第十二話 アルカに王都からの依頼
「――これ、本当にアルカ宛てなの?」
魔王城の領主執務室。
朝一番に届けられた一枚の美しい羊皮紙を手に、エレノアの震える声が響いた。
羊皮紙の最下部には、王都のすべての職人を束ねる最上位組織『中央建築組合』の豪華な蝋印が押されていた。
内容は、アルカに対する正式な招聘状。
それも、王都で今もっとも注目されている「新市街大規模開発プロジェクト」の総責任者として、破格の予算と専用の工房、そして宮廷建築士への推薦を確約するという、全職人が人生をかけて焦がれる究極のオファーだった。
「はい。私の建築魔法の術式データと、先日の迎賓室の構造評価が、組合の幹部たちの目に留まったようです」
アルカは無表情のまま、いつもの魔導測定器を磨きながら答えた。
その声は平坦だったが、磨く指先が微かに強張っているのを、エレノアの青い瞳は見逃さなかった。
「王都の大規模開発……。宮廷建築士への推薦。……以前、あなたが言っていた夢、そのものじゃない」
エレノアは招聘状を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
この城の再建を始めたあの日、アルカが「いつか誰もが驚くまっとうな大建造物をこの手で建てて、一流の建築士として認められたい」と夢を語っていたのを、エレノアは鮮明に覚えていたのだ。
「そうです。これ以上ない条件です」
「……そう。だったら、今すぐ支度をして王都へ向かいなさいよ」
エレノアは招聘状をテーブルにパサリと落とすと、冷たく突き放すように背を向けた。
「え……?」
「聞き取れなかったかしら? 行きなさいと言ったのよ。あなたは元々、私の全財産(はした金)で一時的に雇っただけの、しがない労働者でしょう? こんな最凶ダンジョンの底で不法占拠の魔物や商人の相手をするより、王都で一流のキャリアを積む方が、あなたの将来にとって何百倍も有意義だわ。好きなところへ行けばいいじゃない」
エレノアの言葉は、まるで冷たいナイフのようだった。
以前、あれほど激しい『嫉妬』を見せ、アルカを抱きしめて「離さない」と言った少女とは、とても思えない冷徹さだった。
「……エレノア様、本気で言っているのですか」
「大真面目よ。私、見栄っ張りで傲慢な令嬢に戻ったの。才能のない職人を無理に引き留めて、未練がましいと思われるなんて真っ平ごめんだわ。さようなら、アルカ」
エレノアはそのまま、アルカの顔を一度も見ることなく、執務室の奥へと消えていった。
パタン、と静かに閉まった扉。
アルカはその場に立ち尽くし、手の中の魔導測定器を強く握りしめた。
胸の奥が、これまでの人生で味わったことのないほどの冷たい「構造欠陥(ひび割れ)」を起こしたように、ズキズキと痛んでいた。
☆
その夜、魔王城の中は、かつてないほどの重苦しい静寂に包まれていた。
いつもなら、アルカが城内のどこかを木槌で叩く音が響き、エレノアの「ちょっとアルカ!」という賑やかな怒声が聞こえるはずの夜。
しかし今夜は、一過性の不協和音(すれ違い)のせいで、城全体が冷え切っているようだった。
アルカは二人の寝室に戻り、自分のベッドの脇に小さな木箱を置いていた。
王都へ持っていくための、最低限の工具や手帳を片付けるためだ。
(直せない……)
アルカは部屋を見渡した。
雨漏りを防ぎ、断熱施工を施し、完璧な快適空間にリフォームしたはずのこの部屋。
なのに、今のアルカには、この二人の間にできた決定的な「距離」を直すための魔法(数式)が、どうしても見つけられなかった。
リフォーム対象、なし――。
建築士として、これほど無力感を覚える夜はなかった。
「……アルカお姉ちゃん、本当に行っちゃうの?」
引き戸が静かに開き、魔族の幼女ミナが、泣きそうな顔で部屋を覗き込んできた。
その後ろからは、西側城壁のゴブリンたちも、寂しげに耳を垂らして様子を伺っている。
「ミナ……、ゴブリンの皆さんも」
「行かないで、アルカお姉ちゃん。ミナ、お姉ちゃんが作ってくれたこのバリアフリーの階段も、お部屋も、だあい好きなの。お姉ちゃんがいなくなったら、寂しいよ……」
ミナがアルカの作業着の裾を掴んで、ポロポロと涙を流す。
「ごめんね、ミナ。でもね、私は職人だから……自分の技術が、世界でどれくらい通用するのか、確かめなきゃいけない時があるんだ」
アルカはミナの頭を優しく撫でながら、言い聞かせるように呟いた。
それはミナに言うと同時に、自分自身に「王都へ行くべきだ」と言い聞かせているようでもあった。
「お嬢様(領主様)が、そうしろと言ったんです。あの人は、私の夢を邪魔したくないって……。だから、私は契約満了として、ここを去るのが正しい構造なんです」
その時、廊下の影で、その会話を静かに聞いている者がいた。
エレノアだった。
彼女は壁に背を預け、冷たい石床を見つめながら、自身の胸を強く締めつけていた。
(そうよ……。私が引き留めちゃいけないわ。アルカの夢を、私の我が儘で壊したくない。あの子は王都で、たくさんの人から称賛される一流の宮廷建築士になるべきなの。……私みたいな、何もかも失った没落令嬢の、一時しのぎの『家』になんて、縛り付けていい子じゃないのよ……)
エレノアの目から、暗闇のなかに一筋の涙がこぼれ落ちた。
アルカのためを想うからこそ、自分の恋心(クソデカ感情)に頑丈な鍵をかけ、冷酷な壁を作って閉じこもる。
それしか、彼女には方法がわからなかったのだ。
☆
翌朝。
アルカが荷物をまとめ、商店街の住民たちや魔物たちに見送られながら、エントランスロビーへと降りてきた時のことだった。
そこには、昨夜から一度も顔を合わせなかったエレノアが、腕を組んで立っていた。
相変わらずのツンとした表情だったが、その目の下には明らかな寝不足の隈があり、金髪の縦ロールもどこか元気がなく萎れている。
「見送りくらいはしてあげるわ、職人さん。これが私からの、最後の『給与』よ」
エレノアは、アルカが最初に受け取った、あの古びた革袋を差し出してきた。
中には、彼女が商人たちから集めた、まっとうな領地収入としての金貨がぎっしりと詰まっていた。
「……ありがとうございます、エレノア様」
アルカはそれを受け取り、腰の工具ベルトに収めた。
二人の空気は、まるで最初に出会ったあの日の工務店に戻ったかのように、事務的で、冷え切っていた。
「それじゃあ、行ってきます。……エレノア様、体には気をつけてください。冷え性なんですから、夜はちゃんと魔導暖房の出力を『レベル3』に設定して――」
「うるさいわね、そんなことくらい自分でできるわよ。
早く行きなさい、馬車が待っているわ」
エレノアが冷たく手を振る。
アルカは深く一礼すると、ゆっくりと踵を返し、新しく修復したばかりの『白銀の城門』へと歩みを進めた。
一歩、また一歩と、エレノアから遠ざかっていく。
自分が作った頑丈な城門が、目の前に迫る。
これをくぐれば、もう王都への道だ。
夢にまで見た、一流建築士としての華やかな舞台が待っている。
なのに――。
アルカの足は、城門の敷居(境界線)の直前で、ピタリと停止した。
彼女の手の中の魔導測定器が、不規則なエラー音を鳴らし続けている。
いや、エラーを刻んでいるのは、測定器ではなく、アルカ自身の『心』という構造体だった。
(……何をしているの、私は?)
アルカは、白銀の城門の美しい石肌を見つめた。
この門を直した時、エレノアは泣いて喜んでくれた。
地下牢を厨房に変えた時、エレノアは不器用なシチューを「美味しい?」と笑って作ってくれた。
図書塔の屋根で、嵐のなか「一生離さない」と手を握り合ってくれた。
(私が本当に作りたかったのは……有名になるための大きな建物なんかじゃない。
私が作った場所で、大切な人が、エレノア様が、心から笑って『ただいま』って言ってくれる、そんな温かい『家』だったはずだ――!)
ドクン、とアルカの胸の奥で、すべての迷いが完全にリフォーム(瓦解・再構築)された。
「――アルカ?」
後ろで、エレノアの不審そうな声が聞こえた。
アルカは、持っていた荷物の木箱を、床へゴトンと乱暴に投げ捨てた。
そして、驚愕するエレノアに向かって、猛然と、もの凄い勢いで引き返していった。
「ちょっと、アルカ!? 忘れ物でも――ひゃあっ!?」
エレノアが叫びきるより早く、アルカはエレノアの華奢な体に正面から強烈に突撃し、その細い腰を、両腕で思いっきり強く抱きしめた。
「ちょっと……! な、何をするのよアルカ! 離しなさい、離してってば!」
エレノアは真っ赤になって暴れようとするが、アルカの現場仕込みのホールド力はクレーン車並みだ。
ビクともせず、さらにぎゅっと、エレノアの胸元に顔を埋めるようにして抱きしめる力を強めた。
「離しません! 法第十五条『管理責任者は被管理者の動線上に就寝スペースを確保すること』! そして私の『就寝スペース』は、王都の豪華な工房なんかじゃありません! エレノア様の隣だけです!」
「な、何をわけのわからないことを――!」
「わけのわからないことじゃありません!」
アルカはエレノアの胸に顔を伏せたまま、叫ぶように、けれど泣きそうな声でクソデカ感情(本音)をぶちまけた。
「エレノア様、大嫌いです! あんな冷たい顔をして、好きなところへ行けだなんて嘘をついて! あなたが昨夜、廊下の影で泣いていたの、私の測定器にはバッチリ『悲嘆数値100パーセント』で検出されていたんですよ!」
「――っ!」
エレノアが、絶句して動きを止めた。
「ずるいです、エレノア様……。私のために強がって、冷たくして、一人で傷ついて……。そんな不器用な雇い主様を置いて、私が王都なんかへ行けるわけがないでしょう! 宮廷建築士なんて、今の私にはどうでもいい! 私は、あなたの隣で、あなたが夢見た『誰もが帰ってこられる理想の街』を、最後まで一緒に建てるって決めたんですから!」
アルカの、魂の底からの叫び。
それを聞いた瞬間、エレノアが張り巡らせていた強がりの壁は、跡形もなく完全に粉砕された。
「……アルカ……、アルカァッ……!」
エレノアはもう、自分の気持ちを隠せなかった。
彼女はアルカの短い黒髪に両腕を回すと、その背中にしがみつき、子どものように声を上げて激しく泣き崩れた。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、アルカ……! 私だって、あなたに行ってほしくなかった……! ずっと、ずっと私の隣にいてほしかったのよ……! 王都へ行っちゃうなんて嫌よ、私を一人にしないで……!」
「ええ、行きません。どこにも行きません。私は、あなたの専属お抱え建築士ですから」
アルカはエレノアの温もりを全身で受け止めながら、優しく、その背中を何度も何度も撫で続けた。
中央ロビーの真ん中で、人目を気にすることもなく、互いを壊れるほど強く抱きしめ合う二人の十代の少女。
初めて訪れた決定的な離別の危機。
しかし、あえて「何も直せなかった」もどかしい夜を経たからこそ、二人の絆は、どんな建築魔法の結界よりも強固な、絶対の構造(愛)へと昇華したのだった。
「……ふぅ。お騒がせしました、エレノア様」
やがて涙を拭ったアルカが、少し照れくさそうに微笑む。
エレノアも、涙で濡れた目を腫らしながら、けれど最高に幸せそうな笑みを浮かべた。
「本当に、人騒がせな建築士ね。……でも、嬉しいわ。おかえりなさい、アルカ」
「ただいまです、エレノア様」
二人はしっかりと手を繋ぎ、再び魔王城の奥へと歩き出した。




