第九話 最初の住人
「――大変よアルカ! 門の前に、とっても小さな、そして信じられないくらい可愛い女の子が倒れているわ!」
魔導嵐が去り、抜けるような青空が広がった翌朝。
城門の周辺を見回っていたエレノアが、息を切らせて内郭へと駆け込んできた。
アルカが驚いて工具ベルトを揺らしながらエントランスへ向かうと、新しく直した白銀の城門のすぐ脇に、一人の少女がうずくまっていた。
年齢は十歳ほど。淡い紫色の髪の間から、羊のような小さな角が二本覗いている。大きな赤紫の瞳は弱々しく閉じられ、背中には傷ついた小さな蝙蝠の羽があった。魔族の子どもだった。衣服はボロボロに引き裂かれ、むき出しの足は泥と擦り傷だらけ。
極度の疲労と飢えのせいで、意識を失いかけていた。
「……ひどい衰弱です。エレノア様、すぐに地下の厨房から温かいスープと毛布を!」
「ええ、わかったわ!」
二人は息を合わせて少女を抱え上げ、アルカが作った暖かいリビングのソファーへと運び込んだ。
数時間後。
温かいスープを飲み、アルカの【表面清浄】魔法で綺麗になった少女――ミナは、毛布にくるまりながら、おずおずと事情を話し始めた。
「……ミナの村、人間に見つかっちゃって……。お父さんもお母さんも、みんな捕まっちゃったの。ミナだけ、逃げろって言われて……。行くところがなくて、ここなら魔王様が守ってくれるかもしれないって思って、がんばって歩いてきたの……。でも、魔王様、もういないの……?」
ポロポロと大きな涙を流す魔族の幼女。
その姿を見た瞬間、エレノアの顔が痛切な表情に歪んだ。
家を追われ、誰にも助けてもらえなかったあの夜の自分と、目の前の少女が完全に重なったのだ。
エレノアはミナの前に膝をつくと、優しくその小さな手を握りしめた。
「魔王はもういないわ、ミナ。……でもね、代わりにこの私がいるわ。私はエレノア・フォン・ローゼンバーグ。この城の新しい領主よ。もう泣かなくていいわ。ここをあなたの新しい家にしなさい。私が、あなたを絶対に守ってあげる!」
胸を張り、毅然と言い放つエレノア。
その姿は没落令嬢などではなく、気高き本物の「領主」そのものだった。
アルカは背後でその横顔を見つめ、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
(エレノア様、本当に立派な領主らしくなって……)
「ありがとうございます、領主様……!」
ミナが嬉しそうに微笑み、エレノアの胸に飛び込む。
エレノアも愛おしそうに彼女を抱きしめた。
微笑ましい百合(疑似家族)空間が誕生した――かに思えた、その時。
ミナがソファーからぴょんと床に飛び降りた瞬間、アルカの魔導測定器がけたたましい「構造的危険アラート」を鳴り響かせた。
「危ない!!」
アルカは咄嗟に床へスライディングし、自分の体をクッションにしてミナを受け止めた。
「きゃっ!?」
「ちょっとアルカ、何をするのよ!? ミナがびっくりしているじゃない!」
エレノアが怒りの声を上げるが、アルカは真顔で立ち上がり、リビングの床と、そこから続く大階段を指差した。
「エレノア様! 可愛い住人が増えて浮かれるのは結構ですが、建築士としての視点を忘れないでください。この城は現在、完全に『児童福祉建築基準』に違反しています! 子どもが生活するには、危険すぎる欠陥だらけです!」
「じ、じどうふくし……けんちくきじゅん?」
エレノアがまたしても呆気に取られた声を漏らす。
「当然です! 法第百十条『児童、または身体的弱者が居住する施設においては、その体格および運動能力を考慮し、不慮の事故を防ぐための安全・バリアフリー設備を義務付ける』!」
アルカは手元の魔導カルテを厳しく叩いた。
「まず、この大階段! 一段の高さ(蹴上げ)が三十センチもあります! これは体格の大きな上級魔族の大人の歩幅に合わせて作られているんです。ミナの歩幅では、登るだけで重労働ですし、万が一足を滑らせて転落したら、骨折どころか命に関わります!」
「あ……」
「さらに、その階段の手すり! 格子の隙間が四十センチも空いています! これではミナの小さな体なら、簡単にすり抜けて横から真っ逆さまに落ちてしまいます! 完全なる違法手すり、殺人トラップです!」
アルカの指摘は止まらない。
ドアのノブや窓のサッシを次々と指差す。
「極めつけは、この重厚な黒鉄のドアです! 重量が五十キロ以上あります。子どもの力では開閉すらままならず、万が一指を挟んだら切断の危機です。魔王城だからって、子どもの安全を無視していい理由にはなりません! 一刻も早く、この城を『子どもに優しいバリアフリー仕様』へ全面リフォームする必要があります!」
アルカの剣幕に、エレノアは自分の配慮不足を深く恥じ入るように俯いた。
「……そうね。私の言った『守ってあげる』なんて、ただの口先だけの見栄だったわ。あの子がこの城でどう暮らすか、そんな基本的なことすら気づけないなんて、領主失格ね……」
寂しげに肩を落とすエレノア。
アルカは慌てて彼女の前に回り込み、その白い両手をぎゅっと包み込んだ。
「失格なわけありません! 気づけないなら、私が気づいて直せばいいだけです。エレノア様が『住んでいい』と言った場所を、世界一安全な形にするのが私の仕事なんですから。領主様、私にバリアフリー改修の許可をいただけますか?」
アルカの真っ直ぐな瞳と手の温もりに、エレノアはハッと目を見開いた。
そして、愛おしさを堪えきれないといった様子で、アルカの手を強く握り返した。
「ええ……! お願いよ、アルカ。ミナが毎日、笑って怪我なく過ごせる最高の子ども部屋と、安全な通路を作って頂戴!」
「了解しました! 第七工区『中央ロビー・大階段バリアフリー化、および児童専用客室設置工事』、即座に施工します!」
ドン! とアルカが魔導木槌を大階段の最下段に打ち付けると、城内の石材が心地よい音を立てて波打ち始めた。
「建築魔法【階段段数再配分】、および【児童用安全手すり増設】!」
アルカが木槌を上方へ滑らせると、一段三十センチもあった不均等な大理石の階段が、魔法の光に包まれて滑らかに融解し、子どもの足でも一段ずつしっかりと踏みしめられる「高さ十五センチ」の緩やかな階段へと再構築されていった。
段数は倍になったが、全体の傾斜は驚くほどなだらかになっている。
同時に、四十センチもあった手すりの隙間には、余った鉄材が物質変換され、可愛い小鳥や植物の意匠を凝らした、隙間わずか十センチの細かな安全ネット状の格子が、パチパチパチと瞬時に嵌め込まれていった。
「わあ……! 階段が、ミナの足にぴったりになったの!」
ミナが目を輝かせ、新しくなった階段をトコトコと嬉しそうに駆け上がっていく。
「次は子ども部屋の改修です! 法第百一二条『児童の居室は、採光および通風を最優先し、精神的健康を育む色彩計画を行うべし』!」
アルカはリビングの隣にある、かつて物置として使われていた暗い小部屋に木槌を向けた。
どんと衝撃を与えると、埃っぽい壁面が瞬時に目に優しいパステルピンクと白のツートンカラーの壁紙(風の漆喰)へと変化し、重かった鉄の扉は、子どもの力でも指一本で滑らかに開閉できる「魔導スライド式木製引き戸」へと生まれ変わった。
部屋の隅には、ミナの体格に合わせた小さな学習机と、角を丸く削った(面取り加工済みの)安全な木製ベッドが自動で組み上がっていく。
「仕上げに、城内のすべてのドアノブの位置を、子どもの手が届く床から九十センチの高さに一斉移設します!」
アルカがパチンと指を鳴らすと、城中の重厚なドアノブたちが、一斉に生き物のように数センチずつ下方へとスライドし、カチリと固定された。
すべての光が収まり、工事が完了した。
最凶と恐れられた魔王城の中央ロビーは、今や車椅子でも通れるのではないかと思えるほど、徹底的に配慮された、明るく優しい「バリアフリー空間」へと劇的ビフォーアフターを遂げていた。
「できた……! これで児童福祉基準、完全クリアです!」
アルカが満足げに額の汗を拭うと、ミナは新しくできた自分の部屋のふかふかなベッドに飛び込み、「すごい、すごい!」と大はしゃぎで喜んだ。
「本当、信じられないわ……。建築魔法って、安全性や優しさまで形にできるのね」
エレノアは、なだらかになった階段の手すりを撫でながら、心からのため息を漏らした。
その瞳は、ミナの安全が確保された安堵と、それを完璧に成し遂げたアルカへの、隠しきれない深い信頼――いいえ、それ以上の熱い感情で潤んでいた。
「領主らしくなりましたね、エレノア様」
アルカはエレノアの隣に歩み寄り、少しからかうように笑った。
「え? どういうことかしら」
「王都にいた頃のあなたなら、きっと『見た目の豪華さ』や『貴族としての体裁』ばかりを気にして、階段の高さや手すりの隙間なんて見向きもしなかったはずです。でも今日、あなたは自分の見栄ではなく、ミナの安全のために、領主としてのオーダーを出してくれた。……すごく、かっこよかったですよ」
「――っ」
アルカから真っ直ぐに褒められ、エレノアは一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。彼女はぷいっと拗ねたように顔を背けると、乱れた金髪の縦ロールを弄びながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……な、生意気ね。私はただ、あの子に怪我をされたら、私の新しい領地の評判に関わると思っただけよ。……でも、あなたがそう言ってくれるなら、少しは『領主』に近づけたのかしら」
エレノアは少しだけ顔を戻し、上目遣いにアルカを見つめた。
「ありがとう、アルカ。あなたが私の『欠点』をいつも埋めて、形にしてくれるから、私は怖がらずに誰かの手を握ることができるのよ」
「……」
今度はアルカが照れる番だった。
お互いに顔を赤くして視線を泳がせる二人の十代の少女。
その、じれったくも甘い空気(空間構造)を、ミナが階段の上からクスクスと笑いながら見つめていた。
「領主さまとアルカお姉ちゃん、お顔が真っ赤なの! まるで、村の結婚式のお兄ちゃんとお姉ちゃんみたい!」
「め、ミナ! 何を言っているのよ!?」
「ち、違います、これはただの現場の熱気による血流の乱れです!」
城内に、ミナの明るい笑い声と、二人の慌てふためく声が響き渡る。
かつて恐怖と絶望で人間を遠ざけていた最凶の魔王城。
しかし、アルカの「安全な建築」と、エレノアの「優しい意志」によって、この場所はついに、最初の小さな命を守る、世界一温かい「誰かの帰る場所」としての第一歩を、力強く踏み出したのだった。
ミナという可愛い住人を迎えた魔王城。
しかし、この少女の登場をきっかけに、「魔王城に魔族の子どもが囲われている」という噂が、外の人間の世界へと漏れ伝わり始めていくのだった――。




