59. 意志を、精神力を
――2日目――
天贖は狂化がこれ以上進行するまでは自室にいることにしたのか、直大に指示をして仕事の資料を持って来させていた。
太智は学校の後、友達と遊ぶのだと言って出て行ったため、容は思考から逃げるようにいつもの通り天贖の仕事を手伝った。電話をしたり、資料整理をしたりと、簡単な仕事だ。しかし、精神状態が妨げになり、全く集中できないでいる。だから物音が近づいて来た時にはすぐ気がついた。訪問者よりも先に障子を開けると、予想通りの人物がいた。
「直大さん、直志」
抑揚のない容の声に、2人は痛ましそうな顔をした。
「容。そんなに辛くて、憎いなら、何で天贖様のそばにいるの。離れてた方が楽なんじゃ」
容にとってそれは説明の難しいものだった。憎らしいから容の言動に傷つく天贖をそばにいて見ていたい。愛しているから傷つく天贖のそばにいたい、天贖の心を繋ぎ止めておきたい――きりがない。表裏一体の感情が、塊になって、胸に渦巻いている。
「伴侶だから、そばにいるんだよ。憎いだけじゃない」
「離れた方が天贖様の狂化も止まるんじゃ」
「私にはわかるよ。私が去れば、今度こそ天贖様は自分に絶望して、狂化が完了して、化け物になる」
重い沈黙を破って、直大が直志の肩を一度軽く叩く。
「直志、気持ちはわかるが、これは当人同士の問題だ。俺達にできるのは、天贖様と容さんの支えになることくらいだ」
「兄さん……うん。わかった」
直大と直志は目線を交わした後、部屋の中へ招き入れようとする容に従って入っていった。
奥の書斎で、天贖は椅子に座って帳簿と睨み合いをしていた。首から上は獣の毛が生えておらず、牙がなければ、狂化が起きていることもわからないくらいだ。
「天贖様。直大さんと直志です」
「ああ。容、ありがとう。話があるのだろう、居間で座って待ってもらうようにしてくれ。容も、今日の仕事はもういい。直大達と座っていてくれないか」
「わかりました」
仕事なら、自然体でいられる。気持ちの介在する隙間があまりないからだ。
容は居間に2人を案内し、座って待っていてもらうと、天贖が5分後くらいにやってきた。直大、直志とテーブルで向かい合って座っていた容の横に天贖が座り込む。
「天贖様、あの夜から、あまり変わっていませんね」
直大の驚いた顔に、天贖は苦笑して言葉を濁した。
「直大、直志、報告を待っていたぞ」
直大が軽く頭を下げた。
「お待たせして申し訳ございません。報告というのは、お母様が前に――ちょうど容さんが来た日でしたが――お会いになっていた外国人と接触があったことです。おそらく組織の者でしょうね。近いうちにまた屋敷が襲撃されるでしょう。今度は人数が増えるようです」
「だろうな。すまないが、お前達にも今度は力を発揮してもらうことになるだろう。仕方ない」
「私にとっては待ち望んだことですよ。天贖様のお力になれるのなら」
「そうか……。報告ご苦労だった」
容は話を理解はしていたが、反応する気力がなく、そのまま聞いていた。ぼんやりと壁掛けの時計を見つめる。この時計が進んだ先にあるのは何なのか、予想する気力もない。
「母上はおそらく、俺が捕まり、研究所で玩具にされるのを望んでいるのだろう」
直大と直志はまさかという顔をしたが、容には納得できた。綾乃の天贖への執着心と憎み様はそれほどに強いものだった。
「不安なのは、容だな」
「……何か私に不手際でもありましたか」
駄目だ。あの夜から、素直になれない。
「違う。容は、俺に対しての最高の責苦となる。目の前で殺されたりでもしたら俺は壊れる。……母上はそれを見たいのかもしれない」
「私が死ぬくらいで、天贖様が壊れるなら、死んでもいいですよ。それで天贖様が組織の人を倒せばいい」
「何を言うんだ! 俺は誰も犠牲にはしない。――直大、女衆にまた暇を出せ。敵が攻め込んでくるまでそうするしかないな」
天贖が激昂すると、直大が礼をして従った。
「かしこまりました」
「義喜はどうしている? 俺の狂化にあいつが一番堪えていたようだが」
天贖の言葉に、直大と直志は困ったように顔を合わせる。直志が躊躇いがちに話し出した。
「天贖様、義喜さんは、珍しく落ち込んじゃって。楓さんが心配して、面倒を見てくれてます」
「あの人も、落ち込むことがあるんですね。能天気な男だと思っていましたので、予想外ですよ」
「直大。義喜は情が深い。人の反応に聡いのも、そのためだ」
情が深いのは、天贖も同じだ。いや、天贖は御家長で人を統率するべく、親しい者以外とは慈悲の心で接している。それが義喜とは違うところか。義喜は慈悲というよりは、親切だ。
「この姿を見るのは義喜には辛いだろう。楓に任せておけ」
「ですが……」
直大が言いよどんだ。
「何だ」
「楓さんが義喜さんにかかりきりで、流石に心配です」
「良く面倒を見てくれているならそれでいい。今の俺にはどうしようもない」
2人は頷くと、天贖を不安そうに見つめた。直大が天贖の姿をつぶさに見る。
「天贖様、狂化は徐々に進んでいるのでしょうか。ご気分に変化は?」
「大丈夫だ。心配ない。お前達も、このような恐ろしい姿に怯えたりはしないんだな。俺は周囲の者に恵まれている」
天贖の静かな物言いに、直志が涙ぐむ。正座した足の上で力の限り手を握り締める様は、当事者である天贖よりも辛いのではないかと思うくらいだ。
「僕は、天贖様が完全に化け物になって、理性を失くしちゃったら、とても辛いです。何か僕達にできることがあったら、何でも言ってください、頼みますから」
直志が真っ直ぐに感情を伝える。彼らしいな、と容は働かない頭で思った。
「私からも頼みます。天贖様」
直大はこらえるように拳を握り、俯いた。直大の必死な様子を、容は見たことがなかった。
「直大さん、直志。ごめんな」
「なぜ、容さんが謝るんだ」
直志が続く。
「そうだよ。容は悪くない。これは兄さんが言った通り、お2人の問題だよ。でも、できることがあったら、言って、お願いだから」
「ええ。容さんも、無理をしないでください」
直大が容に丁寧で優しいのはいつもだが、このように心配げな眼差しを向けられるのは初めてだった。
容が小さく返事をすると、直大と直志は部屋を出て行った。
容は隣に座っていた天贖にしなだれかかると、くすくすと笑った。
「心配ない、だなんて。天贖様は嘘つきですね。段々、狂化が進んできているのに」
「俺の様子など、伝えて心配させるのは本意ではない。何かあればそれまでだ」
天贖は静かな様子で、強がりも誇張もないのだと容にはわかった。
「本当に抱え込む人ですね、天贖様は。それに、普段は穏やかなのに、肝心なところは強引で、自分勝手です」
「お前にそう言われると堪えるな。――直大達には悪いと思っている」
容は天贖の頬を両手で包み込み、うっとりとその顔を見つめた。
「綺麗です。天贖様は、化け物になっても、綺麗」
「褒められているのかどうかわからないな」
天贖が苦そうに笑う。
「これ以上なく褒めていますよ」
容は天贖と額が触れ合うほどの至近距離で顔を合わせた。
そのまま牙に手で触れようとすると、天贖に顔を逸らされた。天贖へ伸ばした手を拒否されることなど一度もなかった。容は傷つくが、天贖が牙に触れられたくないのなら仕方ないと、諦めて手を離した。
「いつ頃、狂化は完成するのですか」
「わからない。俺が知っている狂化とは、一瞬にして山ノ神を模したような野獣に変わるものだった。このように徐々に変わっていく者の例を聞いたことがない」
確かに、樹が狂化した時には段々と変化があったわけではなく、突然のことのように見えた。精霊を降ろした時に自らを保つには才能や精神の強さが必要で、天贖にはそれがあると綾乃が言っていた。また、天贖は狂化とは精霊に精神と身体を食われる現象だと言っていた。ならば、天贖は精神が強く才能もあるために、それを食われることに耐性があるのかもしれない。
「天贖様は意志が、精神力がお強いから、なかなか狂化が進まないのかもしれないですね」
容から笑顔がそぎ落とされる。
「その意志を、精神力をズタズタにしてやりたい」
天贖が傷ついたような顔を一瞬見せた。
ああ、とても可愛らしい。
「……嘘ですよ」
それこそ嘘だ。本気だった。
憎らしさは、穏やかな日常に突如現れ、容の心も天贖の心も蝕んでいく。




