72. 裏切りの訳
目的地の屋敷は、昔、山の中腹で精霊の儀式を行っていたため、山王司家が一時的に滞在するものだったそうだ。いわゆる別荘で、今儀式を行っている場所より高い場所に位置するとのことだ。樹達がいた広場とは逆方向に山を登る。森のおかげでやはり少し涼しく感じられるので山登りはさほど辛くなかった。しかし道中は獣道で、道を知っている天贖を見失うと迷子になりそうだ。
平坦な岩地に辿り着く。遠目で見難いが、巨木だっただろう直径4メートル、高さは2メートルはありそうな切り株にくたびれた青い布が上から掛けられている。もしかしたらこれが祭壇だったのかもしれない。他にも打ち捨てられた布の切れ端など、儀式の名残のある平地を見回す。すると、天贖が容を庇うように手を広げ、後ずさった。
容は天贖の肩越しに前を見て、小さく声を上げた。
「義喜さん」
義喜は両手に拵えの質素な真剣を1本ずつ持っていた。義喜の横には、楓が控えている。上にある屋敷――別荘だろうか、そこに繋がる階段の下にいた。
「天贖様……すみません……」
義喜の泣き出す寸前のような顔は憔悴しきっていた。
「俺は、お前が攻めてこない限り、戦う気はない。母上とは話をしに来ただけだ」
天贖は手を広げ、武器等は持っていないと示した。
楓の方は疲弊しているようだったが、口調ははっきりとしている。
「お母様は、天贖様と話をする気はないそうです。跡目は義喜さんに渡すと。天贖様には譲らないと。そればかりで」
「楓。おそらく義喜は跡目に興味はない。ここにこうして立っているのは、お前のためだけだ」
天贖が楓に言い聞かすようにすると、楓は思ってもみなかったことを言われたように口を押さえた。
「え……?」
「天贖様、俺、楓ちゃんには慎重にいくって言ったでしょ。何も言わないでください」
義喜が足元の小さな石をつま先で蹴って、一歩進む。彼が天贖を睨んでいるのは初めて見る。裏切り自体より、睨むその目が、容の心に痛みを与える。
「義喜、相談にのれずすまなかった。俺の狂化で、何も頼るところがなかったろう。じきに母上も下りてくるだろうが、今ならお前の本音を聞いてやれる」
天贖が慈愛に満ちた様子で話しかける。義喜は重苦しそうに胸を押さえて、何とか声を出した。
「俺は……天贖様を弟みたいに思っています。年上ですけど、天贖様を尊敬もしています。でも、俺が心を曲げないと、この場に俺が立たないと、どうしようもないことがあるんです。――さあ、剣を取ってください」
義喜は真剣の1本を鞘ごと天贖の足元に投げる。
「俺が取ると思ったか?」
天贖は足元の剣など気にも留めず、ただ前を向いていた。
「天贖様……!」
義喜が歯を食いしばる。
「お前のような兄の代えが、どこにいる。お前と戦うわけにはいかない」
天贖は真っ直ぐに前を向いて、義喜に本気であると伝えようとしている。
「剣も取らず、斬られるというのですか。どこまで辛い選択を俺にさせる気ですか」
「俺は母上に会わなければならない。斬られるつもりはない。避けきってみせよう。お前には気の毒だが、楓には義喜と俺の格の違いを見せてやろう」
天贖は長としての矜持を示すように腕を組んだ。
「来い。義喜」
義喜が一直線に天贖に向かって駆け、剣を突く――迷いのない一閃だった。
速い。
しかし、天贖は身を傾けるだけで避け、義喜の剣が空を斬った。
「まだ終わりません!」
義喜は円を描くように翻し、回転して天贖を横斬りにする。
避けられない、と容は思った。
天贖は地面を蹴り、義喜への頭上まで跳び上がる。
「かかりましたね!」
義喜は飛翔の途中で身動きのできない天贖を狙い、剣を頭上へ突き上げた。
義喜の誘導通りだったのだと容は悟る。
それでも、天贖は空中で身をよじり、剣をかわすことができた。
義喜が目線を落とすと、天贖は義喜の前に着地した。
義喜は歯を食いしばり、目を顰めた。
「天贖様、本当に化け物ですね」
「以前なら気にもかけなかったその言葉だが、今言うと冗談にならないぞ、義喜」
天贖は笑ってみせる余裕があったが、義喜にはそれがなかった。
「天贖様、私、土と岩の精霊を降ろします!」
容が岩地の崖近くから、大声で天贖にそう伝えた。
力で圧倒しているとはいえ、真剣だ。天贖が一瞬でも気を抜けば、そこで終わってしまう。
「今はいい。心配するな」
容の懇願はあっさりと否定された。
天贖は綾乃のことを考えたのかもしれない。万が一綾乃が害をなすようなら、綾乃こそを拘束しなければならない。
「心配するなとか安心しろとか、とにかく天贖様は1人で突っ走り過ぎます! でも、――そういうところも好きなんですよ。信じてますから、頑張って」
「俺の勝利の女神が俺を信じていると言うんだ。負けはしない。だろう? 義喜」
天贖は挑発するように笑うと、義喜の方に正面を向けた。
義喜は歯を食いしばる。
彼は迷ったような素振りを見せ、頭を振り、力技に出た。
天贖の肩を左手で掴み、右手で剣を刺そうと振りかぶる。
一瞬にも満たない間で、容が目で追えたのが不思議なほどだった。
だが、天贖の方が一枚上手だった。
天贖は振りかぶられた剣に正確に腕を滑らせる。
義喜が手の中の空白に気づく。既に遅かった。
天贖が義喜の剣の柄を握り奪っていた。
「――っ天贖様!」
天贖は剣を容の足元に投げた。
「遠くへやってくれ」
その言葉通り、容は急いで真剣を山道へと放り投げた。
丸腰になった義喜はそれでも諦めない。
天贖の顔の横を拳が掠る。
そう見せかけて、天贖の腹に膝を入れた。
「ぐっ」
それまで優勢だった天贖が初めて崩れたように見えた。
「義喜、強くなったな」
そう言って口の端を上げる。
天贖の踏み込みで、一気に土埃で前が霞んだ。
天贖が義喜の顎に拳をくらわせる。まるで閃光が空気を揺らすようだった。
義喜の顎がのけ反り、彼のうめき声が聞こえた。
最後には義喜の鳩尾に天贖の拳が深く入っていた。
「義喜、俺の攻撃が利いているだろう」
義喜は声を出す余裕もないのか、ぜいぜいと息を荒げている。そのうち、膝を折り、地面に腕がついてしまう。
階段の下にいる楓が、目を潤ませ、両手を握りしめ、叫んだ。
「義喜さん……! もう、もう、止めてください! 私が悪かったのです。私が辛いからって、義喜さんとお母様を会わせて、助けを求めたりなんかしたから!」
「ち、が……、楓、ちゃ」
義喜は肘をついて起き上がり、天贖から視線は逸らさないまま、楓に何とか話しかけた。
「楓ちゃんはさ、……っ、1人、で……辛かったんだから……助けを求めるのは当たり前じゃないの。それが俺で、――っ、嬉しかった……」
「でも、でも、義喜さんと天贖様が戦わなくてはいけないなんて! そんなの、酷過ぎます! お2人は、今まで、誰よりも助け合って、この私よりも義喜さんは天贖様に寄り添って、まるで本当の兄弟みたいに、様々なことを乗り越えてこられました! 私はあの時、天贖様の狂化とお母様の策略にもう耐えられなくなって、義喜さんを巻き込んだ……。でも、天贖様は狂化から立ち直られました! もう、もう、大丈夫ですわ。負けを認めて……!」
楓はそう嘆くと、涙を浮かべた。義喜はまだ苦しそうに息を弾ませている。
「楓ちゃん、お母様の企みはそれだけじゃない……。楓ちゃんが危ないんだ……」
「なぜ!? 何ですの!? でも、義喜さんも天贖様も、私にとって代わりのいない大事な方! この私に何があろうとも、ご自分を犠牲にするのはお止めください! 頼みますから」
「楓ちゃん。それだけじゃ……、ないよ。俺は天贖様に……腹を立てているんだ……もの凄くね」
「義喜?」
天贖はわからないといった様子だ。
「天贖様、兄貴分として天贖様を、……っ、諌めたことのない俺ですが、ひとつだけ、言わせてください」
義喜は身体をよろめかせながら立ち上がると、ぎっと天贖を睨みつけて、渾身の力で叫んだ。
「何で、何で俺を頼らないんですか!」
天贖も容も驚きで瞠目する。義喜がもがくようにしながら続けた。
「狂化した時に、天贖様が一大事の時に、俺が落ち込んだからって、何も言いに来ませんでしたね。心配してくれているのは知っていました……楓ちゃんに聞いたから。でも、それだけで傍から離せてしまうくらい、俺は頼りになりませんでしたか!」
「義喜……」
天贖は小さく呟いた後、言葉を失った。
「今だってそうだ。御家長として振舞うばかりで、俺よりも上の立場からしか物を見ていない。山王司家はこれだから嫌だ。俺が屋敷に初めて来た16歳の時から、女衆に『木戸姓は、分家は、わきまえろ』って言われてましたよ。お陰で情けない処世術が磨けましたけどね。本当に皆偉そうで、俺は木戸姓で、いつも仲間外れ。でも――天贖様だけは違うって思っていたんですよ、俺は!」
「この……っ、俺には仲間外れの意図などなかった! 義喜、お前が木戸姓に引け目を感じていたことは俺も感じていた。だがそれは俺とお前にとっては全く関係のないことだ。よく考えればわかるだろう!」
天贖も声を大きくし、義喜を叱るようにした。
「仲間外れの意図がなかったっていうのは、無意識にそうしたってことでしょう! もう、俺、天贖様差し置いて跡目ついじゃって天贖様みたいに見下してやりますよ!」
言いたくないことを苦しげに言うように、義喜の声には悲しさが混じっていた。
天贖は義喜を見、大きく息をする。沈黙の次の瞬間、彼は腹から声を張り上げた。
「いつ俺がお前を見下した! お前にはいつも助けられていた……! 蔵に閉じ込められていた俺に、お前はいつもこっそり会いに来てくれた。俺を思ってくれる人がいることが、どれほどあの時俺の助けになったか。跡目を継ぎ、より孤独に苛まれそうになった俺を、お前はいつも励まし、助けになってくれた。――あの時も! 友人を助けるために俺が唯一相談できるのがお前だった。お前は自分の危険も顧みず、助言をしては、最後まで、共に歩いてくれた。それが見下したなど! 有りうるわけがないだろう!」
「天贖様……」
義喜が呆然と天贖の名を呼んだ。
これほどに強く感情をぶつけることは、天贖にはあまりなかったことだ。義喜がどれほど大事な友人で、まるで兄弟のように互いを想い合っているのかがわかる。
容は岩地で立ち尽くす義喜へ、柔らかく話しかけた。
「義喜さん。私も同じ気持ちだよ。天贖様の片割れとして、言います。貴方は天贖様にとってかけがえのない人だ。どうか、見捨てないで。楓さんのことは、私達にも相談して」
楓が泣いていた目を擦って、前のめりになった。
「容様のおっしゃる通りです。義喜さん、私も、義喜さんとは一緒に天贖様を支えていきたいと思っています。私のことも、好いてくださっているのも、わかっています。それをわかっていて、相談に行った私のことを、理解してください。だから、義喜さんには、私と天贖様と、どちらも大事に扱う義務があるのですわ」
「天贖様、みんな……俺、俺は……!」
義喜は己の両手に視線を落とし、震えていた。
義喜は惑いながらも皆の説得を受け入れようとしているように容には見えた。




