第八話 雨漏りする図書塔
「――ひゃあぁぁっ!? ちょっとアルカ、風! 風が強すぎるわ! 私のドレスが信じられない方向に捲れ上がって、領主としての尊厳が風前の灯火よ!」
「エレノア様、スカートを押さえる前に安全帯を確認してください! ここは地上五十メートル、魔王城で最も高い『図書塔』の最上階の外壁足場です! 一歩間違えれば尊厳どころか命が消し飛びます!」
ゴブリンたちを西側城壁に迎え入れてから数日。
魔王城の北側にそびえ立つ、ねじれた角のような尖塔――『図書塔』の屋根の上で、二人は激しい突風に晒されていた。
この塔には、かつての魔王軍や、さらに古い時代の貴重な古文書・歴史書が数万冊規模で保管されていることが判明した。
しかし、その屋根は百年前の戦火で大破しており、半分以上の瓦が吹き飛んで、天井に巨大な大穴が空いている状態だった。
折悪しく、今日の夜からはこの地域一帯に、大型の魔導嵐が直撃するという予報が出ている。
「……はぁ。このまま嵐が来れば、塔の内部は滝壺と化し、貴重な文献はすべて泥水に還ります。法第八十三条『歴史的文化価値を有する書物、または魔導書を保管する施設においては、防水・防湿・防虫施工を三重に施し、構造の気密性を維持せねばならない』。完全なる一発アウト、歴史に対する大罪です!」
アルカはゴーグルを装着し、強風に短い黒髪をなびかせながら、手元の魔導測定器を屋根の梁に押し当てた。
「でも、わざわざ私までこんな高いところに登らせなくてもいいじゃない! 私は下でゴブリンたちとお茶でも飲んでいたかったわ!」
エレノアは、アルカの魔法で一時的に構築された細い鉄骨の足場にしがみつき、半泣きで叫ぶ。
「ダメです。法第八十五条『高所における大規模な防水改修工事においては、構造物の中心に魔力を安定して供給するため、管理責任者(領主)の立ち会いを義務付ける』。エレノア様のその無駄に膨大な魔力を、屋根の定着術式にダイレクトにパスしてもらう必要があるんです。さあ、弱音を吐かないで、私の腰のベルトをしっかり掴んでいてください!」
「え、ええ!? こう、こうかしら……?」
エレノアは恐怖のあまり、アルカの腰の工具ベルト、というか、アルカの細い腰そのものを背後からガシッと両腕で抱きしめた。
「――っ!?」
背中に押し当てられる、エレノアの柔らかい胸元の感触と、強風のなかでもはっきりと主張してくる薔薇の甘い香り。
アルカの脳内構造計算が、一瞬で消し飛んで真っ赤になった。
「エレノア様、ちっ、近いです! ホールドが強すぎます! 職人の骨盤が歪みます!」
「うるさいわね! こうでもしてなきゃ、私、恐怖で失神してここからダイブしちゃうわよ! いいから早くその天才的な魔法で、このポンコツな屋根を劇的ビフォーアフターしなさい!」
「くっ……仕方がありませんね! 第六工区『図書塔・屋根全面葺き替えおよび気密防水工事』、嵐が来る前に完全施工します!」
ドン! とアルカが魔導木槌を屋根の主梁に打ち付けると、二人を包む足場全体が、カチリと固定されるように青い光を帯びた。
「建築魔法――【瓦解撤去】、および【古代瓦再構築】!」
アルカが木槌を天に掲げると、屋根に残っていた腐った木材や、割れた古い黒瓦たちが、まるで時間が巻き戻るかのように一斉に剥がれ落ち、虚空で細かく粉砕されていった。
続いて、アルカはエレノアから流れ込む潤沢な魔力を引き出し、自らの建築魔法と融合させた。
「エレノア様、そのまま魔力を一定周期で維持してください! 一気に新素材を定着させます!」
「ええ……っ! ローゼンバーグの魔力、舐めないで頂戴……!」
エレノアがアルカの背中にしがみついたまま、ぐっと奥歯を噛み締めると、彼女の体内から、純度の高い青き魔力の奔流がアルカへと流れ込んだ。
その魔力を受けたアルカの木槌が、目も眩むような黄金の光を放つ。
粉砕された古い瓦の成分が物質変換され、どんな魔導嵐の酸性雨にも耐えうる、美しい『魔水遮絶の瑠璃瓦』へと生まれ変わっていった。
それが、パチパチパチと幾何学的な音を立てて、塔の屋根全体を隙間なく覆い尽くしていく。
「仕上げに、法第八十八条『高層建築物の開口部には、気圧変動による破損を防ぐため、防風圧衝撃緩和術式を付与すべし』!」
アルカが塔の側面にある巨大な丸窓を木槌の柄で叩くと、割れていたガラスが瞬時に再生し、嵐の風圧を自動で分散する、虹色の防護膜が窓全体を覆った。
「できた……! これで防水・防風施工、すべてクリアです!」
アルカが大きく息を吐き、木槌を収めた、その時だった。
突如、ゴゴゴゴゴ、と予報よりも遥かに早い速度で、周囲の魔霧が黒く膨れ上がり、猛烈な突風――『魔導嵐の第一波』が、塔を真横から直撃した。
「キャーッ!?」
想定外の風圧に、アルカが作っていた仮設の鉄骨足場が、メキメキと音を立てて激しく傾いた。
「しまっ……! 足場の固定強度が、嵐の最大瞬間風速の計算を上回って――」
ガガァン! と激しい金属音が響き、エレノアが立っていた側の足場のボルトが弾け飛んだ。
「あっ――」
エレノアの体が、傾いた足場から滑り落ち、地上五十メートルの虚空へと投げ出されかける。
「エレノア様!!」
アルカは考えるよりも先に、自分の安全帯を外し、決死の跳躍でエレノアの手を掴みに行った。
バシッ、と激しい衝撃とともに、二人の手が繋がった。
アルカは片手でかろうじて残った強固な主梁にしがみつき、もう片方の手で、宙吊りになったエレノアの右手を、引きちぎれんばかりの力で握りしめていた。
「キャァァァッ! アルカ! アルカァッ!」
眼下に広がる、奈落のような高さを前に、エレノアは恐怖で顔を真っ白に染め、涙を流しながら叫ぶ。
「大丈夫です! 絶対に離しません! 私の握力は、現場のクレーン車並みに構造計算されています!」
アルカは必死に腕の筋肉をきしませ、叫び返した。
嵐の強風が二人を容赦なく引き裂こうと吹き荒れる。
「ダメよ、アルカ! このままじゃ、あなたまで足場ごと落ちちゃうわ! お願い、私の手を離して……! 私はもう、全部失った没落令嬢だから、ここで死んだって……!」
恐怖の限界のなかで、エレノアはアルカを巻き込むまいと、自暴自棄な言葉を口にした。
その瞬間、アルカの瞳に激しい怒りの炎が宿った。
「馬鹿なことを言わないでください!!」
アルカの、これまでで一番大きな、魂を揺さぶるような声が嵐の音をかき消した。
「エレノア様! あなたを床で寝かせないと言ったのは誰ですか!? この魔王城に、誰もが帰ってこられる理想の街を作るって、私と約束したのは誰ですか!?」
「アルカ……」
「あなたが没落令嬢でも、世界中から見捨てられても関係ありません! 今のあなたは、私を信じて、私の作った建物を『家』と呼んでくれた、世界で一番大切な私の雇い主様です! 建築士が、自分の施主を危険に晒して、見捨てるわけがないでしょう!」
アルカは両目に涙を浮かべながら、血がにじむほど強く、エレノアの手を握り直した。
「手を離さないで、エレノア様!!」
「……っ!」
エレノアは、アルカの真っ直ぐすぎる、クソデカ感情に胸を貫かれた。
彼女は涙を拭うように目を強く閉じると、アルカの手を、今度は自分から、壊れるほどに強く強く握り返した。
「ええ……! 離さない、絶対に離さないわ、アルカ! あなたが一生、私の隣から離れないでいてくれるなら……私だって、死んでもあなたを離さないわ!!」
「――よし! 構造接続、完了!!」
アルカは残った全魔力を爆発させ、木槌を必要としない肉体駆動の建築魔法を発動した。
「魔法【瞬間引き込み(アンカー・ウインチ)】!」
グンッ、と二人の繋いだ手が強力な磁石のように引き合い、アルカはエレノアの華奢な体を、自分の胸の中へと力一杯抱き寄せた。
そのまま二人は、新しく完成したばかりの、瑠璃瓦の頑強な屋根の上へと転がるようにして着地した。
ズドォォォンと背後で仮設足場が崩落し、地上へと落ちていったが、二人が乗っている図書塔の屋根は、ピクリとも動かない。
世界一安全な、絶対防壁となっていた。
バタバタバタと、新しく直した天窓から、塔の内郭へと滑り込んだ二人。
外では激しい魔導嵐の雨音が響いていたが、塔の内部は一滴の雨漏りもなく、完全に静かで、安全な空間が保たれていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……。死ぬかと思った……本当に、死ぬかと思ったわ……」
エレノアは図書室のふかふかの絨毯の上に大の字になり、激しく上下する胸を押さえながら、天井を見つめていた。
その隣で、アルカもまた、煤と冷や汗まみれになって横たわっている。
「……す、すみません。私の仮設足場の強度計算ミスです。プロ失格ですね」
アルカが弱々しく呟くと、エレノアは不意に、ふっと小さく笑い声を漏らした。
「ふふ……あははは! 本当に、あなたって子は……。あんな絶体絶命の瞬間にまで『構造接続』だなんてわけのわからない建築用語を使うんだから」
エレノアはゴロゴロと絨毯の上を転がり、アルカのすぐ隣へと身を寄せた。
そして、まだ微かに震える手で、アルカの頬にそっと触れた。
「でも、嬉しかったわ。あなたが、あんなに必死に私の名前を呼んで、離さないでいてくれたこと。……私ね、確信したわ。私にとって最後に完成する本当の『理想の家』は、この立派なお城じゃない」
エレノアは、お湯上がりの時のように上気した顔で、アルカの目をじっと見つめた。
「私の家は……あなたの隣よ、アルカ。あなたがいてくれる場所こそが、私の帰るべきホームなの」
「――っ」
アルカは、完全に言葉を失った。
心臓が、今度こそ物理的に爆発しそうなほどの勢いでビートを刻む。
無愛想な建築士の少女は、エレノアのストレートすぎる愛の告白に、完全にオーバーヒートして、頭から湯気が出そうだった。
「も、もう! 朝から晩まで、お嬢様はそういう恥ずかしいセリフを平気で言うんですから! とにかく、屋根は直りました! これで古文書は安全です!」
アルカは真っ赤になってバッと起き上がると、誤魔化すように近くの書架から、雨に濡れずに済んだ一冊の古い日誌を取り出した。
「ほら、見てください。この古文書……魔王軍の記録ですが、どうやら、この魔王城が建てられた当時の設計思想が書かれていますよ」
「え? なになに……?」
エレノアも起き上がり、アルカの肩に自分の顎を乗せるような、超至近距離で日誌を覗き込んできた。
心臓に悪い。
しかし、その日誌を開いた瞬間、二人の動きは止まった。
そこには、百年前に人間と魔族が激しい戦争を始めるより、さらに昔の、この城の真実の姿が描かれていた。
『――この城は、侵略のための要塞ではない。人間社会を追われた亜人、そして魔界を追われた下級魔族たちが、共に手を取り合い、安全に暮らすために築かれた、共生の都市である――』
「……これって」
エレノアが息を呑む。
それは、先ほどエレノアが語った「居場所を失った者たちのための、理想の街」という夢と、全く同じ設計思想だった。
「なるほど……。前魔王が違法建築を連発したのは、戦争のせいで急造の要塞にリフォームせざるを得なかったからなんですね」
アルカは、日誌の文字をなぞりながら、穏やかに、けれど強く微笑んだ。
「エレノア様。あなたの夢は、間違っていません。この城は、最初からそういう『優しい場所』になるために建てられたんです。私たちがやっていることは、ただの修理じゃない。この城の、本当の歴史を取り戻すための、大いなるリフォーム(再生)です」
「アルカ……」
エレノアは愛おしそうに目を細め、アルカの腕に自分の腕をぎゅっと絡ませた。
「ええ。最高の街を、歴史に誇れる素晴らしい街を、二人で作りましょう。私の、大切な建築士さん」
外では激しい嵐の音が響いていたが、直された図書塔の中は、どこまでも暖かく、二人の少女の心(クソデカ感情)を、より深く、より強固に繋ぎ合わせていくのだった。




