第四話 同じベッドは規定外です
夜になり、魔王城の周囲は、昼間よりもさらに深い魔霧と、凍えるような静寂に包まれていた。
しかし、アルカがリフォームを施した「寝室」の中だけは、まるで王都の一流ホテルのように暖かく、居心地の良い空間が保たれていた。
壁の魔導ランプからは、温かみのあるオレンジ色の光が零れている。
部屋の中央には、アルカの魔法で完全に乾燥され、ふっくらとした純白のシーツが敷かれたキングサイズのベッド。
その空間で、二人の十代の少女は、非常に気まずい距離感を保っていた。
「……あの、エレノア様」
「な、何かしら、アルカ」
エレノアはベッドの端に腰掛け、ドレスの裾をきゅっと握りしめながら、不自然なほど背筋を伸ばしていた。
「私は床で寝ます。職人ベルトを枕にすれば、どこでも眠れますから。お嬢様はどうぞ、そのふかふかのベッドを独占してください」
アルカは部屋の隅のフローリングに、作業用の毛布を広げようとした。
「却下よ!」
エレノアが鋭い声を上げた。
「え?」
「ローゼンバーグ家の娘がね、自分のために部屋を命がけで直してくれた職人を、冷たい床で寝かせるわけがないでしょう!? そんなことをしたら、私のプライドが許さないわ。いいから、あなたもそのベッドに上がりなさい!」
エレノアは顔を真っ赤にしながら、キングサイズベッドの半分をポンポンと叩いた。
「ですが、私はしがない労働者で、エレノア様は高貴な……」
「今はただの没落令嬢よ! それに、このベッドは無駄に広すぎるわ。二人が端と端に寝れば、触れ合うこともないはずよ。……それとも何か? あなたは、私と同じベッドで寝るのが嫌だと言うの?」
エレノアが少しだけ寂しげに、潤んだ瞳でアルカを上から見つめてくる。
その破壊力に、アルカの心臓はドキン、と大きな音を立てた。
無愛想を貫いてきた彼女だったが、こんな綺麗な同世代の少女にそんな目を向けられて、平気でいられるはずがなかった。
「……わかりました。そこまでおっしゃるなら、お言葉に甘えます。ただし、迷宮建築法第十五条『防犯および緊急時の対応のため、管理責任者は被管理者の動線上に就寝スペースを確保すること』の精神に基づいた、あくまで『仮設共同就寝措置』ですからね」
「はいはい、わかったわ。本当にあなた、照れ隠しに法律を使うのね」
アルカは作業着の上着を脱ぎ、おずおずとベッドの左端へと潜り込んだ。
エレノアは右端へと横になり、ランプの光を落とす。
部屋は暗くなり、オレンジ色の微かな常夜灯だけが二人を照らした。
確かにキングサイズベッドは広い。
二人の間には、優に大人一人分以上の空間が空いていた。
(……眠れない)
アルカは寝返りも打てず、天井を見つめたまま硬直していた。
すぐ近くから、衣類が擦れる微かな音と、昼間も感じた薔薇のような甘い香りが漂ってくる。
王都で孤独に、ただ建物を直すことだけを生きがいにしていたアルカにとって、誰かと体温を共有して眠るというシチュエーション自体が、あまりにも刺激が強すぎた。
「ねえ、アルカ」
暗闇の中から、エレノアの穏やかな声が聞こえた。
「……はい」
「怒っていないわよね? 私が、こんな無茶なリフォームを押し付けたこと」
「プロですから、仕事に怒ることはありません。
それに、違法建築を見つけると、かえって燃えるタチなので」
「ふふ、本当に変な子」
エレノアは少しだけ身を翻し、アルカの方を向いた気配がした。
「私ね、王都を追われる時、誰一人として味方がいなかったの。昨日まで笑顔で近づいてきた貴族たちが、一瞬で私を汚い物を見るような目で蔑んで、裏切っていった。……だから、全財産でこの誰も住めない魔王城の権利を買った時、ここで一人で野垂れ死んでもいいって、半分は自棄になっていたのよ」
シーツの擦れる音がする。
エレノアの声は、昼間の傲慢な令嬢のものとは思えないほど、小さく、震えていた。
「でも、あなたが来てくれた。このボロボロの城を見て、恐れるんじゃなくて、『法律違反だ』って怒って、私のために門を真っ白に、綺麗に直してくれた。……それが、すごく、嬉しかったの」
暗闇の中で、エレノアの青い瞳が、常夜灯の光を反射してきらきらと輝いていた。
アルカは、胸の奥がキュッと締め付けられるような、切ない感覚を覚えた。
(この人は、ずっと一人で、張り詰めていたんだ……)
「エレノア様」
アルカは少しだけ、自分の体をベッドの中央へと寄せた。
「私はお世辞や嘘は言えません。でも、私が直した建物は、絶対に人を裏切りません。あの城門も、この部屋も、あなたが『ここにいていい』と守るために、私が世界で一番頑丈に作りました。だから……安心して眠ってください。私がいる限り、この城はあなたを絶対に拒絶しませんから」
「……アルカ」
エレノアは驚いたように目を見張ったあと、泣きそうな、けれど心からの嬉しさに満ちた笑みを浮かべた。
「ええ……おやすみなさい、私の可愛い建築士さん」
「可愛くありません。おやすみなさい、雇い主様」
二人はそれ以上言葉を交わさず、それぞれの夜へと沈んでいった。
☆
翌朝。崩れた天井の隙間から、心地よい朝の光が寝室の窓を抜けて差し込んできた。
「……ん」
アルカは微かな温もりと、心地よい重みを感じて目を覚ました。
いつもなら、硬い作業場の床で腰を痛くしながら目覚めるはずなのに、今朝は驚くほど体が軽い。
シーツも驚くほどふかふかで――。
(……ん? 重み?)
違和感を覚えたアルカが視線を下に落とした瞬間、彼女の全身の細胞が、凍りついたように静止した。
「すー……、すー……」
目の前にあったのは、信じられないほど端正な、エレノアの寝顔だった。
昨夜、あれほど離れて寝ていたはずのエレノアが、どういうわけかベッドの中央を完全に越え、アルカの体にぴったりと密着していたのだ。
それだけではない。
エレノアは寒がりなのか、アルカの毛布を自分のものごと巻き込み、まるで抱き枕にするかのように、アルカの細い胴体に両腕を回して抱きついていた。
エレノアの柔らかい胸元が、アルカの薄いインナー越しにぴったりと押し当たっている。
「な、ななななな――!?」
アルカの脳内で、迷宮建築法どころではない「未曾有の緊急事態アラート」が限界突破の音を立てて鳴り響いた。
顔の距離は、わずか数センチ。
エレノアの規則正しい吐息が、アルカの鎖骨のあたりに当たって、くすぐったい。
(ど、どういうことですかこれ!? 法第十五条に『被管理者の完全密着』なんて規定はありません! い、息ができない、心臓が爆発する――!)
アルカが真っ赤になって完全にパニックに陥っていると、エレノアの長い睫毛が、ピクリと動いた。
「……ん……。暖かくて、気持ちいい……」
エレノアは寝言を呟きながら、さらにアルカの首筋にぐりぐりと頭を擦りつけてくる。
金髪の縦ロールがアルカの頬に当たって、チクチクとして、けれど、とてつもなく甘い香りがした。
やがて、エレノアの青い瞳が、ゆっくりと開かれた。
「……おはよう、アルカ。……あら? 私の目の前に、どうして真っ赤に茹で上がったトマトがあるのかしら?」
「ト、トマトじゃありませんアルカです! エレノア様、早く離れてください! これは不法占拠、いいえ、身体の不当拘束です!」
アルカが裏返った声で叫ぶと、エレノアは自分が置かれている状況をようやく理解したようで、一瞬で顔を耳まで真っ赤に染め上げた。
「ひゃあぁっ!?」
エレノアは飛び起きるようにして、ベッドの反対側へと転がっていった。
毛布を胸元まで引き上げ、取り乱した様子で叫ぶ。
「ち、違うわよ! これは私がわざとやったわけじゃなくて! 私は生まれつき、寒くなると温かいものに無意識にすり寄ってしまう体質なだけであって! 決してあなたをどうこうしようとしたわけでは――!」
「わ、わかっています! お嬢様が冷え性なのは構造計算の段階で織り込み済みです! ですが、次回からは事前に防寒術式を二重に展開しますからね!」
ベッドの上で、お互いに顔を真っ赤にしたまま、毛布を引っ張り合う二人の少女。
昨日までは、ただの「風変わりな雇い主」と「融通の利かない職人」だった。
けれど、この狭い一部屋と、一台のベッドを共有したことで、二人の関係は確実に、ただのビジネスパートナーから「ひとつ屋根の下で暮らす同居人」へと、その基礎(土台)を移し始めていた。
「……もう、朝から大声を出すから、お腹が空いちゃったじゃない」
エレノアが乱れた髪を直しながら、ぷいっと不機嫌そうに(しかし照れ隠しだと一目でわかる様子で)呟いた。
「そうですね。
リフォームの基本は、食住の安定です。
寝床が確保できた以上、次は生活の要を直さなければなりません」
アルカもまた、早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、作業着を羽織って立ち上がった。
「エレノア様、第三工区を指定します。次は、私たちが毎日まっとうな食事を摂るための『厨房・食堂』の確保に乗り出しましょう」
「ええ、期待しているわ。でも……このお城に、そんな調理場になりそうな場所なんてあったかしら?」
エレノアの疑問に対し、アルカは不敵な笑みを浮かべ、魔導手帳の次のページを開いた。
そこには、魔王城の最下層に位置する、最も不気味で冷酷なエリアの図面が描かれていた――。




