5. 亡き人から残されたもの
トラックに揺られ、たった5分足らずで目的地に着いた。住み慣れた容の家は、離れると決めた今も、誠吾と過ごした大事な場所だ。雪深かった頃、確か屋根の雪下ろしをしないといけないと話していた。今は初夏の陽気で、涼しさは残るものの、周りは既に緑の植物が芽吹いている。
木造2階建ての屋根の上にはツバメが2羽止まっていた。番だろうか。容が近づく物音のせいか、何も鳴かず、羽をはためかせて離れていった。旅立つその姿を見送るのが、どこか切なかった。自分は、結も誠吾も見送ってきた。
顔を下げると、誰かの息遣いが聞こえたので、玄関からすぐ左を見た。縁側では、浚地が大の字に寝ながら伸びをしていた。
「浚地!」
呼ばれた浚地はさっと起き上がり、庭にいる容と目を合わせた。
「容、おかえり。この方は」
容の後ろに控えてくれていた男が前に出る。
「あぁ。引っ越しの手伝いに来てくれたんだよ。木戸 義喜さん。そんなに荷物もないから、トラック1台で足りるだろうって、楓さ――お屋敷の人が手を貸してくれたんだ」
浚地は最初面食らっていたが、すぐに納得したようだった。彼が上半身を起こし、縁側で立ち上がると、古い家だったためかわずかに床が軋む音がした。
「じゃあ住み込みで働くのが決まったってことか」
容が頷くと、浚地は「良かったな!」と容の背中を何度も叩いた。浚地は馬鹿力なので、少し痛く、目を顰めると彼は申し訳なさそうにした。
「浚地は、よかったらこの家にいてくれないかな? 私も時々帰ってくるし、浚地がこの島で何かするなら、拠点は必要だよね?」
「わかった。じゃあ家賃タダだな」
浚地はいけしゃあしゃあと、しかし爽やかにウインクなどしてみせた。
「浚地はいつもそう」
要領がよく人懐こい浚地を見ていると、まるで世界が自分を中心に周っているのを信じていた子供の頃を思い出す。誠吾との思い出の詰まったこの家に、浚地ならいてくれていい。いや、誰かに、浚地に、この大切な家の小さな世界を自分の代わりに見守ってもらいたいと思った。
「いつもそうって?」
笑顔で問う浚地に、こちらも笑顔で返した。
「浚地らしい、お願いの仕方だねってことだよ。家賃はもちろんいらないよ。好きに使って。時々、私、帰ってくるかもしれないけど」
「サンキューな。さっ。そうと決まれば、引っ越し引っ越し」
浚地が縁側に差し込む陽光の中で、また伸びをした。「肩こりってどんな感じ?」と聞いてきたことのある浚地としては、伸びは単に物事を始める時のきっかけのようなものなのだろう。
「いいよ、自分でできるよ」
「木戸さんがいるんだし、早く済ませた方がいいだろ」
後ろから見守っていた義喜が「気にしないでいい」と言ってくれたが、浚地の言う通り早く済ませて解放してあげたほうがいいだろう。多分、いつもの仕事を置いて、こちらに来てくれたのだ。
「じゃあ、浚地、お願い」
「お任せあれ」
気取った態度で決めた浚地に対して笑ってから、容は義喜に声をかけた。
「荷物、詰めるので、しばらくお待ちいただけますか」
「はいよ」
義喜は満面の笑顔でそう答えた。2人して玄関から入り、靴を脱いですぐの居間に義喜を案内する。
昼の日差しが入り込み、電気をつけなくても明るいので、そのままにしておいた。居間の奥、壁際に吊るされた円い古びた時計が、13時半を指している。日差しが強いのも納得の時間だ。冬は炬燵、夏はただのテーブルになるその場所に義喜を案内すると、「ありがとね」と言われ、彼はテーブルの前で胡坐をかいた。
その様子に、容は、気負わない人だなとふと思った。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、和菓子を用意して義喜の前に出すと、小さく礼をされた。容も礼を返して、自分の部屋へと向かう。
「ごめん遅くなって」
「ぜんぜん。必要なものだけ持って行けよ。後はこの家に残しておいたらいいんだ。君の家なんだからさ」
「うん」
生活に必要なものといえば、まずは衣類、洗面道具といったところだろう。あとは……。
「マイ茶碗とマイ箸はいると思う?」
首を傾げて問うと、浚地は面倒そうに顔を顰めた。
「……あのお屋敷だったらいらないんじゃないか。料理は勤めてる人が作るんだろうから、止めとけよ」
「どうして」
「成人した女がはにかんだ顔で『これ、私のお茶碗とお箸なんです。使っていいですか(もじもじ)』って言うのを想像してみろ。あざと過ぎるだろ。この天然。他の女性陣に嫌われるぞ」
「お前の目に私はどう映っているんだよ!? あ、でもかなり年上ならお兄様方の好感度が上がるかもしれないな」
「そんなんで好感度が上がる男は若い子目当ての業が深い変態なんだから選んじゃいけません」
「そうか、ないかぁ」
部屋の外の食器棚へ向かおうとしていた足を止める。浚地が「マジだったのか……」と呆れた様子で呟いた。
無視して部屋の隅に置いてある机の前に立つ。いずれ何かを勉強したくなったら使えばいいと誠吾に言われて買った作業用の机だ。その目の前の棚のよく見える位置に置かれた、結と、誠吾と、容の写真立てを手に取る。遊園地ではしゃぎ回った時の写真だ。結と容が誠吾に後ろから肩を組まれている。
突然目の前が霞んだ。
「おい! 容」
「何?」
「いや……」
「視力、悪くなったのかも」
「そうか」
「前が見えない」
「……いずれ見える時がくるって」
突然、今度は目の前が真っ暗になった。浚地がその辺に散らばっていたタオルで容の顔を隠していた。そのままぐりぐりと押し付けられる。
「な、っにするんだよ」
「ほい、もう見えるだろ」
「あ、本当だ」
今更気がついた。今、自分は泣いていたのか。
普段は意識の奥底へと押し込んでいる苦しさが、少しのきっかけで浮上してくるのに、まだ慣れないでいる。
溢れそうな涙を抑え、目を閉じる。目に浮かんだ光景を思い巡らす。
思い出の中で、誠吾が珍しくはしゃいでいる。この頃は、誠吾も結も20代半ばで、彼らが結婚する直前だった。
「容、君は右! 結は左な!」
テーマパークの噴水の前で写真を撮ってもらおうと、三人並んでポーズをどうするか考えていた。誠吾がふざけて後ろから2人をいっぺんに抱きしめた。
誠吾が、彼女の結だけでなく、結の妹である容のことも可愛がってくれる人で、容は嬉しいと思っていた。力があって普段は容を持って高い高いまでしてくれるし、勉強も見てくれるし、大好きな将来の義兄だった。
だからこのように結と一緒に可愛がってくれて、嬉しかったのを覚えている。
「わっ、誠吾さん重いよ」
「あはは、私も重い~」
姉妹そろって笑っていると、テーマパークの職員が「はい、チーズ!」と言って誠吾のデジタルカメラで写真を撮ってくれた。
重さから解放され、誠吾がデジタルカメラで今撮った写真を確認しているところを、容が横から眺める。
「わ、よく撮れてるね。良い笑顔だ」
誠吾に向かって容が嬉しそうに話しかけた。だが、誠吾は画面を食い入るように見たままで、こちらを見なかった。
「……2人は本当によく似ているね。瓜二つだ……」
静かな熱を持った口調だった。
「そうかな?」
容はやんちゃで、結は大人しいし、結の方が美人で年も離れている。そのため似ていると言われても実感がわかない。
結は、容の横で黙っていた。
「……」
先程の笑顔が嘘のように、結は暗い顔で思慮している。どうしたのだろうと思い名を呼ぶと、元気な声で返された。
「次、ジェットコースター! さあ、行くわよ!」
結に手を引っ張られ、早足で歩かされる。テーマパーク内をかなり歩き回った後なので、少し休み休みいきたいものだ。
「ええ、ゆっくり行こうよ」
「もう、私の妹なのに情けない。今、この一瞬一瞬をかき集めるためには、腕を大きく広げて走らなきゃ!」
結は、両手を大きく広げて、駆けて、容を連れていった。テーマパークの屋根付きのアーチを過ぎたところで、長い髪をなびかせて容を振り返った。容の視界に一斉に入り込んだ光が溢れて、結はそこに溶けていきそうなくらいに輝いていた。
「そうしたら、後悔しないわ」
どこか寂し気で、なのに満面の、美しい笑顔だった。
結は、誠吾は、息を引き取る時に、後悔しなかっただろうか。いや、後悔したに違いない。
結は誠吾と容を残して行ってしまった。今思えば、結はあの時には覚悟していた。
そして、誠吾も突然、容を残していった。
「いい写真じゃないか」
気持ちは沈んだままだったが、浚地に申し訳ないと思い、笑顔を作る。
「何か思い出の品を持っていきたいんだ。あと、どれにしようかな」
思い付いて、作業机のすぐ下にある引き出しを開けた。
「あった」
まんべんなく刺繍の施された布地で作られた、10センチほどの四角い袋だ。蓋を閉められるようにボタンが留めてあり、ストラップのように短い紐がついている。
「それ、なんだ?」
「お守り。鷹の刺繍がしてあるんだ。お姉ちゃんはいつも、腕を大きく広げて走らなきゃって言ってたんだ。だから翼を大きく広げた鷹のように、その時の一瞬一瞬をかき集めて、どこへでも飛んでいけるようにって思って私が作ったんだよ」
中身は神社のお守りだったが、返納した。もう、何も入っていない。
「大事にしてくれてたから、捨てるのは忍びなくて。持っていこう」
「結さんを思う気持ちが、今度は容に返ってくるんじゃないか。きっと容を守ってくれる」
「うん。だといいな」
浚地の気遣いも、結の思いが宿ると言ってくれたことも、心が震えたように嬉しかった。




