1. 絶望の中の乖離
「――はっ、あぁ、あ」
息を大きく吐き出しながら、突如上体を起こした。目覚めたばかりで思考はぼやけており、ここが居間である以外、はっきりと認識ができない。
「うっ……」
なぜか、後頭部に鈍い痛みがあった。その部分に手をやると、腫れ上がっていた。
「ぶつけた後、殴られたのかな」
ぶつけた前の記憶がないが、殴られた前の記憶は残っている。
その痛みで、今の状況を思い出した。おそらく自分は義兄のいた場所から誰かに移動されたのだと思った。畳の目をなぞるが、血で濡れた様子がない。
「義兄さん!」
立ち上がって駆け寄ろうとしたが、下に置いてあった座布団で滑って見事に転んでしまった。目の前には警察が血の跡をテープで囲って、鑑識が調べているようだった。そこにいるはずの赤いものがない。正確には、血を流し赤く染まった義兄――誠吾がだ。
「大丈夫?」
痛む頭と霞む思考に苛立っていると、女性警官から労わるような声が掛けられた。うつ伏せで転んでしまった容の手が取られ、座らされた。
「救急車呼ぶ?」
「いえ……大丈夫です。ちょっと頭打ったくらいで。それより、義兄が、義兄は、どうなったんですか!?」
警官は苦い顔をし、言いにくそうに話した。
「お兄様は、亡くなったと思われます。熊に襲われたようです」
一瞬、わけがわからなかった。
「熊!? 熊なんていなかった! それに、まだ、まだ、生きてた! 動いてた!」
半泣きで訴えかけると、警官は困ったようにして辛抱強く口にした。
「わかりませんが……この血の量では助からないと医者が言っています。熊が連れ去り、巣へ持ち帰って殺したというのが一番濃い線です。熊の足跡も、毛もあった」
「熊じゃない!」
「しかしこの状況証拠では……」
容は呆然として、床の上に崩れ落ちた。熱のないフローリングが冷えた心を更に寒くさせる。
「今山の中を探しているけれど、見つからない可能性が高いですね。ここの熊は非常に頭がよく、衣服でも何でも、残して置いたら危険だとわかっているから、道中で落としたりしないんです」
信じられなかった。自分は犯人を見たのだ。人間だった。
いや、人間だったのだろうか。凶器もなく、腕一本で、あの血の量になるまでの傷をつけるなど、人間にできるのか。しかし、熊ではなかった。目が合ったのだ。殺人者に似つかわしくない、綺麗な色の瞳だった。
駄目だ。今は何も考えられない。混乱していて、どうしようもない。
「うっ、うっ」
嗚咽が漏れる。辛いのか悲しいのか怒っているのか、わからない。ただ、大きな感情の渦に飲みこまれている。
「容!」
自分の名前を呼ばれ、何も考えず、ただ目線だけを上げた。
――浚地だ。東京に住んでいた頃からの幼馴染の。どうしてここにいるのか。
浚地は、クォーターだからだよと言っていた色素の薄い綺麗な髪をなびかせ、整った相貌を珍しく歪ませて、容の前に屈みこんだ。
「容。話は大体わかってる。とりあえずここで休め。俺が代わりに何とかしておくから」
「浚地、お前何でこの島に」
「話は後だ。今だけは、ここにいろよ」
辛い時の優しさが胸に沁みて、容は泣き崩れた。もう、何が原因で泣いているのか、わからない。
浚地は、容の背中を優しく撫でながら、警官の質問に答えてくれていた。
浚地のおかげで、容は思い切り泣くことができた。ここでなら泣いていいと浚地が許してくれた。
そうして半日が過ぎ、一日が過ぎ、義兄の死亡は、動かせない事実となった。




