77. あなた
周囲の輝きが増し、また何も見えなくなる。
見えなくなったその先に、壮年の夫婦と、十代後半の女の子がいた。
何も話さないが、指で容の行く先を示している。気になって近づくと、女の子に抱きつかれた。夫婦もそれを見て、笑顔を浮かべている。この人達は、夢で見た――。
感覚が共有できる。この温かく優しい感情を、天贖に伝えたいと思った。
夫婦と娘の指し示す方向に、その天贖が見える。仰向けに体を投げ出し、荒い息で、苦しんでいた。
今までの比ではないほど、鮮明に天贖と感覚が共有できた。天贖も容と同じく、意識を繋げられるようになっていたからか。山ノ神を呼び出した時のように、まだ、天贖と自分の身体が結びついているような感覚がする。
天贖は枯れた声で、力を振り絞るようにして言葉を発した。
「俺にも、わかる。お前が何を考えているか」
天贖は悲痛に満ちた顔をしていた。
「少し、話をしていいか。もう、全て意識で伝わってしまう。その前に俺の言葉で話したい」
天贖は、肘で懸命に仰向けだった体を支え、起き上がった。両手を下につけながら、ぜいぜいと荒い息を整えるように、深呼吸をした。
「お前はさきほど、セイ……誠吾と話をしただろう。感覚を共有したはずだから、なぜこんなことになったのか、わかっただろう。だがその前に、今度は俺から伝える番だ。山ノ神の力で、俺が望めばお前に感覚を、映像を、伝えられる」
天贖の指の先には光の渦があった。その中に、薄ぼんやりとした影が現れ、形になっていく。誠吾だ。そして天贖もいる。
「お前の義兄は、妻を亡くした後、お前を想うようになった。抱えきれない愛しさは、しかもそれが許されない場合、俺達の血族は狂化への道を辿りやすい。セイは、自分がそうなる運命だと最初から悟っていた。なのに、あまりの愛しさに、お前を手放せなかった。だから俺に頼った。『殺してくれ』と」
誠吾の――今は容のものになっている家の中の光景が映し出される。
「セイ、死ぬのはまだ早い。獣になる前兆はない」
「天贖、姓は違っても、俺は山王寺の分家の男だ。狂化の件は、亡くなった妻に聞いた。妻は、わかっていたんだ。俺が容を愛することになると。俺は、俺は……容に知られたくない。容を俺が変えてしまうのが恐い」
「俺が毎晩お前と話をしに行く。セイの心が安定すれば、義妹を手放せるだろう。せめて、死ぬな。お前の義妹は何も知らない。俺がセイの後見人になる。――頼ってくれ」
「ありがとう……。天贖、変わらないな」
「そうか? セイもあの頃と、変わらないぞ」
渦が消え、蹲る天贖がやっとというように声を絞る。
「その次の夜、俺は狂化しかけたセイと、そばで倒れているお前を見た。お前を襲おうとしたセイのせいで、お前は机に頭を打ったのだろうと思う。獣の体に近づいていたセイは、俺にこう言った」
天贖はひとつ、息を吸い込んだ。
「『やっぱり殺してくれないと駄目なんだ』と」
音のない白い空間で、天贖の声はよく響く。
「狂化した人間は自分の愛する者への執着が激しく、真っ先にお前を殺しにかかるのはわかっていた。隣にいるのが、まだあどけなさを残した、か弱い存在だったから、俺は本当に心の底から……情けないことに、恐ろしかった。俺は気絶している容をとっさに後ろに庇うと、誠吾は涙を流しながら笑った」
渦が再び映像を映し出す。
「そうか。天贖なら、容もそのままで、幸せになれるだろうな。容を幸せにするには、俺は結を引きずり過ぎてる。……っ」
「セイ!」
「俺にはわかる。容は天贖を惹き付ける。容も受け入れる。容のために、俺は、天贖を殺人者にするわけにはいかない――っ。今の俺の腕なら、野獣のせいのように見えるだろうな。熊が殺したとでも言っておいてくれ。狂化のせいで、容のせいで死んだなど、思われたくない。天贖、それだけは隠し通して欲しい。天贖、容を――俺の『いもうと』を頼む」
獣の腕が自らを貫こうと振り上げられた。
「セイ、待て――っ」
また、視界から渦が消えた。
天贖が誠吾の絶命の瞬間は見せないように映像を消したのだろう。
容は誠吾の悲痛な心と行動を目の当たりにし、声も出なかった。
上半身を起こした天贖は、口を引き結び苦しそうにしながら白い地面の上で拳を握りしめた。
容は喉に無理やり息を通し、恐る恐る口を開いた。
「それで、義兄さんは」
「セイは、お前に血がかからないよう、失敗することのないよう、腹を自力で貫いた。するとセイは完全に獣の姿になった。――俺は誰も守れない。いつも俺のせいでこの手から大切なものが零れていく」
天贖はそう言うと、歯を食いしばった。それからのろのろと起き上がる。
「それから、天贖様と義兄はどうしたんですか」
「目を覚ました容は俺がもう一度気絶させた。俺はセイを助けられなかったことに衝撃を受け、激しく後悔した。それから、狂化した男は異常に生命力が強いことを思い出し、母上に助けを乞いに行った。母上は、獣の体の穴を埋めることなど造作もないと言った。なぜ、聞いてくれたのかはわからないが……俺は母上に助けられ、セイは命を取り留めた。だが、狂化は島の最重要機密だ。知られれば、女衆も黙ってはいないだろう。俺は隠し場所としてその時俺しか入れない山を選んだ。精霊の儀式を臨時で開き、精霊を降ろした俺は、寝床を抜け出し、山にまじないを張った。セイが逃げ出さないように」
天贖は荒い息をかみ殺しながら、続けた。
「最初は、お前を巻き込むつもりなどなかった。セイが狂化したことも、自殺したことも、お前に知られたくはないとセイは言った。正直、お前を憎らしくも思った。お前がいなければセイは狂化しなかった。だがお前には何の罪もない。セイの願いもあった。セイが恋情に身を焦がし狂化したことを、自殺したなどいうことを、お前が知ることのないよう、俺は正体不明の殺人者としてお前の目の前に立とうと思ったのだ。それが、償いだった」
天贖の凛とした瞳が容を見ている。それは、確かに、誠吾が亡くなったあの日に見た殺人者の瞳だった。
「しかしお前は諦めなかった。その必死に生きる姿を見て、俺は心を惹かれた。お前を、全身全霊で守ろうと思った。だが、幸せを手にした時、俺は狂化した……セイへの罪を背負うためには、この命を捨てるしかないのだと思うようになった。ただ、この島の皆の行方だけは心配だった。お前と太智が俺の後継になれば、島を守りながら、前を向いて生きていけるだろうと、そう思った」
天贖は柔らかな眼差しで微笑むと、ふと目線を落とした。
「セイは結果的には生き残ったが、俺が見殺したも同然だ。本当の両親も姉も、俺が手にかけている。俺はこんなにも弱く、殺人者だ。お前は俺を殺していい。それが一番いいと思っていたが、今のお前には無理なようだ。だから、俺はここに、山ノ神のもとに連れて行ってもらおう。人の世にはいられないが、お前をいつも見守っている」
「やだ」
結論など決まっている――容は、自らの天贖への答えがすんなりと出て来たことに、小さな驚きを覚えていた。
「やだって……お前は可愛いな」
天贖は苦笑いした。
「こんな時でも口説くんですか天贖様は。どうせあの世でもおモテになられるんでしょうね」
「そんな話をしているのではない……容。お前に会えてよかった。お前が俺を本当はどう思っているのか、そこだけ鍵がかかっているかのように見えないが、当然、俺を憎んでいるか、恐怖するかしているだろう。最期に見られた顔がお前でよかった。こんなに幸せでは、セイ、父母や姉に顔向けできないが」
天贖は笑顔で言い終わった後、激しく咳き込んだ。そして蹲り、額を真っ白な地面につけて肩を震わせていた。
相当に苦しいのだろう。
「……行け」
天贖から、人を殺したことへの絶望に似た悲しさが、意識として伝わってきた。そして同じく、容と離れることに対する哀しみも感じられる。天贖と違い、容は天贖の意識が、感情が、望めば全て感じられるようだった。彼は、自分を消すことで、容を遠ざけることで、償いたいと決心している。生への衝動が無く乾ききった心が多くの嘆きを抱え込み、今まさに山ノ神に連れて行かれ存在ごと消えようとしている。
容は何かを話そうと、懸命になって声を出そうとするが、何を言ったらいいのかわからなかった。
懺悔する貴方のことを、自らを殺そうとする貴方のことを、助けたかった。
でも、手足がないみたいに、動かない。
私は――無力だ。
でも、無力だからこそ。できることはひとつ。
「気にするな。別れは突然やってくるように見えるものだ。だが俺にはゆっくりと迫っていたんだ。罪の代償として」
言いたいことがある。容は、どうしても天贖に伝えなければいけないことがあった。
罪や罰とは、何なのだろう。生きているだけで罪? 人を欺くと、殺すと罪? 罪の分、罰があるの?
例え地獄に落ちる人でも、殺人者でも、家族はいる。私だけは許そう。1人ぼっちのこの男の家族になろう。
こんなに頑張っていた男が流れに還れないのは可哀想だ。せめて私だけは一緒にいよう、最期も、その先も。
精霊同士が互いに想い合い、愛し合うのなら、天贖と自分だけは一緒にいよう。
「私だけは、貴方を全部許すよ。例え貴方が如何わしいフェロモン男でも、密かにハウンドレンジャーに嫉妬するような心の狭い男でも」
ひとつひとつの音を、天贖へゆっくりと渡すように話す。
「――人殺しでも。私だけは、絶対に、許してる」
天贖が心の底から驚いている顔をしている。そんな顔も好きで堪らないのだ。
容の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「だって、だって」
ぽろぽろと流れるこの涙が。
「貴方だから」
貴方を潤して助けますように。
「貴方と、ずっと、鼓動を分け合っていくから」
思わず天贖の頭を抱えるようにして抱きしめる。天贖は座ったまま、動かない。それでも抱きしめる腕の力を緩めないようにしていると、天贖が容を抱き返した。
「容……っ」
天贖は縋りつくように容の首元に顔を埋め、震えながら泣いていた。
「愛している。容。愛してしまって、すまない……」
容が涙目のままふと見上げる。
光が粒となって舞い上がり、山ノ神が待つだろう空へと還っていくのが見えた。
力尽きたのか、容はそのまま眠りに入っていった。
ぼんやりとした意識の中、遠くで澄んだ風の音が響いていた。




