第七話 魔物にも家がいる
「――ちょっとアルカ! 冗談は寝室と浴場だけにして頂戴! あの一角を『不法占拠』しているのは、スライムみたいな無害な存在じゃないのよ!?」
魔王城の外郭、西側を囲む頑強な城壁の足元。
エレノアは細剣の柄を強く握りしめ、城壁の崩れた隙間――ぽっかりと空いた暗い地下空洞を睨みつけながら、鋭い声を上げた。
そこには、十数匹の小柄な影がうごめいていた。
緑色の肌をしたゴブリン、そして犬のような顔を持つコボルトたちだ。
かつて魔王軍の最下級兵士として使われていた、獰猛な小型魔物の残党である。
彼らは手に錆びた鉄屑や骨の棍棒を持ち、侵入者であるアルカとエレノアを威嚇するように、ウゥ、と低い唸り声を漏らしていた。
「エレノア様、剣を収めてください。私の測定器は、彼らから『攻撃の意志』を検出していません。……検出されているのは、極度の『恐怖』と『構造的栄養失調』の数値だけです」
アルカは魔導測定器を片目に固定したまま、一歩前に進み出た。
「恐怖? 彼らは人間を襲う獰猛な魔物でしょう!? 今にも私たちを噛みちぎろうと睨みつけているじゃない!」
「いいえ、あれは威嚇ではなく、ただ震えているだけです。エレノア様、彼らが潜んでいるその空洞の構造を見てください」
アルカはランタンの光を、魔物たちが身を寄せ合う狭く湿った空間へと向けた。
天井からは土砂がパラパラと落ち、崩れた石材が鋭い刃物のように剥き出しになっている。
いつ全崩壊してもおかしくない、極めて危険な崩落指定区域だった。
「……彼らはね、人間に襲いかかるためにここに伏兵として潜んでいたわけじゃありません。近隣の森が人間の冒険者によって過剰に開拓され、住処を完全に奪われた結果、この滅びた魔王城の、誰も近づかない危険な廃墟へ逃げ込んできたんです。いわば、行き場をなくした『難民』ですよ」
「難民、だなんて……。でも、魔物は魔物よ」
エレノアの言葉に、アルカは手元の迷宮建築法手帳をパシッと開いた。
「法第百二条『すべてのダンジョン、およびその周辺領地において、世界意思に帰属する知的生命体(亜人・下級魔族含む)が生存の危機に瀕している場合、管理責任者は適切な人道的生存権の確保に努めねばならない』。不法占拠のまま放置すれば違法ですが、彼らを正式な『非戦闘系住民』として登録し、適切な区画を提供すれば、何の問題もありません。むしろ、城壁のこの崩落箇所を放置する方が、建築士としての私のプライドが許しません!」
アルカは巨大な魔導木槌を地面にドン、と突き立てた。
「第五工区『西側城壁・下級魔物専用居住区』、適合改修工事を開始します!」
「ちょっとアルカ! 本気なの!? 魔物と一緒に暮らすなんて、そんなの――!」
エレノアの制止の声が響く中、アルカの職人としての魔力が、一気に城壁一帯を包み込んでいった。
「建築魔法【危険部位破砕】、および【多機能集合住宅構築】!」
アルカが木槌を大きく一閃すると、ゴブリンたちが怯えていた崩落寸前の危険な岩肌が一瞬で粉々に砕け散り、不純物のない綺麗な土砂へと物質変換されていった。
続いて、ねじくれていた西側城壁の一部がバキバキと構造を変え、まるでパズルのように組み換わっていく。
崩落しかけていた暗い地下空洞は、ものの数分で、外からの光が優しく差し込む、階段付きの清潔な「長屋風集合住宅」へと劇的ビフォーアフターを遂げた。
ゴブリンやコボルトたちの小柄な体格に合わせ、天井の高さはあえて一・五メートルと低めに抑え、その代わり、彼らが集団で暖を取れるように、部屋の中央には安全な魔導レンガ製の「共同暖炉」が設置されている。
「さらに、法第百五条『肉球、または爪を有する生物の居住区においては、床材の硬度を調整し、関節への負担および爪の過摩耗を防ぐべし』! 床には柔軟性と耐久性に優れた、天然のコルク風硬化ゴム石を敷き詰めます! コボルトには滑りにくい床材が必要です」
「どうして?」
「肉球がありますから」
「そこまで調べたの?」
「当然です」
アルカが床をトンと叩くと、冷たかった石床が、弾力のある柔らかなココア色の床へと変質した。
「ぎゅ、ぎゅー?」
目の前で起きた奇跡のような大工事に、ゴブリンたちは唖然としていた。
しかし、新しく完成した部屋から溢れる暖炉の圧倒的な温もりと、柔らかく乾いた床の心地よさに抗えなかったのか、一匹、また一匹と棍棒を落とし、おずおずと部屋の中へ足を踏み入れた。
「ガウ……ウゥン」
犬頭のコボルトの一匹が、コルク床に寝そべり、その暖かさに気持ちよさそうに目を細めて尻尾をパタパタと振り始める。
彼らはもう、人間を警戒する鋭い目をしてはいなかった。
ただ、極寒の冬を前に、最高の寝床を手に入れた子どものように、お互いに身を寄せ合って安堵のため息を漏らしていた。
「よし、ゾーニングおよび適合改修、完了です!」
アルカが満足げに額の汗を拭う。
しかし、背後に立つエレノアは、まだ複雑な表情を浮かべたまま、新しくできた魔物の家を見つめていた。
「……アルカ。あなたの優しさは素晴らしいと思うわ。でも、本当にこれで良かったのかしら。魔物を城に住まわせるなんて、もし王都の人間や冒険者ギルドに知られたら、それこそ『反逆罪』の格好の口実にされてしまうわ。私は、これ以上大切なものを失いたくないのよ……」
エレノアは俯き、自分のドレスの裾を強く握りしめた。
その肩は微かに震えている。
王都での政治闘争のトラウマが、彼女の心に深い影を落としているのは明白だった。
アルカは木槌を背中に戻すと、ゆっくりとエレノアのそばに歩み寄った。
そして、躊躇うことなく、エレノアの強張った両肩を、自分の温かい手でそっと包み込んだ。
「エレノア様」
「な、何よ、アルカ……。私は領主として、現実的なリスクを指摘しただけで――」
「嘘をつかないでください」
アルカはエレノアの青い瞳を、まっすぐに見つめた。
「エレノア様は、彼らが魔物だから嫌っているんじゃない。彼らを住まわせることで、また王都の悪い大人たちに目を付けられて、この城を奪われるのが怖いだけです。……そして、それ以上に」
アルカは穏やかに、けれど確信を込めて言葉を続けた。
「エレノア様は本当は、彼らを追い出したくなんてなかったはずです。だって、彼らの姿は――すべてを奪われて、居場所をなくして、この魔王城に震えながら辿り着いた、あの時のエレノア様そっくりなんですから」
「っ……!」
エレノアが息を呑み、美しい瞳を大きく見開いた。
図星だった。
大貴族の誇りという仮面の下に隠していた、彼女の最も柔らかく、傷つきやすい本音を、この無愛想な建築士の少女は、完全に構造計算(見抜いて)していたのだ。
エレノアの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、彼女の美しい頬を伝って落ちていった。
「……そうよ。そうよ、アルカ。あなたの言う通りよ」
エレノアは声を詰まらせながら、アルカの胸元に顔を埋めるようにして、その作業着を強く掴んだ。
「私、あの子たちを見た時、王都を追放された夜の自分を思い出して、胸が張り裂けそうだったの……! 誰も助けてくれない、世界中が敵に見えるあの絶望を、あの子たちも味わっていたんだって分かったから。……本当は、助けてあげたかった。でも、怖かったの。私にはもう、何もないから……」
薔薇の香りと、エレノアの涙の温もりが、アルカの胸を満たしていく。
アルカは、自分にしがみついて泣く気高き令嬢の背中を、大きな包容力でそっと抱きしめた。
「エレノア様。あなたはもう、何も持たない没落令嬢じゃありません。この魔王城の立派な領主様です」
アルカはエレノアの耳元で、優しく、けれど絶対に揺るがない声で告げた。
「教えてください、エレノア様。あなたの本当の夢は何ですか? この城を、あなた一人が贅沢に暮らすための、傲慢な貴族の城にしたいのですか?」
「ううん……違うわ」
エレノアは涙を拭い、アルカの胸から顔を上げると、まだ赤みの残る瞳で、まっすぐにアルカを見つめ返した。
「私ね、この世界のどこにも受け入れられない者たちが、誰の目も気にすることなく、安心して眠れる『国』を――いいえ、誰もが『ただいま』って帰ってこられる『理想の街』を作りたいの。人間も、亜人も、魔物も関係なく、傷ついた者たちが寄り添って生きていける、そんな温かい場所を、この世界の最果てに築きたいのよ」
エレノアの口から語られた、壮大で、あまりにも優しい、本当の野心。
それを聞いた瞬間、アルカの胸の奥で、職人としての、そして一人の少女としての感情が、激しく、熱く燃え上がった。
(ああ、やっぱりこの人はずるい。こんなに綺麗で、こんなに重くて、愛おしい夢を語るなんて)
「……契約変更ですね、エレノア様」
アルカはエレノアの涙を親指でそっと拭い、不器用ながらも、これまでにない最高の笑顔を浮かべた。
「ただの『魔王城の住宅リフォーム』だと思っていましたが、どうやら私のこれからの仕事は、最凶ダンジョンの底に『世界一優しい街』をゼロから建設することのようです」
「アルカ……、手伝って、くれる?」
エレノアが不安げに、けれど期待に満ちた目で上目遣いに見つめてくる。
「手伝うなんて生ぬるいことは言いません。
私はお抱え建築士ですよ? あなたが思い描くその理想の街の設計図、私が全部、この木槌と法律で形にして見せます。
法律違反の壁は全部ぶち壊して、誰もが笑って暮らせる、頑丈で、温かい街を、一緒に作りましょう」
アルカが力強く宣言すると、エレノアは今度こそ、涙の跡を残したまま、ひまわりが咲くような眩しい笑顔を見せた。
「ええ! 頼りにしてるわ、私の、世界一の建築士さん!」
ふたりは固く、お互いの手を握りしめ合った。
ただの孤独な二人の隠れ家だった魔王城が、居場所をなくしたすべての者たちを受け入れる「街」へと、その本質を大改修し始めた瞬間だった。
西側城壁の新しい家からは、ゴブリンたちが「きゅきゅー!」と、まるで二人の門出を祝うような歓声(鳴き声)を上げていた。
しかし、街づくりが本格化するということは、さらなる生活インフラの整備が必要になるということで――。




