第三話 最初の部屋は、二人の寝室
「――冷たっ!? ちょっとアルカ、今、私の完璧にセットされた縦ロールの隙間に、信じられないくらい冷たい水滴が命中したのだけれど!」
「エレノア様、動かないでください。そこはさっき私が、天井の魔力漏れによる『結露多発区域』に指定したばかりです。避難勧告に従ってください」
「避難って言われても、右を向いても左を向いても水浸しか、あるいは崩れた瓦礫しかないじゃない!」
新しく完成したばかりの、ピカピカな白銀の城門をくぐった先。魔王城の内郭へと足を踏み入れた二人が目にしたのは、まさに「地獄の居住環境」だった。
百年分の雨風に晒された天井はあちこちがひび割れ、そこから染み出した雨水が、城内に引き込まれた未処理の魔力水脈と混ざり合って、天井から容赦なく降り注いでいる。
床を見れば、湿気と魔力を吸って異常繁殖した『温泉スライム』が、どろどろとした音を立てて這い回っていた。
「……はぁ。外見だけは立派な魔王城でしたが、中身はただの『浸水欠陥住宅』ですね。エレノア様、手元の迷宮建築法カルテを見てください」
アルカは手鏡型の魔導測定器を片手に、眉間を深く寄せた。
「法第六条『居住を目的とする区画においては、著しい雨漏り、および有害な魔力漏出を防ぐための防護遮蔽を施さねばならない』。完全にアウトです。これでは住居ではなく、ただの水耕栽培用の温室ですよ」
「温室って……私は植物じゃないわよ! れっきとしたローゼンバーグ家の令嬢。いえ、元令嬢よ。こんな、カビと湿気まみれの場所で夜を明かすなんて、精神が崩壊してしまうわ!」
エレノアはドレスの裾を必死に持ち上げ、スライムの粘液を避けながら絶叫する。
その姿は痛々しくもあったが、どこか小動物めいた必死さがあって、アルカは少しだけおかしかった。
「わかっています。ですから、まずは何をおいても、今夜一晩、エレノア様が安全に、まっとうに眠れる『拠点』を作りましょう。幸い、この先にある元・幹部用の客室エリアは、骨組み(構造材)自体はまだ生きています。あそこを一部屋だけ急ピッチで叩き直します」
アルカは大きな魔導木槌を肩に担ぎ、エレノアの手を引いて薄暗い廊下を進んだ。
案内した部屋は、十畳ほどの広さの小部屋だった。
家具はほとんど腐り落ちていたが、部屋の奥には、奇跡的にまだ形を保っている、大きな木製のキングサイズベッドが一台だけ佇んでいた。
「よし、ここを第二工区に指定します。エレノア様、私がここでリフォーム魔法を展開している間、隣の予備室の状況も見てきます。そちらが直れば、私とエレノア様で個室を分けられますからね」
「わかったわ。あなたのその『建築魔法』というの、本当に魔法の概念がひっくり返るくらい便利ね。期待しているわ」
エレノアにそう見送られ、アルカはさっそく、二つの部屋の同時改修に取りかかった。
腰のベルトから魔導触媒の釘を抜き、部屋の四隅に打ち込む。
「建築魔法【防湿断熱施工】、および【構造補強】!」
アルカが魔導木槌を床に叩きつけると、淡い青色の光が部屋全体を包み込んだ。
壁のひび割れが生き物のように塞がり、じっとりと湿っていた空気があっという間にカラリとした快適な温度へと変わっていく。
床に溜まっていた水分は魔法陣に吸い込まれ、建物の外へと排出されていった。
(よし、エレノア様の部屋はこれで完璧。あとは私の寝室になる予定の、隣の部屋の天井を少し固定して――)
アルカが隣の部屋に移動し、木槌を振るおうとした、その瞬間だった。
――ズズズ、と不穏な地鳴りが響いた。
「え……?」
アルカが顔を上げた瞬間、測定器が真っ赤な警告を発した。
「しまっ――! さっきの城門の工事で、全体の構造バランス(応力分布)が一時的に変化していたのを見落とした!? ここの天井、骨組みごと完全に死んで――」
バリバリバリッ! と凄まじい破壊音が響き渡る。
「アルカ!?」
隣の部屋からエレノアの悲鳴が聞こえたのと同時に、アルカの目の前の天井が、巨大な石材ごと一気に崩落した。
「くっ……【即席障壁】!」
アルカは咄嗟に木槌を突き出し、自分の頭上にだけは瓦礫が落ちてこないよう防御スクリーンを展開した。
しかし、凄まじい砂煙が収まった時、アルカの寝室になるはずだった部屋は、完全に巨大な岩石で埋まり、文字通りの「圧殺空間」と化していた。
「げほっ、ごほっ……! あ、危なかった……。構造計算を急ぎすぎましたね。職人として恥ずかしい失態です……」
煤まみれになったアルカが部屋の隅から這い出ると、隣の部屋の扉が勢いよく開き、エレノアが飛び出してきた。
「アルカ! 無事なの!? 信じられない、大きな音がして――って、何よこれ!?」
エレノアは、完全に瓦礫の山となった部屋を見て、息を呑んだ。
「す、すみません、エレノア様。私の不手際です。隣の部屋を直した反動で、こちらの部屋の天井が完全に崩落しました。……幸い、エレノア様の部屋の構造は完全に固定したので絶対安全ですが」
アルカは頭を掻きながら、バツが悪そうに言った。
「こちらの部屋の瓦礫撤去と再施工には、物理的な資材と最低でも三日はかかります。つまり……」
「つまり?」
エレノアが小首を傾げる。
「今夜、この魔王城の中で、迷宮建築法の安全基準を満たしている『まともに眠れる部屋』は……エレノア様のあの部屋、ただ一つだけです。……そして、ベッドも一台しかありません」
「……アルカ」
「はい」
「今からもう一部屋建てなさい」
「三日はかかります」
「今夜中に」
「建築士を何だと思っているんですか」
静寂が、崩落した廊下に満ちていった。




