30. 孤独を労わるように
天贖が風呂から出た後、居間の障子を開けたところにある縁側に並んで座った。傍らには天贖から奪い取るようにして受け取った薬箱がある。風邪薬や胃薬だけでなく、消毒薬もガーゼも長い包帯も揃っており、これで足りそうだと思うと安堵した。
女衆で住み込みなのは楓と容だけだ。男衆も療養しているだろうし、周りは閑寂としていた。月明かりだけでは心もとなく、天贖が寝室から行灯を持ってきて傍らに置く。手元を照らせば十二分に明るく、手当てをするには不便はない。
「打撲部分は精霊を降ろしたら治っていた」
天贖は不思議そうにするが、容は文句が先に出る。
「だったら傷も治してくれたらいいのに。――あの傷の具合だと、滲みそうですね」
「少し痛いくらいは何でもない。一思いにやってくれ」
「そうですね。手加減はしませんよ」
天贖は上半身だけ寝衣を肌蹴させ、容に背を向けた。義喜よりは細めだが、引き締まった筋肉が綺麗についている。縫うほどではないにしろ、傷は開いており、赤い色がまるですだれ花火のように天贖の身体を彩っている。
ピンセットで掴んだ綿に消毒薬をしみ込ませ、傷口を軽く叩いていく。やはり痛かったのか、時折天贖は軽くうめき声を上げた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
お互い無言で、静謐な時間が流れる。
容はここに初めて来た時から今までのことを思い出していた。
最初の天贖の不作法な態度に本気で怒ったことと、優しい楓と男衆に出会ったこと、そして太智が大切な存在になったこと。日々を過ごしいつの間にか心惹かれ、狂化の事件を乗り越えて天贖と距離が縮まったことを。
傷は何本もある。しばらくは感傷に浸っていても、天贖には気づかれないだろう。
「容」
天贖は容に対して背中を向けたまま、か細く声を漏らした。
「ありがとう。俺が耐えられたのは、お前のおかげだ」
「また『ありがとう』って言ってもらえた。私、そう言われるの好きなんです」
人に感謝されるのは、その人が例え一瞬でも幸福になってくれたからだろう。それが容には堪らなく嬉しかった。
「お前は、俺に疎まれても、ここを出て行かないのだな。太智といれば俺とは離れられない。さぞかし辛かっただろう」
天贖は容の心の傷に優しく触れるように、柔らかく言った。
「確かに、毎日顔を合わせる相手がそんな態度だったら私でも落ち込みますね。でも、私には目的があるから」
「義兄に関することだろう」
「わかっていたんですか?」
「ああ」
容はずっと聞きたかったことに天贖が言及してくれて、逸る気持ちで前のめりになった。天贖も後ろを向いて、容と目を合わせる。
「義兄さんは、熊に襲われたなんて嘘です。私は見ていたから」
「見ていた?」
怪訝そうに天贖が繰り返した。
「はい、男がいたんです。倒れている義兄を見下ろして、血まみれで。でもどうしても顔が思い出せないんです。いや、暗くて見えなかったのかな」
「お前が無事でよかった」
天贖の気遣いから、容は天贖が犯人ではないことを確信し、知らず胸を撫で下ろした。
「私は、姉が生きがいでした。その後は、義兄が生きがいでした。殺人者を許せるわけがない! 殺してやりたい……死刑になればいい――そうだ、義兄は熊に襲われたって言われた! もしかしたら、狂化した人が義兄を殺したのかもしれない!」
一瞬の間が空いて、天贖が身体を固くした。緊張が見えた気がした。
それから、彼はこちらに振り返り、苦悶の表情を浮かべた。
「それでも、詮索はやめることだな」
「何でですか……!」
「ここは危険だ。女が支配する島だ。夫婦であれば男でも狂化しなければ安らかに暮らせるが、後見人のいない男の生き死にには全部の女に権利がある」
「何ですか、それ。義兄は、後見人がいなかったから、狂化した獣に殺されても文句は言えないってことですか!?」
容が怒りを露わにすると、天贖は目を伏せてから頷いた。
「島での規律によると、その通りだな。狂った島だ。殺人犯を見つけようとするならお前にも危険が及ぶかもしれない。それがここで暮らす女達の平穏を乱すからだ。出て行った方がいい」
「生殺与奪、か。でも、そうしたら私は殺人者の生殺与奪の権を握っているのでしょうか。それもよく考えるとおかしな話なのかな。山ノ神様は、その答えをくれますか?」
容は縋るように天贖の背中に自らの額を触れさせた。そうしても天贖は嫌がらないだろうと思った。
「わからない。家長がこの体たらくですまないな」
「ほんとですよ。少なくとも私は、真実が知りたい。闇雲に探してたけど、狂化した人に殺されたって線は、濃厚だと思う。熊の毛とか、足跡とか、説明がつく」
容は波打つ心を静ませようと、細く長く深呼吸をした。天贖の手当てをしている最中なのだから、放っておくのは可哀そうだ。
「ほら、天贖様、前を向いてください」
「前はいい」
「胸にもお腹にも傷がみっちりついてるの、バレてますからね」
「仕方がない。よろしく頼む」
今度は向かい合い、天贖の傷口を消毒していく。傷の深さは背中同様だが、傷の大きさと数はそれ以上だ。
容は息苦しさを押し殺し、綿を変えてまた消毒液を染みこませた。
天贖は容の気持ちを知ってか知らずか、重そうに口を開いた。
「容、狂化とは、突然降ってくる災厄ではない。死と同じ――ゆっくりと迫り、徐々に息の根が止まるように近づき、発現するものだ。精霊を宿す能力を残した者が、抱えきれない、貫くことのできない、報われない激しい愛しさを抱いた時、これまでの自我が揺らぎ、精霊に精神と身体を食われる」
天贖は沈むように息を吐いた。
「樹は、何か訳があって、長い間、妻に恋い焦がれながらも報われなかったのだろう。妻の方に愛があったのかなかったのかはわからないが、2人が想いを通じ合わせられなかったことだけは、事実だ。いや……妻はすぐに殺してくれと訴えていたから、愛してはいなかったのかもしれないな」
天贖は重苦しそうな面持ちで容の手元を見ていた。
「だから俺達は誰もが狂化の可能性があり、島の男は島外へ出ることは許されない。島外へ行けるのは女だけだ。だが、その息子がいずれ狂化する可能性があるため、島外の女も、長男を産んだ場合、いずれは恐怖のあまりここへ帰ってくる」
「悲しいですね」
「悲しい?」
天贖が思いも寄らないことを言われたように目を見張った。
「皆、狂化した人も、きっと愛し合っていたはずなのになって」
続く容の言葉に、天贖は息を呑んだ。
「狂化した者が犯人と言ったその口で、同情できるのはなぜだ?」
あまりにも呆然といった風の天贖に対し、容こそ呆けてしまう。
「狂化した人全員が犯人なわけないでしょう」
「それは道理ではあるが、容には驚かされてばかりだな」
そんなに変なことを何度もしていないはずだ。容は天贖の肩の傷に綿で優しく触れながら、目を合わせずに口を開いた。
「狂化した人も、その奥さんも、いつのまにか、まるでふたつの水車が長い年月を経て腐敗してかみ合わなくなっていったように、ゆっくりと、愛する幸せを見失っていったんですね」
この言葉は、今は亡き両親に向けたものだった。容が小さい頃は、2人とも仲が良く、喧嘩すらしなかった。だが、仕事に情熱を注ぐ父と、子育てに注ぐ母とでは、やがて全ての意見が食い違うようになった。2人とも、知らず知らずに追い詰められ、相手のことが考えられなくなったのだ。そうして、容や結を理由にして、よく喧嘩をするようになり、父は暴力まで振るうようになった。
「私は……恋愛に幸せを見つけたことなんてないですけど」
容は両親から愛することの幸せを受け取れず、誰の恋慕の気持ちも受け止められず、そうやって、愛することを拒否し続けている。
天贖は気遣ったか、小さく零すように問うた。
「以前、恋人はいたのか」
「いましたけど、3ヵ月と持たなかったです。私は、恋愛は、要りません」
「なぜだ」
静かに問われて、容は考え込んだ。
恋人に別れを告げるのはいつも容の方だった。相手からの愛情が切実になり、容を心ごと求められるようになってから、容がそれを嫌がったからだ。なぜ嫌だったのだろう。苦しかったのだろう――。
「愛してるからその心臓を抉って渡してって、言われたらどう思いますか」
突拍子もないことだが、天贖は笑わずに、静かに聞いていた。
「『私のことを殺す気か』って思いますよね。それくらい、私にとって恋愛は重くて嫌になるものなんです。まるで、愛することは傷つけることみたいで」
「愛することは奪うことでも傷つけることでもない。俺なら心臓を奪うなどしたくはないな」
「……もし、自動的に動く人形なら、心臓なんか要らないですね」
天贖が訝しげに容を見た。
「それはお前のことか。そうか、あの時、感情が見えなかったのはそのせいだな」
「……っ」
つい漏らしてしまった一言を天贖に正確に拾われ、容は焦った。
「俺は常人より耳がいい。お前が初めて道場に来た時、俺にはお前の呟きが聞こえていた。『私は自動人形なんだから』と言っていたな」
容は観念し、無言で頷いた。天贖はしばし押し黙ってから、柔らかな口調で続けた。
「自らの心臓の在り処がわからなければ、人の心臓の音を聞くといい。そのうち、自らの心臓の音が同調していくのがわかるだろう」
「そうでしょうか……」
ふと、先刻見た天贖の夢を思い出した。
「天贖様は、昔、大好きな人達がいましたよね。恋愛じゃないけど。お父様と、お母様と……えっと、あのお母様じゃなくて本当のお母様と、お姉様と」
「なぜ、知っている。誰かがお前に教えたか」
「あの、夢で……じゃなくって、炊事場で聞いたんです。大好きな人を亡くしてから、どうやって、やってこれましたか? 知りたいです」
この意志も力も強い男が、家族を失った後、どうやって己を保ってきたのか。容は純粋に知りたかった。
「俺は、突然事故で家族を亡くした」
「事故?」
「ああ」
では、容が見た夢は間違いだったか。天贖の家族は殺されて血の海の中にいたが、実際は交通事故か何かだったのか。
「それからは、あの母上……彼女は、あれでいて外見より遥かに長く生きており、山王司家を昔より統べていた。彼女が俺の母親となったが、あまりいい思い出はない。怒られるか、殴られるか、疎まれるか、どれかだった」
天贖は暗い面持ちで淡々と続ける。
「俺は、人を心から愛したことがない。愛し愛された記憶は彼方遠くだ。それでも、やってこれたのは、男衆や楓達女衆がいたからだ。俺にはやるべきことがある。島民を守ることだ」
天贖は話していたのを止め、ばつが悪そうに顔を歪ませた。
「少し、話し過ぎたな。先日もこういうことがあった。容だと、話し過ぎてしまう」
容は一呼吸置くと、天贖の縦に走った傷を指でなぞった。
「っ……、容、痛いぞ」
「痛いかなって、思って……」
「お前はおかしな奴だな。痛いに決まっている」
「天贖様は、多分いつも痛がってる。自覚してなくても。笑いながら皆の幸せを願って、自分の幸せは願ってなくて、愛し愛される喜びを知らなくて。なのに何かあったら誰かを殺せと責められて、生殺与奪の一番近くにいて、驚異的な力があるからっていつも背負ってる。――それが孤独と孤高の痛みだよ」
容は、天贖を抱きしめて、その傷だらけの心を痛ませずに、ゆっくりと撫でてあげたいと思った。
天贖は何も言わずに容の手から消毒薬を取り上げて横に置いた。それから、彼は容が腕を伸ばすよりも先に、容を包み込むように抱きしめた。
「嫌ではないか?」
「嫌じゃないですよ」
天贖は容を抱きしめている間、幼子を安心させるように、眠らせるように、背中を柔らかにぽんぽんと叩いた。
まるで――容こそ抱いている孤独を労わるように、天贖の孤独を見せて悲しませたことを静かに詫びるように。
優しさに泣きたくなったのは、いつ以来だろう。そうだ、両親が亡くなって、結が容を抱きしめてそばにいてくれた時だ。
微かな嗚咽と共に、涙が流れてくる。容は天贖の肩を涙で濡らしながら、幸福が今ここにあるように、笑った。




