第八話 もう誰も信じない
6月20日、木曜日。
千歳が、USBメモリをわたしの机に置いた。
「入ってる」
「……ありがとう」
「お礼はいらない。取引だから」
千歳はそう言って、自分の席に戻った。
家に帰って、パソコンに挿した。
ファイルは1つだった。
再生時間、3分42秒。
わたしは、その数字を2回見た。
回っていた6秒は、この中の一部だった。
再生した。教室の斜め後ろから、わたしの背中が映っている。何も起きない。ページをめくる。何も起きない。1分たっても何も起きない。
2分14秒のところで、消しゴムが落ちた。
わたしが体をねじって、戻る。
そのあとも、録画は続いていた。1分28秒、何も起きないまま、終わった。
楓は「3日とも撮った」と言った。3日で、これが3本ある。
3本のうち2本は、何も映らなかったから消したのだろう。
消さなかった1本が、これだった。
わたしは、そのファイルを持って、2つのことができた。
1つ。楓を告発する。撮影者が特定できれば、楓は特別指導になる。
2つ。自分の無実を証明する。消しゴムが映っているのは、この元データの2分14秒だけだ。
わたしは、2つ目だけを選んだ。
理由を書く。
楓を潰しても、わたしの評定は上がらない。楓を処分すれば、動画の話が学校の記録に残る。記録に残れば、室生先生の言った「済んでいない話」が、はっきり済んでいない話として文書になる。そうなると、枠の話に戻るまでに時間がかかる。
7月に間に合わない。
だから使わない。
これが理由の全部だ。
そう書いておく。
その夜、わたしは自分の部屋で、声に出して言った。
「嘘はついてない」
都築陽の万引きは事実だった。わたしは1つも作っていない。見ていないことを見たとも言っていない。
元データも本物だ。消しゴムは本当に落ちた。
わたしは、事実しか使っていない。
「嘘はついてない」
もう一度言った。
言ってから、その言葉を、誰に向かって言っているのかを考えた。
部屋には誰もいなかった。父は下にいたが、階段を上がってくる音はしなかった。
誰もいない部屋で、わたしはそれを2回言った。
7月1日、月曜日。放課後、進路指導室に行った。
USBメモリを机の上に置いた。
「これ、元のデータです」
室生先生は、ノートパソコンに挿した。3分42秒を、早送りせずに全部見た。
2分14秒のところで、先生は一時停止した。
画面の中で、白い消しゴムが机の右から落ちて、床で2回跳ねていた。
「これか」
「はい」
先生はもう一度、最初から再生した。今度は倍速だった。見終わってから、パソコンを閉じた。
「わかった」
「戻れますか」
「戻る」室生先生は言った。「疑いが消えたなら、外す理由がない」
わたしは息を吐いた。
吐いてから、自分が3か月ぶりに息を吐いたような気がした。
「これ、誰が撮った」
先生が聞いた。
「言いません」
「言えないのか」
「言いません」
わたしはそう答えた。
嘘ではなかった。言えないのではない。言わないと決めた。
「なんでだ」
「言っても、わたしの評定は上がらないので」
室生先生は、しばらくわたしを見ていた。
「そうか」
それだけ言って、USBメモリを返した。
廊下を歩きながら、わたしは自分の言った言葉を思い出していた。
言っても、わたしの評定は上がらないので。
3月のわたしなら、あの場面で泣いていたと思う。撮った人がいるんです、と言っていたと思う。
4か月で、わたしは泣かない人間になった。
なったというより、泣いても何も起きないことを学んだ。
学ぶ、というのはたぶんそういうことだ。
7月4日、木曜日。
わたしが校内選考の対象に戻ったことは、掲示されない。そういう発表はしない。
だが、教室では2日で伝わった。
楓が机に来た。
「戻ったって、ほんと?」
「うん」
「よかったじゃん!」
楓は本当にうれしそうだった。
「なんで戻れたの?」
「動画の元のやつが出てきたの」
「元の?」
「消しゴムが映ってるやつ」
楓は、笑ったまま、動かなかった。
0.5秒くらいだったと思う。それから、また笑った。
「そっか。よかったね」
「うん」
「誰が持ってたの、それ」
「言えない」
「そっか」
楓はそれ以上聞かなかった。
わたしも言わなかった。
わたしたちは、その日も一緒に弁当を食べた。
7月5日、金曜日。
千歳が自販機の前にいた。わたしが通ると、こちらを見ずに言った。
「戻ったんだ」
「うん」
「よかったね」
「ありがとう」
「お礼はいらないって言った」
千歳はミルクティーのボタンを押した。缶が落ちてくる音がした。
「ねえ」
「うん」
「あの1年の子、転校したよ」
「知ってる」
「そう」千歳は缶を取った。「知ってて、どんな感じ?」
わたしは、その質問の意味を考えた。
からかっているのではなかった。責めているのでもなかった。
本当に、知りたがっていた。
「……何も感じない」
「ふうん」
千歳は缶を開けた。
「わたしと同じだ」
そう言って、行った。
わたしはその場所に、少しのあいだ立っていた。
わたしと同じだ、と言われたことに、腹を立てるべきだった。
腹が立たなかった。
7月8日、月曜日。
バドミントン部の1年が2人、辞めたという話を聞いた。
都築の件のあと、部の中で「誰が話したのか」を探す動きが続いていたらしい。話した本人は名乗り出なかった。名乗り出ないので、疑われた子が2人辞めた。
わたしはその話を、廊下ですれ違った子たちの会話から聞いた。
わたしが動かしたのは、1人分だと思っていた。
実際には、3人分だった。
わたしはその日、そのことを誰にも言わなかった。
千歳にも報告しなかった。
報告する義理はない。取引は終わっている。
そう自分に説明して、終わりにした。
7月10日、水曜日。進路希望調査の締切日だった。
指定校推薦を希望する生徒は、第3希望まで書いて出す。
わたしは早瀬大学経済学部を第1希望に書いた。第2も第3も書かなかった。書く欄はあった。書かなかった。
提出のとき、室生先生が言った。
「1つだけか」
「はい」
「落ちたらどうする」
「考えてません」
「考えとけ」
「はい」
わたしは考えなかった。
考えると、他の道があることになる。他の道があると、この4か月に意味がなくなる。
7月12日、金曜日。父が家にいた。
台所のテーブルに、封筒が3通あった。銀行の名前が入っていた。
「奨学金の書類、まだ?」
「ああ」
「9月に間に合わないよ」
「わかってる」
父はそう言って、それ以上何も言わなかった。
わたしは自分の部屋に上がった。
上がる途中で、階段の途中から、父の背中が見えた。父はテーブルの椅子に座って、封筒を1通ずつ、まっすぐに並べ直していた。
3通を並べ終えて、また端をそろえていた。
7月13日、土曜日。
わたしは母にメッセージを打った。
『推薦の候補になりました』
打って、送った。
30分後に、返事が来た。
『よかったね』
4文字だった。
わたしはその4文字を見て、次に何を打つべきかを、20分考えた。
20分考えて、何も打たなかった。
打たなかったのは、何を打っても、返ってくるのが4文字だとわかっていたからだ。
7月16日、火曜日。
昼休み、楓とわたしは、いつもどおり弁当を食べた。
楓は数学の補習の話をした。夏休みに5日ある。楓は出るらしい。
「わたし、数学だけほんとに無理」
「うん」
「澪は出ないでしょ」
「出ない」
「いいなあ」
楓は笑った。
わたしは、明日、掲示が出ることを知っていた。楓も知っていた。
2人とも、その話をしなかった。
弁当を食べ終わって、楓が「お茶いる?」と聞いた。
「いる」
楓は自販機まで行って、2本買ってきた。1本をわたしに渡した。
「ありがと」
「いいよ」
それが、わたしと楓が普通に話した最後の日だった。
7月17日、水曜日。
進路指導室の前に、紙が貼り出された。
指定校推薦 校内候補者一覧
上から順に、大学名と、学部と、候補者の名前が並んでいた。
早瀬大学 経済学部 佐倉澪
わたしは、自分の名前を3回読んだ。
読んでいるあいだ、何も感じなかった。
感じるまでに、10秒くらいかかった。10秒たってから、指が冷たくなった。
掲示の前に、20人くらいいた。
その中に楓がいた。
楓の名前は、どこにもなかった。楓は経済学部を第1希望にしていた。それは、わたしも知っていた。
楓はわたしに気づいて、こちらに来た。
「おめでとう」
「……ありがとう」
「よかったね、ほんとに」
楓は笑っていた。
悔しそうではなかった。強がっている顔でもなかった。無理をしている人の顔を、わたしは何度も見てきた。楓のそれは、そういう顔ではなかった。
「わたし、一般で受けるからいいや」
「うん」
「澪、頑張ってね」
楓は行った。
わたしは、その後ろ姿を見ていた。
勝ったはずだった。勝ったはずなのに、何も取り返していない気がした。
理由はわからなかった。わからないまま、わたしはその場所を離れた。
昇降口で、東悠真が待っていた。
楓を待っていた。
わたしを見て、彼は少しだけ頭を下げた。
「おめでとう」
「ありがとう」
「よかったな」
「うん」
それだけだった。
楓が来て、2人は並んで出ていった。
悠真は一度も振り返らなかった。
7月19日、終業式。
1年生の教室が並ぶ棟を、わたしは通った。通る用事はなかった。
1年3組の前で、少しだけ立ち止まった。
窓から見える範囲に、都築陽の席がどこだったのかを知る手がかりはなかった。名前の残っているものは何もない。机の数は、たぶんもう合わせてある。
わたしは、あの子の顔を思い出そうとした。
背が低くて、髪を1つに結んでいた。目は赤くなかった。
それ以上は出てこなかった。
6月7日に体育館で見た7人のうち、どれがあの子だったのかも、もうわからない。
6週間しかたっていないのに、もう出てこなかった。
わたしはその廊下を通り抜けて、階段を降りた。
家に帰って、財布から紙を出した。
4つに折った評定分布の一覧。3月4日から入れっぱなしで、折り目の線が白くなっていた。開くときに、真ん中が少し破れた。
机の上に広げた。
4.8。4.7。4.6。4.5。4.4。4.4。4.3。
数字は3月と同じだった。名前は書いていない。番号と数字だけだ。
3月にこの紙を折ったとき、わたしはこの7人のうちの誰かに勝てばいいと思っていた。
わたしは勝った。
4か月で失ったものを、順番に数えた。
母。父の会社。東悠真。神谷楓。それから、都築陽という名前の、顔をもう思い出せない1年生。
5つだった。
わたしはペンを取って、紙の余白に1行書いた。
『もう誰も信じない』
書いた字が、思ったより小さかった。
もう1行、下に書こうとして、書くことがないことに気づいた。
紙を4つに折り直して、財布に戻した。
財布を鞄に入れて、電気を消した。




