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29. 傷

 一連の騒動の中で薬が効いていたらしく、頭痛は全くなくなっていた。先程は頭痛で余裕がなく様子を見られなかったが、天贖の居室は容の居室とは違い何倍もの広さがあった。居間の他に寝室や書斎、他にもあまり使っていないだろう押入れつきの部屋がある。


 天贖が狂化した男をどこに連れて行ったのか容にはわからないが、天贖の憑依も解け、いつも通りの格好で帰って来た。


「2人とも泥で汚れているな。容、今は女湯が稼働していない。内風呂を使え。その後俺も入る」

「ありがとうございます」


 言われて内風呂を探すが、見当たらない。


「どこにあるんですか?」

「更に右端だ。ここの戸を開けろ」


 天贖が引き戸を開けるとまず脱衣所があり、その奥のガラス戸を開けた。


「わっ」


 泳げそうなほどに充分な広さのある木風呂を中心に、壁にはシャワーが設置されてある。ガラスの向こう、柵の外には山の青々とした景色が見える。見上げると天井の全体が三角になっており、その一番上から水蒸気が抜けていく。何とも風情のある様に、容は大口を開けて見渡した。


「贅沢過ぎじゃないですか、天贖様」

「代々の当主が使っていたんだ。広いに越したことはないだろう」

「はー。そういうものですか」


 金持ちの言うことはよくわからない、と容は思っておざなりに返事をした。


「着替えは?」

「自分の部屋に取りに行けば――」


 容が向きを変えると、天贖がそれを片手で制した。


「いや、いい。もう夜遅い。少し大きいだろうが俺の寝衣を使え」


 言われたまま着替えを受け取り、脱衣所で汚れた寝衣を脱ぎ、風呂の戸を開けた。


 泥で汚れていた身体をシャワーで洗い流す。天贖を待たせてはいるが、この広い木風呂に少しだけと思い浸かった。大浴場の湯と同じ茶褐色の濁り湯なので、源泉が同じなのかもしれない。木風呂の縁に頭を預け、手足を広げて伸びをする。疲れた全身が解れていくようだった。


 その後、容が脱衣所の戸を開けて出てくると、天贖は寝衣を大きく引きずるような格好になっている容を見て、笑声を零した。


「まるで白無垢の引きずりだな。似合っている」


 180センチ半ばくらいの男物の寝衣など165センチの容からしても大き過ぎるのは当たり前だろう。身長についてからかいたいのかと思った。そのために白無垢に似ているとは、表現としては面白い。しかし白無垢は大変らしいと聞いたことがある。


「白いから随分気を使うらしいですよ」

「なるほど、これか」


 天贖が口元を手で覆い、おかしそうに笑い声を立てた。


「何がこれですか」

「俺は似合っている、と言ったんだ。それに対するツッコミとやらはないのか? 義喜から聞いていたが、確かに己が道を行く性質らしい」


 何が己が道を行っているのかはわからないが、白無垢みたいで『似合っている』と2回言われて、流石に天贖の頭を疑う。


「はあ!? 何言ってるんですか天贖様。頭湧いてるんじゃないですか」

「違いない」


 笑う天贖を横目に、容は脱衣所の戸を閉めようとしたが、天贖の体中に裂傷があるのが視界の端に見えた。容は突如踵を返して天贖と向かい合う。


 そこで目にした光景に驚愕して息を呑んだ。


「天贖様! 凄い傷ですよ」

「ああ、だが深い傷はない」

「放っておいちゃ駄目ですよ!」


 傷が膿んだりしたら大変だ。消毒くらいはした方がいい。


「消毒しましょう。風呂から出たら覚悟しておいてください。薬箱どこですか」

「いや、別にいい」

「じゃあ楓さんを起こして薬箱を……」


 容が身体の向きを変えて楓の元へ行こうとすると、また天贖に片手で優しく抑えられた。


「楓も樹の妻の世話で疲れているだろう。起こすのは忍びない」

「じゃあ、教えてくれますよね。どこですか」

「……風呂から出たら場所を教える」


 容は大人しく従った天贖の言葉に満足して、居間で待つことにした。

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