64. 自動人形ではなく
「容、俺は急いでる。走れ!」
積乱雲が圧しかかる空の下で、浚地に腕を掴まれ、走らされる。運動用の草鞋の底から不揃いな岩の感触がする。容の息が切れるが、浚地はそのようなことなどお構いなしに、無理やりに引っ張る。容は頭を空っぽにして、楽な道に従うように、ついて行った。そうだ。ショックなことがあった時は自動人形になればいい。
「浚地、何で私のこと助けてくれるんだ……? 天贖様に何か言われたの」
「容は俺の大事な幼馴染だ。それはずっと変わらないよ。だから手助けしたんだ」
容の家は屋敷からそれほど遠くはない。農道を走ると5分と少しで家の瓦が見えてくる。その家を前にした時、着物を着た女衆が玄関の前に2人待っていた。
「俺の知り合いなんだ。容、俺は戻らなきゃいけない。涼音が危ない。2人に案内してもらって、船ですぐ島を出るんだ。急いで!」
女衆は諒子と薫だった。容も覚えのある人物で、しばらく会えなかった女衆であることも加わり、懐かしく思う。浚地と交友があったとは初めて知った。だが、この重苦しい心を抱えていれば、そのようなことは些事に過ぎなかった。
浚地はかなり急いでいるようで、来た道を戻り、走り出した。その姿を見送る容を、諒子が硬い表情で見やった。
「ご自宅から何か持っていくものはありますか?」
「いえ……、もう、どうでも」
「では行きましょう。船着き場までは少し歩きます」
後ろについて歩く。しかし――その瞬間、頭痛を覚え、容は背筋の凍る思いがした。
諒子と薫の意識が、容の頭の中の意識と共鳴するように伝わってくる。ここにもうすぐこの諒子の恋人が来る。そして――。
「浚地! 置いて行かないで!」
既に走り去ろうとしていた浚地が遠くでこちらを振り向く。
「私、殺される!」
そう叫んだ途端、諒子と薫は鎌を取り出し、容に襲いかかった。女の力では自由に振り回せない重さなのか、容は鈍い2人の動きに対応でき、避けられた。振りかぶられた鎌は雑草の生えた道に突き刺さり、それを持ち上げるのも2人は苦労しているようだった。
容には対抗できる手段などないし、2人を傷つけたくもない。力なく振り回されても、いずれは避け切れなくなるだろう。八方塞がりだった。
浚地が血相を変えて戻ってくる。それより前に、林の中に隠れていたらしい男が現れ、包丁を前に携えて真っ直ぐ走り寄って来た。
「容! くそっ」
浚地は男から一瞬にして包丁を奪う。男が反応する前に、正面から相手の両腕を切り裂いた。すると勢いよく血が噴き出し、男の腕を覆い隠すくらいの血が流れた。
澄んだ空気に血の錆びたような匂いが混じる。容は驚愕して口に手を当てて後ずさった。
浚地は興味がなさそうに男の苦しむ様を一瞥すると、容赦なく女2人にも包丁を突きつけた。
「きゃあ!」
薫が地面にへたり込んだ。
「薫さん、首謀者は、君だね。初めからこのつもりで俺に近づいてきたんだね。どうする? 逃げる? まだ、容を殺す気がある? あるなら俺、君達を殺すから。――いいよ、早く行って」
浚地の迫力に押され、諒子と薫は引き攣った悲鳴を上げた。それから男を連れてふらふらになりながら逃げた。
「浚地!」
容の悲壮な叫びに、浚地は困ったように肩を竦めた。
「一応手加減したよ。怒らないでよ。今はそんな場合じゃないでしょ。……それにしても何で狙われたのさ」
あのような光景を目にした上、包丁を使った後にも関わらず、浚地は普段と変わらず全く動じていなかった。容にはよくわかっている。浚地は人として持ちうるはずの何かが欠落しているのだ。
「薫さんは、天贖様が好きなんだよ。お義母様に見せてもらった天贖様の過去でも聞いた……昔から本気で好きなんだ。だから私を殺そうとした。いや、単に脅そうとしたのかも」
「そう。容はこの島に来てから本当に波乱万丈だな」
「その一言で片づけるなよ」
浚地は声を出して笑ってから、仕方がないとでもいうように、容に対して軽く息をつく。
「屋敷で起こっているのは殺し合いだ。俺はそこに行く。容も、すぐに島からは出られなくなったけど、どうする? ここで避難してる?」
薫は天贖を想って容を殺そうと、もしくは脅そうとしたのだ。容はそれを回避して無事に生き延びた。せっかく拾った命を、何に使う?
――天贖だ。いつも人形のように振る舞おうとする容の心を、熱く溶かす人。
「戻るよ。例え拒絶されようが、もし嫌いだと言われようが、私には関係ない。天贖様のところへ行く」
容の決心に対し、浚地は皮肉に笑って見せた。
「危険だよ?」
「浚地がそう言うなんて、もの凄く危険なんだろうな」
「そう。戦場には、今、猿とキジしかお供がいない状態で鬼に立ち向かってる人がいるからね」
確か桃太郎でお供は他に犬がいたはずだが、よくわからない。だが、どういった状況だろうが構わない。
何があっても、例え天贖本人が止めようと、この身体中に滾る決意の熱に変わりはない。
「私はきびだんごが無くても一生その人について行くよ」
「……わかったよ。容、生き延びろよ。――行くぞ!」
「うん!」
それから、2人は屋敷へ向かって駆けた。
今度は自動人形ではなく、容自身の心で走っていくのだ。




