57. 狂っているのは同じ
容は天贖の居室の居間で、彼の帰りを待つことにした。運が良ければ、夕食前の時間帯に、天贖に会えるはずだ。その時、ふと物音がした。
「容、どうした?」
天贖が普段通り容に声をかけた。容が振り返ると、天贖は慌てて容の肩を両手で掴んだ。
「なんだ。何があったんだ。そのように落ち込んで――」
抑揚のない声で、容は天贖に問いを投げた。
「何で、言ってくれなかったんですか?」
「容?」
「私は、月島家は山王司家の分かれた半身で。天贖様は義兄さんと幼馴染で。……何も教えてくれなかった」
「容……」
天贖は痛々しげな顔をすると、黙り込んでしまった。
「義兄さんは、生きてる? 家系図に何も死因が書いてなかったのは、生きてるからじゃないですか――?」
「お前の義兄は、死んでいるだろう。家系図は、母上が管理している。母上は死因が気に入らなかったのかもしれない」
「その気に入らない死因って何ですか。熊が殺したってことじゃ、ないんですね?」
容が顔を寄せて必死に天贖へ迫る。天贖は苦しそうに黙り込んでしまった。
「何で、幼馴染だって、黙ってたんですか」
「……」
また沈黙だ。
「ねえ、天贖様がもし義兄さんを殺してたら、動機はきっとしっかりありますね。幼馴染だったら、積もる話だけじゃなく、積もる鬱積も、もしかしたらあったんじゃないですか? 天贖様が殺したんじゃない……ですよね?」
「……」
天贖は否定も肯定もせず、俯いているだけだ。
「でも、でも、違いますよね。天贖様は絶対に、義兄さんを殺してなんか、いないですよね。だって、天贖様はいつも皆を、私を守ってくれる」
それでも天贖は口を閉ざしたままだった。
容の胸の中で不安が膨れ上がり、泣きそうに叫んだ。
「何で何も言ってくれないんですか! ただ単に、首を横に振ればいいだけじゃないですか。殺していないって!」
「容、俺は何も言えない」
「なぜ、言えないんですか!? 天贖様が殺したの?」
それに対しても答えがなかった。
「言えないってことは……殺したってこと?」
天贖は苦しげに口を閉ざすだけで、何も言わない。
「ねえ、何か言ってください。天贖様なら、狂化してなくても、素手で人間に穴を開けられる! 人を殺しても目撃されても、平静を保つ精神力だってあるでしょう! 天贖様なら島民が殺人をもみ消すでしょう! 熊の毛とかは島民が用意できる」
喉が引き絞られる。頭の奥が酷く痛む。視界の中、床の間に生けられた花が滲む。
「嫌だ。天贖様……大好きです……」
容はその場に泣き崩れた。天贖は容に手を伸ばしかけ、止めた。
「やはり、俺はお前に届かない。届かないことをいつも思い知り、思慕の念に囚われるしかない」
「違う! 届かないんじゃない。天贖様が自分で届かない場所へ行ってしまってるんです! どうか、私の言葉を否定して! 殺してないって! そうしたら、お互いにすぐ届くよ……!」
「容。――ッ」
天贖が胸を押さえ、ふいに苦しそうに蹲った。
「天贖様?」
「そうか。これか。抱えきれない、貫くことのできない、報われない愛しさで、人は狂うのか」
「天贖様、苦しいんですか、どうしたの……? ―――っ」
蹲った天贖の手に、野獣のような濃い茶色の毛が生え、鋭い爪があるのを容は見た。なぜ。精霊を降ろしていないのに。
「容、離れていろ。しばらく、いや、もしかしたら、永遠に――会えなくなる」
天贖の顔は悲痛に歪んでおり、その初めての表情に、容は落ち着かなくなった。
「何で、天贖様。どうしちゃったんですか!?」
「狂化が起き始めている。お前は化け物の伴侶になれるのか。――なれないだろう。近くにいれば俺に殺される。俺は蔵に入る。男衆を呼んでくれ。以後、俺には近づくな」
「でも、蔵なんて入ったって、天贖様ならすぐに壊せますよね? だから、無駄なことはやめて……」
天贖が否定するように頭を振る。
「蔵は一度俺が壊したことがあるが、その後、母上が手錠も柱も壁も全て鉄製のものに変えた。俺でも逃れられない」
容がこの間忍んで蔵に入った時、確かに蔵も手錠も鉄製のそれだった。
「でも」
「俺に殺されたいのか!」
伸びた牙をむき出しにして怒った天贖は、鬼のような形相をしていた。いつしか爪は鎌のように鋭くなっていた。
容は恐怖と驚きのあまり、思考することを放棄した。自動人形のように、言われるがまま走り去る。男衆を、男衆を呼ばねばならない。
中棟中広間に、男衆3人と楓が揃っていた。
「どうしたの? 容ちゃん。そんな慌てて」
義喜が不思議そうにし、直志が走ってきて容の顔を覗き込んだ。
「待って。容、泣いてるの?」
容はその場で足を崩れさせた。
「天贖様が、天贖様が、化け物になっちゃうよ! 私、どうしたら、どうしたらいい……!」
「何ですって!?」
直大がそれを聞いて、天贖の居室目掛けて走り去った。義喜、直志もそれに続く。
楓は驚きもせず、静かに容に歩み寄った。楓に抱きしめられ、背中が撫でられた。
「あの家系図を、写真をお見せすることになってから、こうなることはわかっていました。このタイミングで言うなんて、私もお母様と同罪ですわ」
容も楓も、身体を震わせて泣いた。
「楓さんのせいじゃない。……ごめんなさい……」
しばらくして、憔悴した男衆が広間へ戻ってきて、天贖を蔵に幽閉したとただ一言告げた。
義喜が容に向かい、絶望を受け入れたように苦笑いをした。
「お義兄さんを殺したのが天贖様じゃないかって、言ったんだろ?」
「そう。違うって、言って欲しかった。でも、狂化するなんて、それだけ苦しいなんて、本当に殺したんだ……っ」
容は涙をぼろぼろと零した。膝の上に雫が落ちて着物に染みをつくる。
容に向かい合っていた義喜が顔を上げる。
「楓ちゃん」
「――お母様のお望みなのです。私は逆らえないのです。私が容様に証拠を見せました。天贖様と容様のお義兄様が、幼馴染であると」
義喜はそれを聞いて、考え込むように目線を落とした。
「やっぱり。天贖様は逃れられない。自分で自分を縛る枷から。――そのひとつが、容ちゃんなんだよ」
自分で自分を縛る枷とは、どういう意味か。容は天贖の伴侶のはずだ。そのような言われようは許せなかった。
「義喜さんは、天贖様が犯人だと思ってる? それとも、何か知ってるのか」
「真相は知らない。俺だって、熊が殺したと聞いてるさ」
「私、天贖様のところへ行かなきゃ……1人にしちゃだめだ。あんな蔵の中で」
義喜が容の肩をつかんで、厳しい口調で止めた。
「行くな。はっきり言うけれど、狂化の原因は容ちゃんだよ? 近くにいたらますます進行する。それに、容ちゃんは天贖様を犯人だと思って、憎んでいるんだろ?」
「私は、……私は」
「答えが出ないうちに、行っちゃいけないよ。2人とも苦しむことになる。このまま、2人はもう会わない方が天贖様は助かるかもしれない」
「私は! 私は、義兄が生きがいだったんだ……! 殺人者を許せるわけがない――絶対!」
なのに、なぜ。こんなに苦しいんだ。
「……嫌だ、天贖様。天贖様が殺したなんて、嫌だよ」
もう出し切ったのか涙も流れない。いくら慟哭しようが何も変わらない。
「誰か嘘だと言ってよ。頼むから」
そう零した後、容は燃えるような力がみなぎり、いきなり走り出した。
「容、――駄目だよ!」
蔵まで一直線に走り寄る。
鉄の扉の窓が格子になっており、暗い中で蹲る天贖の姿がぼんやりと見えた。
「天贖様! 私は、私は……貴方を愛していて、なのに、殺人者だったらと思うと――殺したいほど憎んでいるよ! 苦しいよ……! 私こそ狂ってしまいたい!」
扉を力一杯叩きながら、容は泣き叫んだ。
「狂ってるのは同じだ! 逃げんなよ! 天贖!」
「容。お前は本当に――俺を煽り過ぎる」
天贖はゆっくりと立ち上がり、鉄の扉の近くまで段々と近づいて来る。
蔵は闇の中で見え辛く、容からはっきり見えるのは、その瞳しかない。瞳は、精霊を降ろした時のように金色だった。初めて身体を繋げた時も金色だった。
容は、己の与り知らぬ圧倒的な力が注がれるのを自覚し、次には欲情している自分に驚き――驚いた瞬間に、さもそれが当然であるかのように感じた。
愛しくて、厭わしい、この罪深い男を自分はもう離せないのだ。
薄暗い扉のすぐそこに天贖が近づくと、黒茶色の化け物のような手が見えた。不思議なことに、蔵に入る前、あれほど苦しんでいた天贖が今は落ち着いていた。容は強い口調のまま天贖から目を逸らさなかった。
「離さない。例え貴方が苦しもうが、化け物になろうが、そんなのどうでもいい」
「殺されてもいいのか」
天贖自身に狂化が起きているというのに、穏やかな声は優しさに満ちていて、このような時でも容は心惹かれる。
容は格子を強く握りしめた。鉄の硬さが伝わり、痛い感覚があった。だが何よりも痛いのは掌ではない。
「殺されても離さない! その時に、殺してやる!」
愛情と殺意を持って、悲鳴を上げるように叫ぶ。
「それは本望だ」
天贖はいつも通りの穏やかさでそう笑った。
「俺はなぜ、今落ち着いているのだろうな。先程はあれほど取り乱したというのに。……義喜、鍵を開けろ」
「天贖様、危険です。天贖様の狂化が進行するかもしれない! 容ちゃんを天贖様が殺してしまうかもしれない!」
義喜の心からの叫びを、天贖は一笑に付した。
「開けろと言っている。開けなければ、鉄を破壊するため、この身体が血みどろになるまでだ」
義喜は天贖の迫力に押され、従った。楓が鍵を持ってきて、義喜はそれを受け取り重い扉を左右に開けた。
「この凪はなんだろうな。まるでこれが運命だったかのように、今はこの姿を受け入れられている。容、……お前のせいだな」
天贖は伏せていた視線を容に戻す。
「容。――共に狂えばいい。俺を、愛し、憎むがいい」
その目の強さには、正邪相克の道を行く決意が宿っていた。




