第十四話 この城は、誰のもの?
「――そんな、理不尽だわ! 武力で奪えないと分かったら、今度はそんな古い紙切れ一枚で、私たちの積み重ねをすべて白紙に戻そうというの!?」
魔王城の領主執務室に、エレノアの絶望に満ちた叫びが響き渡った。
彼女の目の前にある大理石のテーブルの上には、王都の最高法廷から届いたという、仰々しい金色の封蝋が押された一通の指令書が広げられていた。
そこには、エレノアの旧敵である貴族たちが裏から手を回し、王国の古い基本法を引っ張り出して突きつけてきた、最悪の文言が並んでいた。
『旧魔王城は居住可能な領地ではなく、依然として未攻略の「危険ダンジョン」である。
ゆえに、私人による領有および都市開発は一切認められない。
該当区域の権利を即座に凍結し、国(王都)へ強制返還すべし。
これに従わぬ場合は反逆罪とみなす』
「未攻略のダンジョン、ですって……?」
エレノアは執務室の窓から、外を見つめた。
そこには、新しく直した頑強な白銀の城門があり、楽しそうに笑うミナの姿があり、パンを焼く香ばしい匂いを漂わせる商店街がある。
みんなが「ここが自分の家だ」と信じて、命がけで守り抜いたばかりの、温かい『町』がそこには存在しているのだ。
「そんなの、あんまりよ……。武力で勝っても、国の法律が『ここはダンジョンだ』と言い張れば、私たちはただの犯罪者(不法占拠者)になってしまう。アルカ……私、また守れなかった。みんなの居場所を、私の力不足のせいで……」
エレノアは椅子に崩れ落ち、両手で顔を覆ってボロボロと大粒の涙をこぼした。
王都を追放されたあの夜の絶望が、再び彼女の細い肩に重くのしかかっていた。
しかし――アルカは絶望していなかった。彼女は短い黒髪をがしがしと掻きむしると、手元にうず高く積まれた『迷宮建築法』の古文書の山から顔を上げ、メガネ(魔導測定器)をキリッと指先で押し上げた。
「エレノア様、領主がそんな簡単に涙の塩分濃度を上げてはいけません。相手が古い法律を持ち出してきたのなら、こちらにはそれよりもさらに上位の、この世界の絶対のシステム――『世界意思(迷宮建築法)』でカウンターを仕掛けるまでです!」
「え……?」
エレノアが涙を拭い、顔を上げる。
「見つけたんですよ、図書塔の奥に眠っていた古い特例条項を! 法第百二十一条『ダンジョンとして登録された構造物であっても、その内部において住居、商店、道路、水道、および安全設備が一定の基準を満たして稼働している場合、監査官の立ち会いのもと、ダンジョン登録を強制解除し、正式な【都市】として再認定させることができる』!」
「と、都市への再認定……!?」
エレノアが息を呑む。
「その通りです! 私たちがこれまで、命がけでリフォームしてきた場所を思い出してください! 快適な寝室、衛生的な厨房、ろ過温泉、魔物居住区、商店街、そして、最強の城門! これらはすべて、迷宮建築法が定める『一級都市インフラ』の基準を完全に、十二分に満たしています!」
アルカは机の上の図面をバシバシと叩いた。
「敵の言う王国の法律なんて、世界意思が定める迷宮建築法(上位法)の前にはただの下位規定に過ぎません。都市としての審査をクリアすれば、国はここを没収するどころか、正式な領地として認めざるを得なくなるんです!」
「アルカ……! 本当に、あなたって子は、どこまで私の光になってくれるの……!」
エレノアの瞳に、再び不屈の希望の炎が灯った。
彼女は立ち上がり、アルカの作業着の胸元をぐっと掴んだ。
「だったら、今すぐその監査官とやらを呼びましょう! この素晴らしい城を見せて、ギャフンと言わせてやるわ!」
「……ですが、エレノア様。一つだけ、最後の条件が足りていないんです」
アルカは少しだけ視線を落とし、カルテの最終ページを指差した。
その声には、これまでにない微かな躊躇いが混ざっていた。
「法第百二十三条『都市再認定の最終要件として、該当区域を正式な居住地とし、生涯を共にする意志を持つ住民が、一定数以上、住民登録書に署名捺印していなければならない』。……人間の商人たちやゴブリンの皆さん、そしてミナは、すでに『ここに骨を埋める』と喜んで署名してくれました。ですが、あと一人分だけ、どうしても足りないんです」
「あと一人……? 誰よ、それ。私が今から商店街へ行って、誰か捕まえてくるわ!」
エレノアが息巻く。
「……私です」
アルカは、ぽつりと呟いた。
「え?」
「私自身が、まだこの魔王城への『住民登録』をしていないんです。私の現在の登録住所(戸籍)は、いまだに王都の工務店のままになっています。……あと数日のうちに、私がここに正式に籍を移さなければ、有効な住民数が足りず、都市への再認定は不合格となり、この城は国に没収されます」
アルカの言葉に、執務室の中が一瞬で静まり返った。
☆
その夜、アルカは自室(二人の寝室)の机に向かい、一枚の白紙の『住民登録書』を見つめていた。
羽ペンを持った右手が、虚空で止まったままだ。
(私は、どうするべきなんだろう……)
ここに名前を書き、住所を『旧魔王城・領主館』と記入すれば、もう二度と王都の一流建築組合へ戻ることはできない。
宮廷建築士への道も、事実上、完全に閉ざされることになる。
一人の職人として、自分の人生のすべてを、この最果ての魔王城と、エレノアという一人の没落令嬢に完全に預けるということを意味していた。
コンコン、と静かに引き戸が叩かれた。
「アルカ、入ってもいいかしら」
「……エレノア様。どうぞ」
部屋に入ってきたエレノアは、いつもの華美な態度ではなく、どこか寂しげで、儚げな表情を浮かべていた。
彼女はアルカの机の上に置かれた白紙の登録書を見つめ、ゆっくりとベッドの縁へと腰掛けた。
「……迷っているのね、アルカ」
「迷う、というか……構造的選択(人生の決断)の重さを計算しているだけです」
アルカはわざと無愛想に答え、羽ペンを机に置いた。
「嘘をつかなくていいわ。あなたの夢が、王都で一流の建築士として認められることだったのは知っているもの」
エレノアは膝の上で自分の細い指をきゅっと絡ませ、ポツリポツリと、胸の奥の本音を語り始めた。
「私、昨日のハグの時、あなたに『どこにも行かない』って言われて、本当に嬉しかった。世界中で一人きりだった私に、あなたという生涯の味方ができたんだって、舞い上がるほど幸せだったの。……でもね、今になって冷静になると、私のこの我が儘な街づくりのために、あなたの輝かしい未来を、夢を、完全に奪ってしまっていいはずがないわ」
エレノアは顔を上げ、青い瞳から涙を溢れさせながら、アルカをまっすぐに見つめた。
「だから、アルカ。無理にここに登録しなくていいのよ。あなたは明日、監査官が来る前に、王都行きの馬車に乗りなさい。城が没収されたって、私はミナたちとどこか別の土地で、また小さく暮らすから……。あなたの人生を、私のために諦めてほしくないの」
アルカのためを想うからこそ、自分の最も大切なパートナーを手放そうとする、エレノアのクソデカ感情(究極の優しさ)。
それを聞いた瞬間、アルカの胸の奥で、すべての迷いの構造体が、跡形もなく完全にリフォーム(爆破・融解)された。
「……本当に、あなたという施主は、どこまで的外れな構造計算をしているんですか」
アルカは深くため息をつくと、椅子から立ち上がり、エレノアの目の前に歩み寄った。
「アルカ……?」
アルカは躊躇うことなく、ベッドに座るエレノアの華奢な両肩を、自分の温かい手でガシッと掴んだ。
「よく聞いてください、エレノア様。私が本当に欲しかった夢は、王都の傲慢な貴族たちにちやほやされる『有名建築士』になることなんかじゃありません!」
アルカはエレノアの涙に濡れた青い瞳を、至近距離から真っ直ぐに射抜いた。
「私が欲しかったのは……私が命がけで作った頑丈で温かい場所で、誰かが心から幸せそうに暮らしてくれること。そして――その幸せそうな姿を、世界で一番、私の隣で見せてほしい相手が、エレノア様、あなただったんです!」
「――っ!」
エレノアが、あまりの衝撃に美しい唇を震わせ、息を呑んだ。
「王都の大規模開発なんて、私にとってはただの味気ない『ハコモノ』です。ですが、あなたが居場所のない人たちのために泣いて、笑って、みんなで作ってきたこの魔王城は、私にとって世界で唯一の、最高の『作品』なんです。この作品の完成を、あなたの隣で見届けられないなら、職人なんて辞めてやります!」
アルカは机に引き返すと、迷いのない手つきで羽ペンをインクに浸し、白紙の住民登録書へと猛然とペンを走らせた。
美しい文字で、自身の名前『アルカ』が刻まれる。
そして、その隣の住所の欄に、彼女ははっきりと書き加えた。
――【旧魔王城・領主館】。
「住所の記入、完了です」
アルカはペンを置くと、まだ唖然としているエレノアを振り返り、耳まで真っ赤に染めながら、不器用な、けれどこれまでにない最高の笑みを浮かべた。
「エレノア様。これでもう、私はあなたの単なる『雇われ職人』ではありません。この城の、正式な住民です。……これからは、ずっと一緒ですよ」
エレノアは登録書に書かれたアルカの名前と住所を見つめ、それから、真っ赤になって照れている愛おしい建築士の少女を見上げた。
彼女の瞳から、今度は絶望の涙ではなく、生涯消えることのない、圧倒的な幸福の涙が溢れ出した。
「……ええ! ええ、そうね! 私の、私たちの、世界一の建築士さん……!」
エレノアはベッドから飛び起きると、アルカの首筋に思いっきり抱きつき、その細い体を壊れるほど強く強く抱きしめた。
アルカもまた、エレノアの薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、その華奢な背中を、愛おしさを込めて強く抱き返した。
法的危機という最大の壁を前にして、二人の心は、ついに『生涯を共にする』という、絶対無敵の構造(愛)によって完全に接続(定着)されたのだった。
住民登録、最後のひとり分が、今ここに完了した。
いよいよ翌朝、魔王城の命運、そして二人の未来をかけた、世界意思の監査官による「最終都市認定審査」が始まろうとしていた――。




