第六話 スライム風呂は営業禁止です
「――キャーッ!? ちょっとアルカ、大変よ! 浴場予定地が、得体の知れないプルプルしたピンク色の生命体に完全占拠されているわ!」
魔王城の中層、かつて貴族や魔族の幹部たちが使っていたとされる広大な大浴場。
その重厚な石の扉を開けた瞬間、エレノアの悲鳴が再び響き渡った。
二人の眼前に広がっていたのは、テニスコートほどもある巨大な大理石の浴槽――。
しかし、そこに満ちていたのは清らかなお湯ではなく、壁の亀裂から湧き出る温泉の熱気に悦び、ポコポコと泡を立てて這い回る、数百匹もの『温泉スライム』の群れだった。
しかも、ただのスライムではない。
ほんのり桜色に発光し、湯気を吸って実にもっちりと、気持ちよさそうに波打っている。
「魔王城の残党ね! 私の安らぎのバスタイムを邪魔する不届きものめ、一匹残らず駆除してくれるわ!」
エレノアは怒髪天を突き、腰の細剣をシャキィンと引き抜いて突撃しようとした。
王都を追われ、連日のハードな片付け作業で、彼女の「お風呂に入りたい欲」は限界を迎えていたのだ。
「エレノア様、お待ちください! 施工区域内での無計画な戦闘は禁止です!」
アルカは咄嗟にエレノアの細い手首を掴んで引き留めた。
「離してアルカ! あんなドロドロした魔物、一網打尽にして排水溝に流してしまえばいいのよ!」
「ダメです! よく見てください、あのスライムたち……ただの不法占拠者ではありません。非常に優秀な『天然のろ過建築資材』です!」
「は……? ろか、資材?」
エレノアが剣を構えたまま呆然とする。
「一匹あたり毎分二十リットル処理できます」
「数えたの!?」
「設備ですから」
「生き物でしょう!?」
アルカは手鏡型の魔導測定器を浴槽の縁にかざし、その数値を凝視しながら興奮気味に言った。
「見てください。この魔王城の地下から湧き出ている温泉は、本来なら非常に強力な硫黄成分と魔毒を含んだ『強酸性泉』なんです。人間がそのまま入れば、三分で肌がただれて骨になります。法第七十四条『公衆浴場における浴槽水は、人体に危害を及ぼす恐れのある化学物質、または魔力毒素を含んではならない』。普通なら一発で営業禁止、即座に温泉使用停止処分です」
アルカは一匹の温泉スライムを指差した。
「ですが、あの子たちを見てください! 湧き出る強酸性の温泉を体内に取り込み、硫黄や魔毒だけを主食として分解・吸収しています。そして、スライムの体を通って排出されたお湯の数値を測定すると……なんと、極上の『弱アルカリ性・美肌の湯』へと完全無害化されているんです! つまり、このスライムたちは、世界意思が認可するレベルの最高級循環ろ過装置なんですよ!」
「えええっ!? じゃあ、あのお風呂のピンク色のプルプルは、全員お湯を綺麗にしてくれているって言うの?」
エレノアが驚愕して細剣を収める。
「その通りです。ただし! 今の状態は、ろ過装置が浴槽の中で直接泳いでいる状態ですから、やはり法規上の衛生基準は満たしていません。一緒に入浴したら肌がスライムまみれになりますからね。……ですから、ここは完全駆除ではなく、魔物と共存するための『適切なゾーニング(区画整理)』が必要です!」
アルカは魔導木槌を肩に担ぎ直し、不敵に微笑んだ。
「第四工区『大浴場および魔導循環ろ過システム』、適合改修工事を開始します!」
ドン! とアルカが木槌を打ち付けると、大浴場のカビ臭い空気が一瞬で吹き飛んだ。
「建築魔法――【区画隔離】、および【多段式ろ過槽構築】!」
アルカが木槌を一閃すると、大浴槽の奥、温泉が湧き出ている壁面に、厚い『魔導強化ガラス』の隔壁がガガガッと自動で構築されていった。
浴槽の底の石材が生き物のように変形し、温泉が湧き出る「第一槽(スライム生息区)」から、お湯がオーバーフローして隣の「第二槽(入浴区)」へと流れ込む、美しい階段状の多段式ろ過システムが瞬時に組み上がっていく。
「きゅ、きゅ~?」
数百匹の温泉スライムたちは、新しくできた自分たち専用の「第一槽(ぬくぬく高濃度温泉エリア)」へと綺麗に集められ、ガラス越しに幸せそうにプルプルと身を寄せ合った。
「よし、これでろ過装置のゾーニングは完了です! 次は、法第七十六条『浴場施設には、じゅうぶんな換気能力を有する開口部、または魔導除湿設備を設けること』をクリアします!」
アルカが天井を仰ぎ、木槌を突き出すと、完全に目詰まりしていた古い魔王軍の排気口がバキバキと粉砕され、代わりに美しいステンドグラスを嵌め込んだ、開閉式の大きな天窓へとリフォームされた。
天窓が静かに開くと、大浴場に籠もっていた白い湯気が一気に吸い出され、同時に、外の美しい月光が浴槽の水面に差し込んできた。
「仕上げに、浴槽の周囲の床を【滑り止め木目石】に変質! これで湯上がりに足元を滑らせて頭を打つ心配もありません!」
アルカが床をトンと叩くと、冷たかった大理石の床が、ほのかに木の温もりを感じさせる、水分を吸収しやすい特殊な高級石材へと生まれ変わった。
すべての光が収まった時、そこにあったのは――。
天井の天窓から差し込む美しい月光に照らされ、スライムたちがろ過した、水晶のように透き通った美肌の湯がなみなみと湛えられた、幻想的な「魔導露天風大浴場」だった。
「……綺麗。これが、本当にあのスライム地獄だった場所なの?」
エレノアは、月光を反射してキラキラと輝く湯面を見つめ、うっとりとため息を漏らした。
ガラスの向こうでは、ピンク色のスライムたちが「きゅー、きゅー」と嬉しそうに発光し、まるで天然の水中イルミネーションのようになっている。
「迷宮建築法、第四工区完全クリアです。これで営業許可……いえ、私たちのプライベート温泉が完成しました!」
アルカが満足げに汗を拭うと、エレノアは待ちきれないとばかりに、ドレスのボタンに手をかけた。
「合格よ、アルカ! 最高の仕事ね! 私、もう一秒も我慢できないわ。さっそく一番風呂をいただくことにするわ!」
「あ、はい。それでは私は外で見張りを――」
「何を言っているのよ、アルカ。あなたも一緒に入るのよ?」
「……はい?」
アルカの思考が、一瞬でフリーズした。
「い、一緒には入りませんよ!?」
アルカは真っ赤になって数歩飛び退いた。
「どうしてよ? 浴槽はこんなに広いし、あなただって連日の重労働で泥まみれじゃない。湯冷めしたらどうするのよ。職人の健康管理も領主(雇い主)の義務でしょう?」
エレノアは不思議そうに小首を傾げる。
大貴族の令嬢にとって、親しい侍女や友人と湯を共にするのは王都では珍しくないことだったが、平民の、しかもウブな職人少女であるアルカにとっては、あまりにも心臓に悪すぎる提案だった。
「いいえ! 法第十八条『管理責任者は、入浴施設の利用において適切な公序良俗を維持せねばならない』! とにかく、私は真面目な職人ですので、雇い主様と裸の付き合いなんて緊張して倒れてしまいます!」
アルカが魔導手帳を盾にするようにして真顔で拒絶すると、エレノアはなぜか、少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「ふん、固苦しい子ね。……じゃあ、背中くらいは流させなさいよね。それもダメ?」
「うぐっ……そ、それくらいなら、ギリギリセーフ……かもしれません」
結局、アルカは脱衣所で体を軽く洗い、大きめのバスタオルを胸元にきつく巻きつけた状態で、おずおずと大浴場へと戻ってきた。
すでに浴槽に浸かっていたエレノアが、湯気の中から振り返る。
「――っ」
アルカは、思わず息を呑んだ。
月光とスライムの微かなピンク色の光に照らされたエレノアの肌は、まるで上質な白磁のように滑らかで、白く輝いていた。
濡れた金髪が首筋にはりつき、お湯の熱で上気した頬が、たまらなく色っぽい。
「遅いわよ、アルカ。ほら、早くこっちに来て、私の背中を流して頂戴」
エレノアは浴槽の縁に腕をかけ、背中をアルカに向けた。
「は、はい……。失礼します」
アルカはカチコチに緊張した動きで歩み寄り、温かいお湯で濡らしたタオルを手にした。
エレノアの、華奢で、少しだけ背骨のラインが浮き出た美しい背中に、そっとタオルを当てる。
「あ……温かくて気持ちいい。アルカの手、職人だからかしら、少し固くて……でも、すごく優しいのね」
エレノアが気持ちよさそうに、ふにゃりと目を細める。
「……そんなこと、ありません。ただ、建物の壁を磨くのと同じ要領で、均一な圧力をかけているだけです」
アルカは必死で自分の心臓の爆音を隠そうと、わざと無愛想な技術論を口にした。
「ふふ、私の背中を壁扱いするなんて、本当にあなたらしいわ」
エレノアはくすくすと笑ったあと、お湯をパチャパチャと手で弄びながら、少しだけ声を落とした。
「ねえ、アルカ。王都にいた頃の私はね、毎日お風呂に入るのだって、自分の身分や美しさを『誇示するため』の儀式のようなものだったの。誰よりも高価な香油を使い、誰よりも豪華な浴槽に入って、周囲の令嬢たちを見下さなきゃいけなかった。……でもね」
エレノアは振り返り、湯気の中からアルカをまっすぐに見つめた。
その青い瞳には、何の虚飾もない、一人の十代の少女としての純粋な光があった。
「あなたが作ってくれたこのお風呂は、世界で一番贅沢だわ。高価な宝石なんてどこにもないのに……ただ、暖かくて、安心できて、あなたとこうして話していられる。私、本当にこの魔王城に来て、あなたに出会えて良かった」
「エレノア様……」
アルカの手が止まる。
エレノアの真っ直ぐな言葉が、お湯よりもずっと温かく、アルカの胸の奥へと染み込んでいく。
ただ「違法建築を直す」という義務感から始まったはずの仕事が、いつの間にか、このエレノアという少女の笑顔を見たいという、個人的な強い願いに変わっていることに、アルカは気付き始めていた。
「……ずるいです、エレノア様」
「え? 何がかしら」
「そんな顔でそんなことを言われたら、私、もっともっとこの城を完璧にリフォームしなきゃいけないって、採算度外視で働いちゃいますから。……本当に、人使いの荒い雇い主様です」
アルカが耳まで真っ赤にしながら不器用な笑みを浮かべると、エレノアは嬉しそうに、弾けるような笑顔を咲かせた。
「ふふ、期待しているわ、私の天才建築士さん。さあ、次はあなたの背中を流してあげるわ、こっちに来なさい!」
「ひゃあ!? 結構です、私は自分で流せますから引っ張らないでください――!」
湯気の立ち込める美しい大浴場で、二人の少女の賑やかな笑い声が響き渡る。
かつて魔族の長たちが怪しい謀略を巡らせていたかもしれない大浴場は、今や二人の距離を極限まで近づける、ドキドキと温もりに満ちた「癒やしの空間」へと劇的に生まれ変わったのだった。
極上の温泉で一日の疲れを完全にデトックスした二人は、その夜、驚くほど深い眠りについた。
そして翌朝、リフォーム計画が次の段階へと進むなか、魔王城に長年隠されていた「ある重大な秘密」の扉が開くことになるのだった。




