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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
名前のない人

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第八話 今の話

三日目の昼過ぎ、私は商店街の端にある駄菓子屋へ向かった。


八百屋と美容室に挟まれた、間口の狭い店だった。日に焼けたのれんが半分だけ出ていて、店先のケースには十円のガムと、当たりくじの付いた棒菓子が並んでいる。初日と同じように、老人は軒先の丸椅子に腰かけて、煙草をくゆらせていた。


「またあんたか」


顔は覚えられていたらしい。私は改めて名乗って、この町の古い噂を調べているのだと話した。


「この前、おっしゃっていたことなんですが。今の子はまた別の話をしてる、と」


「言ったかねえ、そんなこと」


老人は灰皿の縁で灰を落とした。


「まあ、言ったな。うん」


その前に、と私は切り出した。もっと古い話をご存じないですか。戦争が終わってしばらくの頃、夕方の田んぼ道に、手拭いで顔の下半分を隠した女の人が立っていたという――。


老人は煙草を持った手を止めて、しばらく私の顔を見ていた。それから、本当に困ったような顔で首を振った。


「いやあ。そんな古い話は聞いたことないねえ」


嘘をついている顔ではなかった。青森で何度か見た、知っているのに知らないと言う顔とは、まるで違っていた。この人は、本当に知らないのだ。ふささんより、ひと回りは下だろうか。


昨日、川沿いの縁側で聞いたばかりの話だった。歩いて十五分の距離に、それを子どもの頃から覚えている人が座っている。それでも、この店先には届いていない。二十数年前の噂なら町じゅうが懐かしがるのに、その一つ前の層は、もう誰の口にも上らなかった。


「あんた、そういうのを調べて、何になるの」


「分かりません」私は正直に答えた。「調べてみないと、何になるかも分からないので」


老人は喉の奥で笑って、煙草を消した。


「まあ、今の子の話ならね。わたしも又聞きだよ。買いに来た連中が、勝手に喋っていくのを聞いてるだけでね。夕方になれば来るから、本人らに聞きゃいい」


そう言って、店先に空いている丸椅子を顎で示した。


私は棒菓子を一本買って、そこに座った。


日が傾くまでには、まだ間があった。老人はときどき思い出したように煙草をつけ、通りかかった人に片手を上げる。自転車が過ぎ、宅配便の車が停まって、また行った。看板の影が、少しずつアスファルトの上を伸びていった。


四時を回った頃、商店街のスピーカーから夕方の音楽が流れ始めた。それから間もなく、ランドセルの音が近づいてきた。


四人だった。三年生か、四年生くらいだろうか。店先の見慣れない人間に気づいて、いったん足を止める。


「この人、昔の話を調べてる人だってさ」


老人が、そう言って間に入ってくれた。


「昔って、どのくらい昔」


背の高い子が聞いた。


「あんたらのお母さんが、あんたらくらいだった頃」


「めっちゃ昔じゃん」


四人が笑った。それで空気が緩んだ。


私は、今この町でどんな話が流行っているのかを尋ねた。四人は顔を見合わせて、それからほとんど同時に喋り出した。


「電話でしょ」


「電話かかってくるやつ」


「知らない番号から」


一人ずつ聞き直すのに、しばらくかかった。順序も、細かいところも、全員が少しずつ違っていた。


夕方、暗くなる少し前に、知らない番号から電話がかかってくる。出ると、女の人の声がする。


――ねえ、わたしのこと、知ってる?


「知ってるって答えたら、その日の夜に来るの」


「知らないって言って切れば大丈夫」


「違うよ、何も言わないで切るんだよ」


「それでもいいけど、知らないって言ったほうが確実だって」


そこで小さな言い合いになった。黙って切るのが正しいのか、はっきり知らないと答えるのが正しいのか、四人の意見は最後まで揃わなかった。


「実際に、かかってきた子はいるの」


四人は、また顔を見合わせた。


「ゆうきくんのお兄ちゃんの友達が、かかってきたんだって」


「ゆうきくんじゃなくて、りょうくんのお兄ちゃんでしょ」


「どっちでもいいじゃん」


三度目だった。この町で、三度、同じところに行き着いた。友達の友達。隣のクラスの誰か。名前も定かでない、もう一人挟んだ先の誰か。年代が三つ変わっても、噂はいつも同じ手前で止まっていた。


「その人の顔は、どんなふうだって言ってた」


聞いてみると、一番小さい子が、変なことを聞くな、という顔をした。


「顔は分かんないよ。電話だもん」


私はペンを止めた。


そうだ。電話なら、顔はない。


「お母さんの時はマスクの人だったって、言ってた」


背の高い子が思い出したように言った。すると、隣の子がすぐに手を振った。


「それは古いやつだよ」


古いやつ。子どもの口から、そんな言葉が出た。噂にも新旧があって、この子たちはそれをちゃんと区別している。


最後に、一つだけ聞いた。


「その人、何か探してるの?」


四人は、そろって首をかしげた。


「探してる?」


「別に。知ってるか聞いてくるだけだよ」


そのあとは当たりくじの話になって、それきりだった。四人は駄菓子を買い、めいめいの方向へ散っていった。


老人が、新しい煙草に火をつけた。


「去年はもうちょっと違ってた気がするがねえ。まあ、毎年どっかしら変わるんだよ、あれは」


私は礼を言って、店を出た。日はまだ落ちきっていなかった。手帳には四人の言葉を並べて書きつけただけで、何ひとつ整理できていない。それでも歩きながら、自分の中で何かが線に繋がりかけているのが分かった。それが何なのかは、まだ言葉にならなかった。




宿の部屋に戻ってから、手帳を開いた。


まず、今日の分を書いた。


「町内の児童四名より聴取(駄菓子屋店先、店主同席)。現行の噂について。夕刻、見知らぬ番号より着信あり。応答すると女の声にて『わたしのこと、知ってる?』と問うとの由――談。『知っている』と答えた場合、その夜に来るとの由――談、詳細不明。『知らない』と答えて切れば無事との由。無言で切ればよいとする者もあり、決まりごとに個人差あり。着信を受けた当人は聴取範囲内になし。伝聞元はいずれも『兄の友人』等。相手の容貌については『電話なので分からない』。前世代の噂については『それは古いやつ』との認識あり」


書き終えて、前のページをめくった。昨日の分と、一昨日の分がある。三つが、一冊の中に並んだ。


顔。手拭いで下半分を隠した女。マスクをした女。そして、顔のない声。


問い。うちの子を知らんかね。わたし、きれい? わたしのこと、知ってる?


ペン先を紙に置いたまま、私はしばらくそのままでいた。


最初の問いは、探している人の問いだった。うちの子、知らんかね。答えを本当に必要としている人の言葉だ。


二つ目には、探すものがない。わたし、きれい? 問われた側に、返せる答えなどありはしない。


三つ目には、問いの中身すら残っていない。知っているかどうかを聞くだけだ。何を、とは言わない。


探していたものが、七十年余りかけて、きれいに抜け落ちていた。抜け落ちたあとに残ったのは、問いの形だけだ。


いや、もう一つ残っている。


決まりごとだ。


返事をしたら、連れて行かれる。答えずに走れば、助かる。答え方によっては、機嫌を損ねる。知ってると答えたら、その日の夜に来る。知らないと言って切れば、大丈夫。


三つとも、同じことを言っている。知らないと答えれば、助かる。


この町の子どもは、そのあいだずっと、その決まりを守ってきた。夕方の道で、あるいは電話口で、知らない、と答え続けた。そう答えれば助かると教えられ、その通りにしてきた。


そして、その通りになった。


誰も、あの人のことを知らない。


名前も、その後も、どこへ行ったのかも。囃した側だった子どもたちも、事情を知っていたはずの大人たちも、いなくなった。残ったのは、知らないと答えなさい、という決まりだけだ。


私はペンを置いた。


私は知っている。名前は知らないままだけれど。


夕方の道に立っていた人がいたことを、その人が何を尋ねていたのかを、今の私は知っている。書かないと決めた。それでも、知らないと答えるつもりはない。


昨日の手帳の、最後の行に目を戻した。


「氏名は聴取せず、記載せず」


五十年後、誰かがこの手帳を拾って読んだとしたら、この一行をどう読むだろう。書かなかったのだと読むかもしれないし、聞けなかったのだと読むかもしれない。


書かなかったことと、聞けなかったことは、紙の上では同じ顔をしている。


祖母の「詳細聞けず」も、そうだった。あの字を何度眺めても、そこから先へは行けない。祖母が聞けなかったのか、聞いたうえで書かなかったのか、紙は何も教えてくれない。確かめようがないのだ。書いた人が、もういないのだから。


一つだけ、昨日は思いつかなかった読み方があった。


きよさんのほうから、頼んだのだとしたら。


書かないでほしい、と。孫には聞かせないでほしい、と。書けば、いつか誰かが読む。この町の誰かかもしれない。多恵子さんかもしれない。祖母はそれを引き受けて、「詳細聞けず」とだけ書いたのかもしれない。


これも思いつきだ。私は誰にも確かめていない。手帳には書かなかった。


祖母のノートのコピーを開いた。


柊野町の記述は、やはり数ページで終わっている。もう何度も読んだページだ。それでも今夜、初めて気づいたことが一つあった。


日付だった。


柊野町の最後の日付と、次に字が始まるページの、最初の日付。その間に、季節が一つ挟まっている。


筆を急がされたような書きぶりだと、あの夜は思った。急いで次の町へ移ったのだと。そうではなかった。祖母は、しばらく筆を置いていたのだ。


前の土地の終わりにも、同じ白紙があった。実家で原本を開いた夜は、ただの区切りだと思っていた。


その空白に何があったのかは、どこにも書かれていない。私は、それ以上は考えないことにした。


手帳の新しいページを開いて、祖母の一行を書き取った。


「M・T氏の祖母、類話の先行存在を示唆――要確認、詳細聞けず」


その下に、一行だけ書き足した。


「聴取済み」


書いてしまうと、あっけないほど短かった。二十数年、「要確認」のまま置かれていた行に返事をするのに、それだけで足りた。




翌朝、宮下商店のシャッターは、もう全部上がっていた。一昨日は半分だった。


「あら。今日で行っちゃうの」


段ボールを潰していた多恵子さんが手を止めた。私が頷くと、少しだけ残念そうな顔をした。


昨日の駄菓子屋の話をすると、多恵子さんは店先で声を上げて笑った。


「まだやってるの、あの子たち」


「ご存じでしたか」


「うちにも来るのよ、菓子を買いに。この前も、レジのところで大騒ぎしてた」


多恵子さんは、潰した段ボールを紐でくくりながら続けた。


「電話なんだってね。ずいぶん今どきよね。私たちのときは、道に立ってたのに」


そして、手を止めずに言った。


「でもね。私たちのときも、同じだったのよね。答え方で決まるって、みんな言ってた。何て答えたらいいかって、それだけは真剣に話し合ってたもの」


私は、一昨日は言わなかったことを話した。きよさんが、子どもの頃のことをずっと気にしていたということ。そして、それをふささんにだけ話していたということ。


多恵子さんは、紐を結ぶ手をゆっくり動かしながら聞いていた。


「あの人、私には何も言わなかったのよ」


そう言って、しばらく黙った。


「でも、聞かなくてよかったのかもしれないわね」


私は何も足さなかった。多恵子さんも、それきりその話をしなかった。


くくった段ボールを店の脇に立てかけて、多恵子さんはエプロンで手を拭いた。


「静さんは、二回来たのよ」


「はい」


「あんたは、何回来る?」


すぐに答えられずにいると、多恵子さんは笑って、店の奥から乾物の袋を一つ持ってきて、私の鞄に押し込んだ。


「まあ、いいわ。次に来たときに教えて」




駅のホームには、私のほかに二人しかいなかった。


ベンチに座って、鞄からノートのコピーを出す。柊野町のページは、もう終わっている。その先は白紙で、それから次のページが始まっていた。


一昨日の夜、地名だけを見て閉じたページだった。


「沖縄県・波名島。離島。夜半、道で追われたという話について、取材予定」


それだけだった。祖母はいつもそうだ。行く先と、聞くべきことの見出しだけを書いて、あとは現地で足を使う。


私はコピーを閉じ、鞄に戻した。


柊野町は、拍子抜けするほど、ふつうの町だった。着いた日、私はそう思った。今もそう思っている。ロータリーとコンビニと商店街があって、夕方には子どもの声が響く、どこにでもある町だ。


その、ふつうの町の、ふつうの夕方の道に、七十年余り、同じ問いが立ち続けていた。立っている人は入れ替わり、顔は手拭いからマスクに変わり、やがて顔そのものがなくなって、声だけになった。それでも、問いのほうは立ち続けている。


次の町も、きっと、ふつうの顔をしているのだろう。


電車が入ってきた。私は立ち上がって、この町に一度だけ頭を下げた。

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