76. 山ノ神の顕現
「ここにおわす山ノ神よ。聞いてください」
頭痛がしない。誰とも繋がっている気がしない。精霊を呼び出す時とは違い、容は1人でやらなければならない。
――500年前は、綾乃を含めた女衆達が降ろしたために家長が消滅したのだ。山王司の血を引く天贖と、月島の血を引く自分ならば本来の力を発揮し、きっと成功できるはず――
「道を開きます。貴方様と繋がることができるのは、山王司の子と月島の子のみ。どうか、どうか――!」
「容の懐で、何か……対珠か! 対珠が光っておる! 山王司と月島、山ノ愛子――全ての条件が揃ったのじゃ!」
懐にある対珠が輝き、目の前が眩しくなる。それから、天贖と容の周りも光で溢れる。
綾乃の言う条件には、ひとつ足りないものがあると感じる。天贖と繋がるような感覚でわかる――山王司の子と月島の子の半身たる絆だ。山ノ神は降ろせる。そう、強く信じられる。
激しい山風が吹き、緑の葉が一面を雪のように覆う。切り株全体に新しい無数の芽が息吹く。山腹から水が溢れ出し、岩を突き上げる水柱が無数に立つ。
そして、頭上に山全体を覆うほどの巨大な靄が現われた。まるで雲のように白く、だが高さは低く、形はのっぺりとしていた。手足のようなもので、四つ足で山の裾野に立っている。
――山の神が現れた。だが、まだ容を通ってはいない。
「500年前の再来じゃ!」
綾乃は狂気をはらみ、愉悦に震えたようだった。
「さあ、おまえ様! 容を通って、容に降りるのじゃ!」
容に別の人格がしみ込んでくる。まるで魂と魂を交換するように、流れ込んできて、体全体が冷えていく。
「容!」
容の異常な状態を見て、天贖が前へと歩こうとした。
「そこにいて! 天贖様! 動かないで! 私は、やり遂げますから!」
自分が根底から変わるようだ。やめて、やめて、無くなりたくない。
一瞬、身体の中身を押し退けられたような感覚がした。
『綾乃……!』
容が自身とは違う声音で話している。天贖と同じくらいに低い声だった。
「おまえ様!」
声だけではなく、身体も変わっていこうとしている。顔の筋肉が、全身の筋が、烈しく引きつれる。自身の頬に触れてみる。このような骨ばった顔ではなかったはずだ。気が付けば、体型も、服さえも変わっている。
夢で見た、500年前に、男が着ていた狩衣姿だ。
『馬鹿なことを。死者を精霊から引き千切り、山ノ神の怒りを買うやもしれぬぞ』
「馬鹿なのはおまえ様じゃ。弟御の狂化が解けることを信じ、山ノ神を呼び出そうなどと。弟御は消滅してしまったではないか!」
『綾乃……。弟は、解放されたのだ。俺は、人生をお前と共に歩めたことを満足に思い、山ノ神に抱かれて精霊となった。これ以上の至福はない』
「おまえ様、……幸せだったのですか……?」
綾乃は呆けたような顔をして、問いかけた。
『そうに決まっている。馬鹿者め。しかし、その盲目さが、一途さが、俺は好きだったがな』
変わった身体が重く圧し掛かる。その中で、温かなものを感じた。天贖の意識だ。そうだ、天贖と自分は強い繋がりがあり、容の能力も天贖に流れていたのだ。その温かなものが、容を侵そうとしていた綾乃の夫の人格を包み、剥がしていく。容だけが天贖に抱きしめられている感覚がする。全て剥がれ落ち、容は元の姿を取り戻した。
「やっと容がおまえ様に変わったのに! おまえ様――!!」
綾乃の叫びを意識の底で聞きながら、容は今度こそ深く集中する。頭痛など生まれない。今繋がっているのは天贖とだけ。
温かい。気持ちが良い。
「山王司と月島は今繋がっております。その互いを想う心をのせます」
容は集中して祈るように両手を握りしめる。
「山ノ神よ、この罪深き男をお許しいただけるのならば、どうかこの身を通じ、男にお宿りください!」
轟々と音を立てて、容の中を山ノ神の塊が身体を巡る。手足が苦痛を訴え、内臓が破裂しそうな激痛が走る。
「――さあ、ここにあらせられるは神を宿すお方なり!」
綾乃が離れたところで狂喜の叫びを上げている。
「本当に神を降ろすとはな! ふふ、はは! 天贖よ朽ち果てるがいいわ!」
雷を集めたような轟きが聞こえ、天贖が掲げた右手に光が収束していく。
それと同時に、頭上の木々が揺れてからからと音を立てる。そこから差し込む光が真っ直ぐに祭壇を照らす。風が優しく降ってくる。舞台の周りを飾るように、土埃がたゆたう。
山ノ神を宿した天贖は、光の、風の、土の中心に立ち、目を閉じている。短かった髪が一瞬のうちに長くなり、髪色は淡い緑色をしていた。肌は真白く、神々しさを感じるその儚い美しさの中で、鹿のように生えた角だけが、雄々しさの象徴だった。やがて、目覚めるように瞼を開く。瞳も、緑色だった。
それから天贖は自らの手足を見、まるでその手足はたった今手に入ったかのように、静かに驚いていた。己の身体を両腕で慈しむように抱き、瞳を閉じる。
その時、わかった。
山ノ神も、天贖様が愛おしいんだ。
『愛すべき子よ。分かたれた半身が戻ってきたのか』
天贖から発せられたはずのその声は、天贖のものとは違うようだった。低く厳かな声は、山ノ神の言葉のように思えた。
分かたれた半身というのは、月島の血を引く容のことだろう。
――身体の苦痛で、容の思考が止まる。
神をこの身に通すという前例のない行為は、確実に容に負担を強いていた。段々と体中が痛みを訴えてくる。頭を貫き、足先まで届くような激痛が走る。まるで幻聴が起きているかのように、頭の中は騒音に苛まれ、気を抜けば昏倒してしまいそうだ。おそらく、天贖はそれ以上だろう。己の体に神を留めるとは、常人では想像もつかないほどに、今の自分よりも苦しいはずだ。
山ノ神はそれから周りをぼんやりと見つめて笑みを浮かべ、腕を開いた。風が回り、光が竜巻のように踊った。
誰も動けない。男達も、綾乃も、そしてこの自分も。
その中で、光だけが溢れ、目の前が真っ白になっていく。
もしかして、あの靄のような山ノ神の内部なのだろうか。
少し肌寒く、息を吐くがその白さえ見えないほどに周りは完全なる白色だった。辺りに何かないか手を伸ばして確かめるが、何もない。白い空間に切れ目はなく、永遠に続いているようにさえ思えた。
いつの間にか、痛みから解放されていた。
周りに何も存在しない、たった1人になるような感覚を覚えた。
そして、1人と1人が出会った。……獣の1人、セイは、誠吾だった。今は人間の形をしている。よく覚えている切れ長の目がこちらを見つめている。
「義兄さん……!」
わかる。感覚を共有している。
誠吾と一緒に暮らしている時の情景が目に浮かぶ。
一緒に暮らしていくうちに誠吾は結と容を重ねるようになっていったと容は思っていた。だが、誠吾はいつの間にか、結の代わりではなく、容そのものを愛するようになっていたことが、今、誠吾から流れ込む感覚からわかった。容は、今の今まで『結の代わり』として誠吾が容に助けを求めていただけだと思っていた。
過去の記憶が蘇る。
「1人暮らしをしたらどうかと思うんだ」
突然誠吾はそう言い出した。
わかった、と伝えた。別れは辛かったが、これ以上、結の面影を残す自分が、誠吾を縛りつけたくなかった。これを機に、誠吾には平穏が訪れると容は思っていた。
誠吾は、容を愛していた。そして誠吾は、そのことを容に言わなかった。
「あの時、私から離れようとしたのは、私のためだったんだね」
誠吾は話さない。頷くだけだ。
「義兄さんのためなら……言ってくれたら、言う通りに、何でも、聞いてあげたのに。死んじゃう以外なら、何でも」
誠吾は首を横に振った。
わかる。ああ、それが、一番、避けたかったことなのか。
私のために。――私を、変えたくない、と。
「私、天贖様が好きなんだ」
誠吾は大きく頷いた。そして、優しい笑みを浮かべた。
容からも笑顔を返した。もしかしたら、泣き笑いだったかもしれない。
「またね、義兄さん……いつか、精霊と繋がるその時に、会おうね」
誠吾は笑顔のまま、眩しい光の中に溶けていくように、消えていった。
きっと。いつか会える。
誠吾は結に。
そして、容も入れて、一緒に写真を撮った日のように。
3人で、笑い合って。




