28. 獣の脅威
天贖の居室から転がり落ちるように抜け出す。2人の後ろを全速力で走るが、天贖も義喜もやはり速過ぎて、容では全く追いつけない。しばらくすると姿が見えなくなったが、方向はわかる。女衆がその場所を目指すか逃げるかしているからだ。容は顔を上げ、もう一度全速力でとにかく走った。
容が辿り着いた時、頭痛は随分治まっていた。
家屋を囲む庭に人が集まっている。家屋の左には蔵が、右には崩れかけた塀がある。家屋も一部が壊され、瓦礫になっていた。
その中心に、見慣れない男がいた。
いや――男か?
全身が黒い毛で覆われ、牙をむき出しにし、頭には小さな角のような突起が生えており、爪は鋭く伸び、まるで細身の熊そのものだった。
「これが、狂化……?」
離れた所から、天贖の声がした。その獣の男の近くに、彼はいた。
「男達は」
天贖が義喜を横目で見る。
「直大達が指示して男は遠ざけていたようです」
義喜は視線を直大と直志に向ける。2人は気を失っており、女衆に介抱されていた。
「わかった」
そう言うのが合図だったか、2人は跳躍して離れ、男を挟む。
「樹!」
義喜はそう男の名を呼び、跳躍してその背後を取る。
羽交い絞めにし、天贖の攻撃を待つつもりだろう。
だが男は義喜を軽々と振り切った。
男の鋭い爪が、男の鋭い爪が、懐に入り込んでいた天贖の肩を切り裂いた。
「う……っぐ」
天贖からうめき声が漏れる。
義喜は家屋の壁に背中を打ったらしく、苦し気に息をしている。
天贖は踏ん張り、男と睨み合っている。
容は今のままではこちらが不利だと思った。
近くの蔵の扉が破れており、その中で蹲っている女性が泣き叫んでいた。男はその声に誘われるようにして天贖から女へと視線を移し、ふらふらと蔵へ向かおうとした。
開け放たれている蔵の中で、女が甲高い声を上げた。
「いやあ!」
「近づくな!」
天贖が男に掌底を正面から叩き込む。
男が家屋の右に飛ばされ、壊れた塀で崩れる。
容は固唾を飲んで見守る。このまま押し切れるかもしれない。
「殺してください、もう夫は化け物です! その鎌を使って!」
蔵の中にいる女が悲痛な声で訴えた。
「殺すって、何言ってるんだよ! いくら怖くても、それは駄目だって」
容は遠くから見ている女衆に混じらず、円の中に入り、天贖の背後まで近づいた。蔵の前、天贖が息を弾ませて苦しそうに答える。
「狂化した者は真っ先に愛する者を殺そうとする性質がある。だが、邪魔者には容赦しない。容、お前は離れていろ」
天贖が容を遠ざけようと手を伸ばす。彼の切実な形相で、心配されていることを知った容はその手を握る。
「それでも、離れません! 殺しちゃ駄目です!」
「わかっている!」
そう叫んだ天贖の頭を、男が熊のような手でがしりと掴んだ。天贖はその手の指を一本、力一杯逆方向へ曲げた。骨の折れる音が容の耳に届いた。
「うが――!」
男はうめき声を上げて天贖を放した。
「正気に戻れ! お前が愛する女を傷つけるな!」
蹴りと拳が男の鳩尾に入り、男は大きく身体を曲げられた。
女衆がまた、けたたましく声を上げた。
「殺してください。武器をとって」
「殺すのです」
まるで呪いをかけるように殺せと女衆が繰り返す。この集団はおかしい。
「何言ってるんだよ、あんた達!」
容が大声を出すと、女衆が剣呑な目をしてざわつき始めた。
「うるさいわ、この小娘」
「そこの樹の妻――後見人の言うことは絶対です。御家長、逆らうのですか」
女衆の呪いの言葉が、天贖の気力を削いでいくのがわかる。
「それでも、俺は……」
今度は逆に天贖が男に殴られる。その天贖を義喜が立ちはだかるようにして庇うが、2人ともすぐに男に薙ぎ払われる。
「ぐう――っ」
「負けるなよ! 天贖!」
容の声を拾った天贖は縋るように見つめた後、男へと視線を戻し、睨んだ。
「俺は……」
天贖は立ち上がり、吠えるように声を大にした。
「お願いだ、お前はもう1人だ、1人でいい安寧の中にいろ!」
女衆が口々に悲痛に叫ぶ。
「御家長、危険です!」
「諦めてください! 殺すのです!」
天贖の正面にいた男が一瞬見えなくなった。
気づいた時、それは天贖の背後から気配を放っていた。
雪崩が起きたかのような音がして、天贖はまた殴られ、壊れた家の瓦礫にくずおれる。
沈黙を破るように女衆が叫ぶ。
「いくらなんでも、無茶です! 人間ではないものの力には例え御家長でもかないません!」
「殺してください!」
女衆の声を無視し、容は瓦礫に埋まってしまった天贖の背中を抱え、座らせた。
「なんなんだよ、この村。おかしいとしか思えない。天贖様、一番偉いんだから、聞かなくていいんです、こんなこと」
容は天贖を引きとめたいような、送り出したいような、複雑な感情を覚えた。
つい先程天贖がくれた優しさに、どうすれば報いることができるのだろうと考える。
それは、送り出すことだと思った。信じて送り出すのが、今の自分の役割だ。
容は天贖の肩を前に差し出すように、とん、と叩いた。
「殺させたくないでしょう。貴方ほど強い男なら、できます。――頑張れよ!」
容を振り返った天贖が、驚いたような顔をしていた。だが次には腹落ちしたように、口を引き結んで頷いた。
「……そうだな。頑張ることにするか」
天贖は立ち上がると、辺りを見回した。伸びやかに声を上げる。
「精霊を降ろす。唱えろ!」
「御家長!」
女衆がどよめき、不穏気な様子だった。
「必ず押さえ込む。後の面倒は俺が見る。俺を信じろ!」
女衆は顔を見合わせ、苦い顔で、地面に膝をついた。しばらくその格好のままでいる。何をしているのか容にはわからない。その後、一斉に、歌うように、話し出す。
『大気にたゆたう精霊達よ。聞いてください』
蔵の前、迫り来る男の爪が闇の中で光る。
男の猛烈な攻撃を受け止め、天贖は傷を真正面から受けた。
「ぐあっ」
「御家長!」
「大丈夫だ! 俺は持ちこたえる、だから、唱え続けろ!」
『私達の声を聞いてください。ここに強く心優しい男がおります。貴方方を統べる山ノ神の息子です』
女衆同士、一言一句違うことなく、リズムも全く同じだった。その不気味さに手が震えた。
男は天贖から目を逸らすと、自分の妻の元へ向かおうと後ろを振り向いたようだった。
「行くな! 敵はこちらだ!」
そう言った天贖はぜいぜいと荒く息をしている。
だが怯まず、天贖が横から蹴りを入れ、男を蔵から離した。
――互角に見えた。
『どうかこの男の身にお宿りください。貴方方のお力をお示しください』
天贖は、天に真っ直ぐ右腕を振り上げた。
『道を開きましょう。繋げましょう。私達の声を頼りに、お通りください』
女衆の周りに、微かに光の粒が見えた気がした。まるで暗闇に発光する蛍のようで、幻想的ともいえる風景に思わず見惚れた。
「皆、感謝する!」
『さあ、ここにあらせられるは精霊を宿すお方なり!』
高く上げられた天贖の腕に、天上から雷のような光が何本も下りた。光の気配の後、岩をぶつけたかのような轟音が響き、地面が大きく揺れた。
天贖は光を受けると背中まで髪が伸び、爪が刃のように厚く鋭くなった。更には小さな角2本が頭の上から生え、目の虹彩が金色になった。天贖の周りを包んでいる光が一度強く輝いてから、収まる。
気がつけば、土埃のような竜巻が、庭の中心にいる天贖の周りを常に漂っている。
塀で苦しそうにしていた義喜が、天贖を見て眩しそうにした。
「土と岩の精霊だ」
「天贖様! お気は確かでいらっしゃいますか!?」
後から追いついた楓が、女衆に混じって、息を弾ませながら心配そうに天贖を見ていた。
「大丈夫だ。問題ない」
只ならぬ力を感じたか、男は一瞬怖気づいたように見えた。
だが、一直線に天贖へ向かい攻撃をしかけてくる。
「無駄だ」
その男の薙ぎを天贖は片手で受け、そのまま腕を掴み取り、放り投げた。
しかし男は起き上がると息つく間もなく爪を刺すように打ち付ける。
しかし、今の天贖の敵ではないはずだ。
天贖はその男の背後に舞い降り、首の後ろを思い切り蹴り飛ばした。
「はぁ――!」
「っぐ、がぁ、が」
容には先程とは段違いの力と速さに見えた。
天贖は全身の力が抜けた男の背を片手で持ち上げ、空いた手を振り上げた。
すると、地鳴りがし、土の下からバキバキと硬質な音を立てながら岩が持ち上がった。割れて何本もの岩の杭ができる。それらが男を取り囲み、中心を目掛けて飛んでくる。
「起きてくれるなよ。制御が難しい」
男の肩の上へ、足の間へ、背中へ。20本くらいの岩の杭が男そのものには突き刺さらず、動きを封じている。岩の塊を浮かせたまま、天贖が操作しているようだった。
「俺がこのまま様子を見よう。精霊が降りている間は俺1人でこの岩の塊を扱える。皆は、散れ」
女衆は緊張が解けたためか、泣き出す者や倒れ込む者など様々だった。『唱えた』ために疲労しているのも明らかだった。唱えなかった他の女衆が、唱えた女衆の肩を支えて歩いているからだ。
それを一瞥して、天贖は声を張り上げた。
「皆、助かった。お前達の働きのお陰だ」
天贖は蔵の奥で泣き崩れている男の妻を見やり、楓を振り仰いだ。
「すまない、楓。面倒を見てやってくれ」
「はい。……さあ、行きましょう。沈静効果のあるお茶を入れるわ」
「女衆、悪いが男衆3人の介抱をしてやってくれ」
天贖は楓達や男衆を見送ると、近くまで寄って来ていた容に顔を見せないまま呟いた。
「容」
「はい」
「この男を安全な場所へ連れて行く。お前は俺の居室で待っていてくれないか」
「……いいですよ」
天贖は容の望んだ通り、最後まで踏ん張った。頑張ったのを褒めてあげたい――この胸を温める感情を伝えたくて、容はゆっくりと天贖を見上げた。彼は男と対峙していた時の鋭さが消え、肩の強張りが解けていた。
天贖は狂化した男に対し失意を隠さないままではあったが、容とじっと目を合わせた。
そうして、初めて、容に対して柔らかく微笑んだ。




