63. 別離
人目のなくなった屋敷ならば天贖も歩き回れる。天贖と容で久しぶりに西棟の広間へと向かおうと廊下を隣り合って歩く。
天贖に狂化の症状が起きてからは、直大と直志は膳ではなく盆で居間に料理を運んでくれていた。今日は容も天贖もいつもより遅く起きたが、まだ直大達は居間まで来ていなかった。今は屋敷に女衆がいないため、容達がきっと広間に来てくれるだろうと思って、膳を用意してくれているのかもしれない。
風と陽光を入れるため、容と天贖で障子を開け放つと軽やかな音がした。それから広間の中を見ると、そこにいた直志と目が合った。彼は膳を上座に置くと、嬉しそうにこちらに駆けてきた。
「おはようございます。天贖様、容」
天贖は直志に頷くと、鎌のように鋭い手を挙げかけようとして、下ろした。苦い顔をして、挨拶を返す。
「おはよう。すまないな、直志。お前と直大に任せて」
「いいえ。天贖様が仕事抑えてると僕達暇だから、気にしないでください」
4つ目の膳を持って広間に入ってきた直大も、同感だというように頷く。
「そうですよ。私達にはこれくらいしかできないんですから、頼ってください」
4つ並んだ膳の前にそれぞれが集まる。テーブルで食べるのも悪くはないが、このように膳を内緒話のできそうな近い距離に置いて皆で食事を取るのが容は好きだった。
「私も手伝うよ。今日は、後片付けは私がする」
容が身を乗り出すと、横にいた天贖が言いよどんだ。
「……容、お前はまだ精神的に無理だろう。俺が言うのもなんだが、周りに任せておけばいい」
容に皆からの視線が集まる。酷く心配をかけてしまったのだなと気づくが、その気持ちが有り難いと感じた。
「私はもう大丈夫です。だって、私は天贖様を憎み切れません。殺せない……そんなことできませんでした」
容は吹っ切れたように大きな笑顔を浮かべた。ここ数日の憂鬱な気分が嘘のようだった。
「犯人が誰か決まったわけじゃないですし。天贖様は限りなく怪しいけど、でも、そばにいたい。結論は先延ばしにします。今は――天贖様には今生きている一瞬一瞬をかき集めて欲しいから! その中に、私はいたいから!」
直大と直志は唖然として容を見ていた。無理もない。一番信じられないのは自分だ。
天贖は喜ぶと思ったが、笑顔のような、後悔のような、複雑な表情をしていた。
「天贖様? 駄目でしたか……?」
「容。俺は……。――ッ」
天贖はいきなり立ち上がり、直大達に向き直った。
「襲撃だ。容! お前はここにいろ。直志、義喜を呼んで来い。大丈夫そうなら援護をして欲しい」
「わかりました」
「直大、俺と共に来い!」
「行きます!」
3人はあっという間に出て行き、容は広間に残されてしまった。しかし、前回よりも大人数を相手にしなければならないのであれば、女衆のいない今、容が天贖に精霊を降ろして圧倒するしかないだろう。容は天贖の言いつけを守らず表へ出た。
門に近い庭では既に天贖と敵が対峙していた。義喜も立ち直ったのか、その場にいた。
なぜか涼音達だけで、浚地はいなかった。しかし、4対4なら天贖がいれば勝てる闘いだ。
精霊を降ろすのも、宿すのも、体力を使う。浚地が遅れて来るのであれば体力は残しておかねばならない。容は迷い、今は精霊を降ろすことはしないと決めた。確か、直大達の話では、涼音達だけでなくあと数人来るはずだ。降ろすのはその時がいいだろう。
天贖がまずは涼音を潰しにかかる。天贖は狂化の影響か、前回と違い、興奮していて手加減をまるでしていない。涼音が驚愕した後、天贖を睨みつけた。
「この間とは違うわね。その身体、なんなの。毛に爪? 牙? 精霊を降ろしてるようじゃないけど、化け物にでもなったの?」
「ああそうだ。この姿では感情の抑制がきかない。抵抗されるとこちらも手加減ができない。死なないようにしてくれ。あと数人どこかに控えているだろう。一気に潰す!」
天贖が涼音との間隔をあっという間に詰め、爪で涼音の肩を思い切り掴んだ。深々と爪が食い込み、涼音のリネンのシャツが赤く染まる。彼女の顔が痛みに歪んだ。
「くっ」
怯んだ隙を狙い、天贖は涼音の脛を蹴った。鈍い音がして、涼音がその場に崩れ落ちた。足の骨が折れたのだ。
「綺麗に折れたはずだ。回復は早いだろう。その場で動かず休んでいろ。殺す気はない。――次!」
義喜達はそれぞれ涼音以外の敵と戦っている。天贖が加わればすぐにでも倒せるだろう。
「涼音!」
聞き覚えのある声がして、容は天贖へ向いていた視線を涼音に移した。――浚地だ。
天贖は浚地を見て何を思ったか、表に出て来ていた容の元へ駆けて来た。
「天贖様! 何で」
「こちらに来い! 蔵の中だ」
手を引かれ、容は訳もわからず蔵の中へ天贖と共に急いだ。鉄格子の窓から光が差し込んで、天贖の端正な顔と狂化のため獣のようになった手足が浮かび上がって見えた。
「先程の返事だ」
天贖は苦しそうに胸元を押さえる。
「俺のそばにいることは、駄目だ」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
「どう……して、天贖様も私のこと、好き……ですよね? 私達、夫婦でしょう?」
「狂化は徐々に進行している。このままでは俺はいずれ山ノ神の化身のように、化け物と呼ばれる獣となるだろう」
「化け物になっても、私は構わないです。そばにいられるなら」
天贖を殺せないとわかってから、天贖が完全に獣になったとしても愛すると誓っていた。
「容。この蔵に、俺は16歳まで夜は閉じ込められていた。俺の心はいつもここに戻る。暗く、孤独だった頃に。その中で、お前の義兄は小さな頃、俺の親友だった。友との時間は孤独を忘れさせてくれた。お前達がこの島に戻ってきて、俺はあいつと再会した。色々な話をした。俺達は長年親友だったかのように、楽しく過ごせた。でもあいつについて、わからないことがあった。それがわかった」
天贖はもう戻れない遠い場所を仰ぐように宙を見てから、目線を容へ戻した。
「お前に俺のこの業は重過ぎる。お前を変えたくない。自分の気持ちを殺しても、例え命を失っても。そう思っていたんだと」
天贖はまるで小さな壊れ物に触れるように、恐々と容に手を伸ばし、腕だけで優しく抱きしめた。
容の瞳から涙が零れ落ちて、止まらなくなる。
――この人は私を、全てを懸けて、愛しているとわかったから。
「容。お前にこれを返そう」
天贖は懐から布を取り出し、大事そうに布を開いた。――容の渡した、鷹の刺繍が入ったお守りだ。
「俺は羽ばたくことはできなかった。だが、お前がくれた一瞬一瞬は、得難い、何よりも大切な時間だった。その俺の一瞬一瞬を、お前が連れて行ってくれ。そしてできれば、俺と愛し合ったことを忘れないでくれ」
天贖は泣き続ける容の手に布を渡して、もう一度、名残惜しそうに抱きしめた。彼は苦し気に掠れた声を出す。
「行け。この島を出ろ。浚地について行け。家に戻り、支度をして、島を出るんだ」
蔵の扉を天贖が開ける。そこには浚地が待っていた。
2人は無言で向かい合っている。天贖は容の背中をそっと押して、浚地の元へと渡した。すると、浚地は容の手首をつかみ、引きずるようにして走り出した。力が強く、容には抗う術がなかった。
「天贖様……!」
天贖に届かないと知りながら容は手を伸ばす。
もし、引き留めてくれたら。手を握ってくれたら。何があっても戻るのに。
視界の端で、容に手を伸ばしたまま天贖が崩れ落ちる。目が合うと、彼は乞うように容の名を呼び、顔を歪め、やがて俯いた。
容は天贖が自分を好いてくれている、そばに置いてくれている――その事実だけを頼りに、天贖が狂化しても、何とか耐えられていた。本人から拒絶されては、もう立ってはいられない。




