75. なすべきこと
「わらわも初めて見たが、全て、天贖が忘れ去っていた記憶じゃ。後は、夢で既に見せたわらわの記憶が続きとなるわけじゃな」
綾乃の声に、容は岩肌の上で倒れていた天贖と共に目覚める。
「そう、おぬしはおぬしの家族を――わらわの子孫である、おぬしの父母と姉をその手で殺したのじゃ」
天贖は腕を地面につけ、項垂れたまま顔を上げられない。
「少しは記憶が戻ってきたのではないか?」
「嘘だ……。嘘だ! 俺が、殺したなど! 母上、これは貴女が作ったまやかしでしょう!」
「つくづく面倒な男じゃな天贖は。まやかしでないことくらい、おぬし自身が知っておろう? さあ、思い出せ、父を殺した時の感触を、母の、姉の骨を折った時の手応えを、血の匂いを!」
天贖はゆらりと立ち上がり、天を仰ぎ、涙を零した。泣くのを許されるのは、一粒だけとでもいうように。
「そうですね。母上は、以前おっしゃっていました。音と映像は伝えられるが、感触や嗅覚についてはできないと。俺の記憶の中には、確かにその五感があります」
「そうじゃろう。容よ。感触だけは、しなかったじゃろう」
容は戸惑いながらも遠慮がちに頷いた。
「はい……。その通りです」
「俺は記憶を自分で閉じ込めていたようだ。あらゆる記憶が戻ってきている。父の、母の、姉の俺に対する慈しみと悲しみの記憶が。そしてそれを壊した自分の記憶が。――母上、なぜ、俺に今まで知らせなかったのですか」
天贖はもう泣いてはいなかった。しかし、疲弊した顔が、彼の絶望を思わせる。
「知らせるべき時に知らせるためよ。天贖には容を失わせ、家族も殺したという絶望の中、研究所で生き地獄を味わわせてやるつもりだったがの、ファーザーとやらが使えん奴ならどうにもならぬ。目的を変えたのじゃ。容を目覚めさせ、天贖に復讐することに。天贖、おぬしを苦しめる他の方法もあるのじゃ。――容に関することであることは自明の理じゃろう」
綾乃はにやりと笑う。
「まあそれは後で教えてやろう」
「母上、貴女は500年生きている。これは代々の家長しか知らない事実だった。そして俺は、500年に1人の山ノ愛子だ。これが意味することは」
「おぬしにもわかっておろう? さあ、迎え撃ってやろう!」
天贖は絶望に満ちた目で、昏く強く、言い放った。
「貴女の凶行を止められるのは俺しかいない。――山ノ神を呼び出す!」
これは綾乃の罠だ。そして、そうとわかっていて、かかるしかない罠だ。
しかし、容にはできない。天贖が消滅してしまうなど、そのようなことはできない。
「容、唱えてくれ」
「いいえ」
「容」
「天贖様が消えてしまうなら、私は、そんなことやりたくありません」
天贖は俯きながら言った。
「俺は消えてもいい。罪人だ」
「嫌だ!」
容は天贖の元へ駆けて行き、後ろから抱きついた。背中に顔を埋める。
「もう私に何も失わせないでください」
天贖は胸の前に回された容の腕を、壊れそうな儚い幻のように、恐る恐る触れた。
「お前が大切だ」
「知っています」
「だからこそ、俺のそばにいてはならない」
「私も同罪にしてください。そばにいたい」
「お前に背負ってもらうつもりはない。わかってくれ」
天贖は容の腕をそっと外させ、向かい合った。顔が近づき、容は目を閉じた。唇が触れ合う。
「俺を愛してくれて――ありがとう。さようなら」
こんなに悲しい『ありがとう』は聞きたくなかった。そう言われるのが好きだったはずなのに。
そして、『さようなら』は一番聞きたくなかった言葉だった。
「どっちの言葉も要らないよ!」
天贖の胸に縋る。涙が止められない。
「どうしたらいい。どうしたら……」
天贖に身体をゆっくりと離される。彼はもう、全てを決めている。
天贖は綾乃と距離を取って向き合った。
「この、親殺しが。目の輝きが戻っておるとは何事じゃ」
「俺にはやるべきことがある。貴女の甦りを止め、狂化を抑制し、この島の悪しき慣習を無くす。そして何より、容を解放する。――こんな、殺人鬼の俺のそばから」
天贖は容に正面を向け、はっきりと言い放った。
「容。お前の義兄を殺したのは、俺だ」
その瞬間、肌の上を怖気が這い回った。
頭の中をこれまでの天贖との思い出がぐるぐると回る。人を傷つけることが嫌いで、許せない天贖が、殺人を。誠吾を殺したと。
しかし本当は、疑う自分もいた。なぜ、天贖は容を最初疎んじていたか。そして、今は守っているのか。理由は、親友だという誠吾の大切な存在が容だったからか。贖うつもりでもいたのか。
「山ノ神を呼び出し、殺してくれ。お前にはその権利がある。だがその前に。約束してくれ。男衆と共に俺の後を継ぐと」
「な……に……?」
全く意味がわからず、容は立ち竦んだ。
「太智と女衆を、男衆を、獣になった男も、守ってやってくれ。お前に教えるべきことは、全て教えた。お前なら、大丈夫だ。俺の代わりに、皆と幸せになってくれ」
「じゃあ、私を、妻にしたのは、後を継がせるためですか」
「そういうわけではない」
「でも、殺されてやるつもりだったんですか!」
返事はなかった。そのまま、天贖は、過去、祭壇だったであろう切り株の上へと跳躍し、軽い足音を立てて降り立った。切り株の側面は皮がめくれたように朽ちているが、根元から新芽が覗いている。
「私が貴方を殺したら、一生、私は独りだ……」
それほどまでに天贖を愛している。天贖以外を夫に迎えることは絶対にない。
「殺さなければ、私は、義兄さんより貴方を選んだことで、罪の意識に苛まれて生きる」
義兄のことも大切なのだ。義兄を殺した天贖と生きることにしたならば、それが容を苦しめる。
「どっちか、選べって言うのかよ! 嫌だ、嫌だ! もう何も、考えたくない!」
容は地面にくずおれて、溢れる涙を拭うこともできなかった。
「死にたくないって、言ってください! そうしたら、私は貴方の言うことを聞くよ……!」
「殺してくれと言った。俺の言うことを、聞いてくれるんだろう?」
天贖は祭壇の上で淡々と言う。
「聞けない! 聞けないよ……」
許せない。殺したくない。どうしたらいい。
「容。俺はお前の大切な誠吾を殺した。お前は俺に復讐していい。ならば、今やることは何だ。思い出せ」
――『神を降ろす』――
「強く願え。義兄の無念を、晴らしてやれ。そうして己を強く持て」
「嘘をつくな、天贖。容の義兄なら、そこにおるではないか」
そうして綾乃は指を差した。祭壇の外で吠えている『セイ』を。
本当に、義兄さんなのか。
誠吾がこのような姿でも、生きていてくれたならば、嬉しいと思う。しかしまだ信じられない。
天贖の言う通り、誠吾を天贖は殺している? 綾乃の言う通り、殺していない?
どちらなのか。
――それは、今から私がすることに、関係があるのか?
復讐のために心を強く持てと天贖は言った。
――天贖様に復讐したいかどうかが、今から私がすることに、関係があるのか?
天贖は、容が強く己を保てるよう、復讐という言葉を出したのだ。そして、自分は死ぬつもりなのだ。
――関係ない。
天贖にこれほどに愛されて
善悪の判断すらつかないくらいに愛して
どうして復讐などできるだろう。
想いが突きぬけていく。遥か遠くへ、遥か空の向こうへ。
義兄さんは、許してくれるだろうか。私を。
山ノ神は、許してくれるだろうか。天贖様を。
天贖への想いだけを持って、自分は神を呼ぶ。
どこまでも貫く。
信じている。
天贖の精神力も器も山ノ神を受け入れられるほどに、天贖と容との絆も山ノ神を通すほどに、強いと。
消滅などするはずがないと。山ノ神の一部にもならないと。
復讐のためにではなく、これから天贖様と生きるために、私は私のなすべきことをなす。




