【第三部:深淵の共鳴】 第一章 沈黙の感染 第2話 感染者たちの日常
脅迫も、暴力も、露骨なハッキングすら存在しない。
ただ住民の日常に深く静かに溶け込み、
被疑者の顔も声も一切見せないまま、
内側から侵食していく新たな脅威――。
「……今度は、被害者自身を『無自覚な実行役』に仕立て上げる気か」
松永の呟きが、静まり返った捜査室に重く響いた。
闇の中に潜む次なる影との、誰も経験したことのない不気味な戦いが、
ここに幕を開けたのだった。
東京都足立区。
築四十年の木造住宅で暮らす矢野とし子(74)は、
毎朝の日課であるスマートフォンの操作をしていた。
二年前に娘から贈られたその端末には、
区が推奨する「健康ポイントアプリ」が入っている。
毎日の歩数に応じてポイントが貯まり、
地域の商店街で使えるクーポンと交換できる優れものだ。
独り暮らしのとし子にとって、
このアプリは日々の密かな楽しみとなっていた。
『本日分の歩数データ同期完了。
自治体セキュリティ推奨:最新の「安心見守り証明」を更新してください』
画面に表示されたポップアップに、とし子は迷わず「確認」を押す。
指紋認証の画面が現れ、いつものように親指をセンサーに当てた。
「はいはい、これで今日も安心ね」
とし子は微笑みながらスマホをテーブルに置いた。
画面上では「更新完了」の文字が緑色で踊っている。
だが、彼女には見えていなかった。
その瞬間、バックグラウンドで起動した偽のシステムが、
彼女のスマホにインストールされていた大手ネット銀行のアプリをサイレント起動し、
今しがた読み取った指紋認証のトークンをそのまま流用してログインを完了させたことを。
「画面上に残るのは、本人が自発的に押した『承認』のログだけです」
警視庁の取調室ではなく、サイバー犯罪対策課の分析室で志村刑事が吐き捨てるように言った。
「被害者の端末に侵入しているのは、
かつて『蜘蛛』が開発したP2P型の分散プログラムを改変した『セル型トロイの木馬』です。
指示役は命令を出しません。
感染した端末同士が近接通信や日常のデータ更新に紛れて、
被害者自身のスマホに『自分自身を操作させるUI(操作画面)』を自動生成させています」
松永警部補は、提出された被害店舗の防犯カメラ映像を睨みつけていた。
そこには、コンビニのATMでスマホを操作し、
首をかしげながら数万円を引き出している高齢者の姿が映っていた。
誰かに脅されている様子もなければ、焦っている様子もない。
「被害者自身が、自分の手で口座から金を下ろし、
それを『自治体の指定口座』と信じ込んで自動送金マシンに投入している……。
これじゃ、端から見たらただの『買い物』や『振り込み』にしか見えん」
「はい。脅迫の要素が完全に消えています。
被害者は自分が犯罪被害に遭っていることすら認識していません。
だから通報も上がらない」
松永は深く息を吐き出し、窓の外を見つめた。
奴らが到達したのは――
「被害者自身を、自らの資産を差し出す無自覚な傀儡に変える」という、
極限までリスクを排除した悪魔のシステムだった。
「志村、この偽アプリの配信元を追え」
「それが……配信元が存在しないんです」
志村の言葉に、松永は振り向いた。
「どういうことだ?」
「感染経路はネットのサーバーからではありません。
地域の『スマホ教室』や『自治体イベント』で配布された、
SDカードや近距離Wi-Fiスポットを経由して、
草の根方式で物理的に感染が広げられています」
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「スマホ教室、ですか」
志村は資料をめくりながら眉をひそめた。
松永警部補が指し示した一覧には、
足立区内の地域センターや公民館で開催された
「高齢者向けスマホ教室」のリストが並んでいた。
明日、19:20 に投稿します。




