60. 心臓に当てて
――3日目――
太智と過ごせる時間は安らぎのはずなのに、容は気分が不安定で、いつも通りに接することができなくなりそうだった。天贖は狂化が起き始めてから、太智には一度も姿を見せていない。自室に籠って、食事も居室の居間で容と天贖で取っていた。太智とは直大と直志が一緒に食事をしてくれている。
容は太智の部屋に行き、屈んで彼の両肩を優しく掴んだ。華奢なその肩に背負わせているものを思うと、目の奥が熱くなりそうだった。
「ごめんね。太智。私、天贖様のご病気が移っちゃったのかも」
「容、お前、無理し過ぎなんだよ。俺にできること、ないのかよ」
太智は不安で落ち着かない様子だった。
「天贖様と2人で、ゆっくりしているよ。何かあったら、直大さん達に頼るといいよ」
「容、なんの病気なんだよ」
「ただの風邪だよ。病気の時は精神が不安定になるだろ? だから、ちょっと辛いけど、天贖様と2人なら、私、大丈夫だから。心配しないで」
天贖が直大達に言ったことと同じようなことを、容も太智に言っている。ああそうか。こういう気持ちだったのか。
子供を頼りになどできない。どうか、健やかでいて欲しいと。
「太智、今日から恵さんのお家に行くんだよ。私が太智に病気を移したらいけないから。直大さんが後で送ってくれる」
「俺、知ってる。俺が恵さんの家に行くのは、天贖様と容の病気の他に、何か大事があるからなんだ。男衆が、戦ってる」
「いつか、大きくなったら、太智も誰かの力になれるよ。今だけは、自分のことを考えて。太智を危険な目に合わせたくないんだ」
太智は悔しそうに俯いた。容が太智の頭を撫でると、彼は最初嫌がったが、しばらくすると鼻をすする音が聞こえた。
「うっ――」
「大好きだよ、太智」
夕食後、容は炊事場に行き、料理を作ってくれた直志からお盆を貰った。天贖の分だ。彼の爪では、箸が持てない。スプーンやフォークで食べられるような食事、今日はシチューだった。
直志の目を盗んで、あるものを持ち出す。――天贖のためだ。
料理を天贖の居室の居間に運ぶと、天贖は手を合わせてから食べ始めた。容はテーブルに肘をつき、頬を両手で包んで、向かいにいる彼が食べるのをじっと見つめる。人差し指と親指だけでスプーンを持っている様は、食べにくくて可哀そうだと思った。
「そのように見つめるな。食べにくい」
「天贖様には羞恥心がないんじゃなかったんですか」
「確かに、女衆に見つめられても平静でいられるが、お前に見つめられるのは、そうではない。ましてや今は、こんな姿だ」
「私が大好きな天贖様のお顔は変わっていないし、大好きな身体はまるでツタで彩られるように毛があって背徳的です。見つめている私は楽しいですよ。牙は、ちょっと恐いですけど」
天贖は決まり悪そうにしていたが黙っていることにしたようだ。爪と食器がぶつかって時折カチャカチャと音がするのが、容にとっては微笑ましかった。しかし、狂化が進み、気が狂ってしまったら、天贖はどうなるのだろう。もう、家長ではいられまい。山で暮らす他ないだろう。――たった独りで。自身を哀れむ心もなく。
天贖は食べ終わると手を合わせ、食器を片した。
「容。太智にこの姿は見せられない。悪いが後で――」
天贖は畳に座り込んだままの姿勢で固まった。背後から、容が身を寄せて来たからだ。
「私は貴方を殺します。天贖様」
――包丁を天贖の背中に当てて。
「大丈夫。独りにはさせません。私もすぐに、貴方の後をついて行きます」
容は包丁を持ったままの体勢で、心の底から叫んだ。
「貴方を恨んでいます。でも、大好きです。狂化が完成する前に、2人死ねばいい」
天贖は慌てた様子もなく、容に向き直った。
容は包丁を持ち、天贖の胸の――心臓の位置に当てた。
「殺してくれ。お前になら、心臓を抉って渡してもいい。だが、お前は死んではいけない。お前には太智がいる」
「――っ」
そう、太智を残して2人死ぬのが心苦しかった。天贖と共に育てようと、強く思った、我が子にも等しい存在だ。
「立派に育ててやってくれ。俺のように、弱い人間にならないよう、強くしてやってくれ」
天贖は今まさに殺されようとしている人間だとは思えないほど、穏やかに笑っていた。その笑顔は、容が好きで好きで堪らないと思っていた時のものと、寸分の違いもない。
「天贖様は、弱い人間なんかじゃありません。強い人ほど、優しい人ほど、自分の弱さを隠さない……」
容は包丁を放し、その場に泣き崩れた。
「貴方が好きです。天贖様」
「俺もだ……容」
天贖は容に手を伸ばしかけ、途中で止めた。爪で傷つけると思ったのだろう。その代わりに、容が泣き止むまで、天贖はその場にずっととどまっていた。




