4-10 ブリガデイロのように
【この作品にあらすじはありません】
隅で泣きたかった。誰にも見られず、知らされず。光の届かない部屋の隅っこでただ一人、泣いていたかった。
それでもどうやら、この地球は丸いらしい。
・・・
食卓はその人の人生が表れる、と思っている。体を気遣う人は健康志向、食そのものが娯楽の人は色とりどり。食事よりも大事なものがあるなら簡素に。生きる上で切り離せない食事には、それぞれの美学が存在する。
菓子パン、牛乳、昨日の残り物。
私の晩ごはんは、美しくない。OLとして社会の波にもまれた結果、食生活が杜撰になってしまった。
テーブルに残った菓子パンのパッケージと、空っぽのマグカップが二つ。都内のマンションの一室、午後十時。恋人との貧相な晩餐を終えたあとだった。テーブル越しに、恋人が神妙な面持ちで呟くようにそれを告げた。
「好きな人が出来たんだ」
なんとなくわかっていた。お互い仕事を優先し過ぎて、二人で出かけたり食事したりする機会がなくなってしまった。出勤も退勤も時間がバラバラで、顔を合わせない日もなくはなかった。にもかかわらず、「話があるから、一緒に晩ごはんを食べたい」というメッセージが残業後に届いたのだった。
料理する時間もなく、なんとか体裁だけは整えようとパンやら何やらを用意したのだけど。喉から腹までがすっと冷えて、北風が吹きこむように寒かった。
私はただ一言「わかった」とだけ答えた。彼は一週間以内にここを出ていくらしい。そのまま恋人は就寝した。
付き合って五年。年齢も二十七になり、結婚を意識したことはあった。同年代から遅れを取り、自分のことばかり精一杯な自分。二人で暮らしているのに、途方もない広大な空間で一人置き去りにされているようだった。物理的な距離が近ければいいということではないらしい。
私の五年は、夕食のたった十五分で終わりを迎えてしまった。
何事も起こらず一週間が経ち、一人暮らしがまた始まった。なのに普段とあまり変わっていない気がして、それほど関係をおざなりにしていたということなのだろうと気づく。
今の私は一人で、独りだ。地元が地方だから両親は遠くにいるし、友達だって少ない。大きなマンションに住んでいるが今どきご近所関係なんて希薄で、お隣さんに至っては姿すらみたことがない。
私ってこんなに何もなかったっけ。
大学を卒業し、そのまま新卒で入社。社会人生活は思った以上に大変で、東京のキラキラOL生活を夢見ていた過去の自分が馬鹿馬鹿しい。
朝早く起きて、働いて、夜遅くに寝る。化粧を落とすことすら億劫で、自分がどんどんすさんでいくのがわかった。時間も心も余裕がなくて嫌になる。生きるために働くというより、働くために生きている。恋人を失い一週間経っても何食わぬ顔で仕事をこなせてしまっているのが何よりの証拠だ。
いつも通り退勤後は満員電車に揺られ、マンションのエレベーターに乗り六階まで上がる。もうすでに二十二時を回っていて、明日のことを考えるのも面倒くさい。ドアが開き、エレベーターを降りる。廊下から自室までぺたぺたと歩いていたが、思わぬ人物に足を止める。
「あら、こんばんは」
その人はちょうど私の隣の部屋のドアを閉じているところだだったらしく、銀色の鍵を手に持っている。今まで見たことのなかった隣室の住人だった。背の低い老年の女性で、白い髪に紫色のワンピース。冷えるのかレースのショールまで羽織っていた。悠々自適のマダムといったところか。
「……こんばんは」
「久しぶりに帰ってきたものだから、なかなかご挨拶ができななくてごめんなさいね」
「いえ、たぶん私の方が後から入居したので……。こちらこそご挨拶せず申し訳ないです」
「そりゃそうよ! 私、二年も旅行へ行ってたんだもの。会えなくて当然よね」
マダムは呵々と声を上げた。私はその旅行の長さに心底驚いた。旅行というよりちょっとした移住ではなかろうか。そういえば。最後に旅行をしたのは一体いつだっけ。
「長いですね、どちらに?」
「ブラジル。ちょうど現地で教わったお菓子が出来たからお友達を呼ぼうと思ったのだけど、あなたにしようかしら」
「えっ……。い、いえ、お友達にしてあげてください」
「ブリガデイロっていうお菓子なの」
マダムは私の手を引き、私の部屋の隣のドアを開けた。本当はその手を振り払って今すぐにでもベッドへ倒れ込みたかったが、人をなかなか拒絶できない性格ゆえマダムに従うしかない。
「ブリ……なんですか?」
ドアが閉まると、甘美な香りが部屋じゅうに漂っていた。甘く香ばしいそれは、私の腹をきゅうと唸らせる。
「ブリガデイロ。コンデンスミルクとココアパウダー、それとバターを混ぜてあっためて、冷やして固めるの。あと丸めて成形してチョコをまぶすの」
トリュフチョコレートみたいなものよ、とマダムは微笑んだ。彼女の部屋のテーブルまで連れて来られ、流されるまま着席した。オレンジ色の木のテーブルの上に、茶色く丸いそれが綺麗なカップに入って並んでいる。
「さ、食べて食べて」
「……いただきます」
疲労のせいで体が糖分を欲しているのだろう、私はマダムに抵抗できずブリガデイロを手に取る。一口で頬張ると、強烈な甘さが広がった。がつんと脳を殴られるかのような甘み、それがどうにも心地よい。体温でとろりと溶けると、くちどけと香りがさらに私を支配した。
何かを心からおいしいと思ったのは、いつぶりだろう。
「地球の裏側にこんな素敵なお菓子があるって、驚きでしょ」
マダムもひょいとブリガデイロを口に入れ、「ん~」などと言いながら満足そうに微笑んだ。夜遅くのカロリー摂取など気にする間もなく私はブリガデイロを堪能した。いつの間にか淹れてもらった紅茶も素晴らしく、私の心と体をほぐしていく……。
「良かった」
紅茶を飲みながらマダムが呟いた。私がきょとんとしていると、彼女は柔和な笑みで私の瞳をじっと見つめた。
「あなた、ひどい顔だったもの。なんとかしてあげたかったの」
その瞬間、私の中で何かが壊れた。どんなに頑張っても涙が止まらず溢れてくる。日々のルーティンワークに操られていくうちに、自身の感情すら起伏がなくなってしまっていたのだろう。今この瞬間、ようやく大きくぐらついたのだ。
マダムは何も言わず、何も聞かず、私が泣くのを笑顔で眺めていた。
「私ね、こうやって外国のお菓子を作って食べるのが好きなのよ。時間のあるときに、付き合ってくれないかしら」
今の私に必要なのは、きっとこれだ。枯渇した心に、お菓子という名の癒しの時間が。やっとそれに気づいたのだ。
「私、オリエ。あなたは?」
「……京香、です」
お隣のマダムとの奇妙な日常が始まった。





