近距離Wi-Fiスポットを経由して、
草の根方式で物理的に感染が広げられています」
「スマホ教室、ですか」
志村は資料をめくりながら眉をひそめた。
松永警部補が指し示した一覧には、
足立区内の地域センターや公民館で開催された
「高齢者向けスマホ教室」のリストが並んでいた。
矢野とし子も、二ヶ月前にそのうちの一つに参加していた記録がある。
「講師役として派遣された人物を洗え。
名簿には『地域デジタル支援員』とあるが、
自治体が公式に認定した人材とは別ルートで手配されている」
調べを進めると、
その支援員は個人事業主として複数の自治体イベントに出入りしており、
教室で配布する「操作練習用アプリ」の入ったSDカードを、
参加者のスマホに直接インストールして回っていたことが判明した。
表向きは善意のボランティアだ。
だが本人にすら、そのSDカードの中身に何が仕込まれているかは知らされていない。
「案件屋と同じ構図です」志村が呟いた。
「末端の人間は、自分が何をしているか分かっていない。
指示を出す人間もいない。
ただ『マニュアル通りにやれば謝礼が出る』、それだけです」
松永は苦い顔で頷いた。
過去のトクリュウ事件では、
必ずどこかに「指示役」と「実行役」を結ぶ通信記録が残った。
だが今回の事件には、その糸そのものが存在しない。
あるのは、無自覚な善意の連鎖と、被害者自身の指先だけだった。
「これは組織犯罪というより、生態系だ」松永は言った。
「誰も命令していないのに、全体が一つの意思を持って動いている」
亡霊は、
日本の警視庁が「セル型トロイの木馬」の解析に乗り出したという情報を、
案件屋ネットワークを経由して間接的に察知していた。
もっとも、彼は動じなかった。
むしろ、その反応こそがシステムの正しい作動証拠だった。
「捜査機関が追うべき指示系統そのものが存在しない。捜査は必ず行き詰まる」
亡霊の構築したシステムは、
中央のサーバーから命令を発する従来型の犯罪インフラとは根本的に異なっていた。
AIが生成した「感染プログラム」は、
一度地域に撒かれれば、あとは近接通信と人間同士の善意の交流――
スマホ教室、家族間のデータ共有、近所付き合いでの端末貸し借り――
に紛れて自律的に増殖していく。
亡霊自身でも、その後の拡散経路を把握することすら不可能だった。
「俺はもう、亡霊ではないのかもしれない」
ふと、そんな言葉が漏れた。
亡霊は網を張り、震動を読み、獲物を待つ存在だった。
だが今、彼が生み出したものは、
もはや彼の意思を離れ、
日本社会の善意と信頼の構造そのものに寄生する、
ひとつの生態系と化していた。
制御しているのではなく、
ただ観察しているだけの存在に、彼自身が変わりつつあった。
そのことに、亡霊はかすかな高揚と、
言葉にならない不安を同時に覚えていた。
矢野とし子の被害額は最終的に280万円――
彼女の老後の蓄えのほぼ全てだった。
志村と松永は、被害者本人への聴取を試みたが、
とし子は今なお、自分が犯罪被害に遭ったという事実を受け入れられずにいた。
「区役所の人が、ちゃんと確認してくれたのよ。安心してくださいって……」
その言葉に、松永は返す言葉を失った。
詐欺師の口車に乗せられたのではない。
彼女は最後まで、正しい手続きを踏んだと信じていた。
騙されたという自覚すら持てないまま、資産だけが静かに消えていた。
「これが『亡霊』の本当の恐ろしさです」
志村が資料を閉じながら言った。
「被害者に罪悪感も恐怖も与えない。
だから誰も声を上げない。
事件として認知されるまでに、
どれだけの高齢者が同じ目に遭っているか分かりません」
松永は、全国のデータベースに照会をかけた。
同種の手口――健康アプリや見守りサービスを装った
指紋認証の悪用――による不審な資産移動の記録を検索する。
数分後、結果が表示された。
全国で確認された類似ケースは、把握できているだけで既に千件を超えていた。
「……氷山の一角どころじゃない」
松永は画面を睨みつけたまま、静かに拳を握りしめた。
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松永は、全国データベースの解析結果を前に、ひとつの仮説にたどり着いていた。
「奴らのシステムは、中央からの指示を必要としない代わりに、末端――案件屋やスマホ教室の講師――が『物理的な起点』になっている。デジタル上の足跡は消せても、……。
明日、19:20 に第4話を投稿します。




