4-11 大江戸ライフセーバー
享保年間、時の将軍である徳川吉宗は武芸を奨励し、武芸の一つである水練の稽古が活発になっていた。だがそれは、水難事故の多発も意味していた。
その事態を重く見た吉宗は、幕府の水軍を司る御船手頭である向井将監に水難救助の組織を作る事を命じ、その役目に抜擢されたのは若くして俊英の誉高く、海賊や抜け荷などを相手に数々の武功を挙げた青年である長谷川宣勝であった。
任務に失敗すれば宣勝と向井将監の娘との祝言の話は御破算となる。幸せを掴むために任務に臨む宣勝の前に、荒れ狂う波や鮫、異国式の水泳を身につけたオランダ人のライバル等の脅威が立ちふさがる。
江戸日本橋に、海賊屋敷は存在していた。
海賊といっても水路を往来する船を襲っているのではない。単なる通称である。
海賊屋敷は幕府の水軍を司る御船手頭の屋敷である。御船手頭は五名おり五組に分かれているのだが、その中でも筆頭である向井将監の屋敷を訪れる若者がいた。
名を長谷川宣勝といい、数えで十八の青年だ。
まだ若輩者であり、その顔立ちにはあどけなさも少しばかり残っているのだが、屋敷の中ですれ違う者達は皆丁寧な態度で頭を下げている。海賊の異名に相応しく、御船手頭の配下の者達には荒くれ者が多い。戦国の世が終わり泰平の世が百年も続いているため、世の中には文弱な武士で溢れている。これは当代の将軍である徳川吉宗が嘆き、武芸を奨励していてもなお改善は見られない。だが、陸の上は平和であったとしても海はそうではない。静かな海は時として一瞬で荒波が荒れ狂い、船人達を海の藻屑に変えんと狙っている。それに、役人の目が届かぬ事を良い事に本物の海賊はそこらにいる。日頃は真っ当な商船の様に振舞っているのが、海上で海賊になる事も珍しくはない。そんな環境で生き抜き、時として制圧する彼ら御船手頭の配下達は豪傑揃いなのだ。
そんな彼らがまだ若僧に見える宣勝に対して下にも置かぬ扱いをしているのである。
宣勝は海賊屋敷の中を慣れた様子で突き進み、奥まったとある部屋の前に辿り着いた。
「坊主か、入れ入れ」
宣勝が部屋の中に声をかけようとした瞬間に先んじて招く声がした。
部屋の中は武家屋敷に似つかわしくない南蛮趣味溢れる者であった。複雑な模様の絨毯が敷かれ、出島の阿蘭陀商館かと見紛う調度品が所狭しと置かれている。部屋の中央には壮年の男二人がギヤマンの杯を片手に待っていた。
片方の男の名は向井正員といい、この海賊屋敷の主人である。六代目向井将監として幕府に仕えている。御船手頭の筆頭であり、日の本の水軍の頂点に立つといっても過言ではない。船乗りらしく赤銅色に焼けた顔は精悍さに満ち溢れており、猛禽の様な鋭い目付きをしている。彼が二千石の禄を食む格の高い旗本だとは一見したら誰も分からないだろう。
向井将監の横に座っているのはそれとは正反対の印象を与える男であった。いかにも能吏といった風情であった。
宣勝はこちらの男とは初対面であった。
「お前には任務を与える事になったので呼び出したのだが、その前に紹介しておく。こちらのお方は大岡越前守様だ。名前は知っているな?」
「はい、南町奉行でしょう」
町奉行は町人を取り仕切る役職である。だから宣勝や向井将監の様な武士とはそれほど接点が無いのであるが、海上の犯罪を捜査する時に陸の治安を取り締まる町奉行所と協力する事はある。
「大岡様が来た要件はだな……」
「昨日私が指揮したの抜け荷の取り締まりの件ですか? かなりの阿芙蓉(阿片)が積まれていた船を拿捕しましたが、組織の全容はまだつかめていません。江戸市中にも拠点はあるでしょう」
「いや、その件ではない。まあ捜査で協力する事は調整済みであるがな」
「では、御蔵島沖での南蛮海賊との船戦の件ですか?」
「それも違う。その件は町奉行ではなく出島の阿蘭陀商館と情報共有して対処する事になっている。あと、そっちの戦いは公式には存在しない事になっている。他所様の前で迂闊に話すんじゃねえ。まあ大岡様は水軍の裏の仕事もある程度知っているから、さほど問題はないがな」
大岡越前はかつて伊勢の山田奉行を務めていたが、山田奉行は伊勢海域での治安も取り締まっておりその時に向井将監と協力して表沙汰には出来ない事件を解決した事がある。その様な事情があるために大岡越前は身内に近い扱いなのであるが、そうでもなければ秘密保持のために始末する必要が生じていた。
「失礼しました。それでは……」
宣勝はこの後も自分が関わった様々な事件、今度江戸城内で行われるという御前試合への参加の要請、将軍の上京のための船旅の計画など数々の任務を予想したのだが、どれも外れてしまった。
宣勝の予想は全て外れてしまったが、大岡越前はよくもこれだけ頭が回るものだと感心し、また、宣勝が若くして数多くの難事件解決に携わっている事に内心驚愕していた。泰平の世が続き武士が戦場で活躍する機会は無くなったのであるが、どうやら海の上はまた違った事情がある様だ。
「では、一体どの様な任務なので?」
「昨日抜け荷を取り締まっただろ? その時に事件以外で何か起きなかったか?」
「ええと、品川沖で溺れている者がいたので、拾ってやりましたが?」
将軍吉宗は武芸を奨励しており、水練もまた武芸の一つである。近年は泳げない武士が非常に多かったのだが、この現状を将軍は大いに嘆いている。そのため将軍の歓心をかって出世しようと、多くの武士が今更ながらに水練に励んでいる。品川で拾った者もその類いであろうと宣勝は予想していた。
「実はお前が拾ったのは、上様の縁者でな。お前の事を上様に報告したらしいのだ」
「ははあ、つまり私に褒美を下さると。直接拾ったのは私ではありませんが、水夫に指示したのも、水面で誰かが溺れているのを発見したのも私です。謹んでお受けします」
「いや、そうではない。任務だと言っただろう」
恭しくはあるが勝手に褒美を期待した図々しさを露わにした宣勝に対して、向井将監は懐から書状を取り出しながら言った。
「上様は武士の多くが水練に励むようになったことは喜んでらっしゃるが、そのために水難事故が頻発している現状を憂いておられる。よって、長谷川宣勝、お前に水難救助のための組織を作れと仰せである」
「は?」
「大岡様を寄こしたのは、大岡様が町奉行として町火消を組織化した教訓を伝授させるためだ。謹んで拝聴するがいい」
予想外の事を宣告され、宣勝は困惑顔だ。
「そして、二月後、江戸城の堀で水練の大会が開かれる事になっている。上様も直接ご覧になるそうだ。その際に、お前が水難救助の要領の模範を皆に展示し、皆が安心して大会に臨めるようにするのだ。良いな?」
「お断りします」
「なにぃ?」
武士の世にあって主君の命令は絶対である。しかも、それが将軍のものとあってはなおさらだ。にもかかわらず宣勝はあっさりと断った。
「馬鹿野郎! 上の者がやれと言ったら、侍には『はい』か『喜んで』か『ありがたき幸せ』しかねえんだよ!」
向井将監は扇子を宣勝に向かって叩きつけるようにして投げ、獅子が奉公するような怒鳴り声を上げて罵倒した。無茶苦茶な事を言っている様であるが、武士というか世の中はそんなものであるのは事実である。
「やなもんはやなんですよ! 大体なんで褒美も無いどころかこんな面倒事が回ってくるんですか!」
宣勝は飛んで来た扇子を受け止め、あろうことか投げ返しながら反論する。普通の武士であればあり得ぬ光景に、大岡越前は驚愕した。海の男達は陸の上とは別の掟があると聞いていたが、まさかこれ程のものであったとは想像を絶していたのだ。家格の高い武家として生まれ育った彼にとって世界がひっくり返るような所業が目の前に繰り広げられている。
「水難救助要領展示の上覧の暁には、褒美が下されることになっているのですが……」
大岡越前が恐る恐るそう言うが、二人の争いは中々収まりそうにない。最早言葉にならない怒鳴り声を上げながら二人は扇子を投げ交わしあっている。暫く醜い争いが続いていたが、最後に向井将監が投げた扇子が途中で開き、空気抵抗で軌道を変えた。結果、宣勝は予想を超えた変化に対応しきれずその顔面に扇子を受ける事になる。
「理由があるなら申してみよ」
扇子の投げ合いに勝利した向井将監は気を良くしたのか、打って変わって落ち着いた様子で問い質した。それに対して宣勝は少し不貞腐れた様にして答える。
「……泳げないんですよ」
それは将軍の命令への拒否理由として、あまりにも単純かつ根源的なものであった。
「お前、船戦の指揮だけじゃなく、剣術、柔術、馬術、砲術やら武芸は何でも達者じゃないかよ。何で泳げねえんだよ?」
「何でも何も泳げないものは泳げないんですよ」
「いやお前さ、うちが何やってるか分かってんのか? 水軍だぜ? 船戦中に海に落ちたらどうすんだよ?」
「逆に聞きますが、船戦ともなれば甲冑を着込んでいます。ならば多少泳げても無駄ではありませんか。それが実戦というものです」
「俺は泳げるぞ」
「あ、はい」
宣勝の反論は多少の理はあったが、こう返されてしまってはどうしようもない。
「しかし困りましたな。上様にどう報告したものか……」
将軍吉宗は宣勝の事を軟弱な当世風の武士とは違う質実剛健の若者だと思っており、だからこそ大勢の前でその武勇を披露させてやろうと考えていたのだ。それを、御船手頭の配下でありながら泳げませんなどと報告したらどうなるであろう。
「大岡様、上様には長谷川は問題なくやってのけると報告してくだされ」
「ええ? 上様に嘘を報告して良いんですか?」
「うるせえ! 三月もあれば泳げるようになるだろ! それが無理だったら俺もお前もお咎めを受けるしかねえだろうが!」
「ううむ。しかしですね」
「おい、まさか泳げねえ奴が、養女とはいえ俺の娘と祝言を挙げられるとか思ってねえだろうな?」
「わ、分かりました」
宣勝は観念したようにがっくりとうなだれた。そんな宣勝を見て気の毒そうな面持ちの大岡越前は、上様に報告すると言って屋敷から立ち去った。これ以上場の空気に耐えられなかったのであろう。
こうして、金槌の青年による水難救助という困難な戦いが始まったのであった。





