第七話 3つの名前
6月3日、月曜日。
昼休み、柏木千歳がわたしの机に紙コップを置いた。
自販機のミルクティーだった。
「話がある」
「うん」
「ここじゃない」
千歳は先に出ていった。わたしは紙コップを持ったまま、1分待ってから出た。
3階の生物室の前で、千歳は待っていた。
「動画の元データ、持ってる」
わたしは紙コップを落としかけた。
「……どこで」
「言わない」
「なんで持ってるの」
「言わない」千歳は言った。「聞いてもいい質問は、1つだけにして」
わたしは考えた。
「何が欲しいの」
「それが正しい質問」
千歳は少し笑った。笑ったところを、わたしはそのとき初めて見た。
「3人、名前を出す」
千歳は言った。
「1人目。3年2組の内田くん。部活の会計をやってる。1年ぶんの部費から、少しずつ抜いてる。合計で38,000円。帳簿は本人が書いてるから、合ってる」
わたしは、内田という名前を知っていた。1年のとき同じクラスで、席が近かった時期がある。よく喋る子だった。
「2人目。2年の吉沢さん。図書委員。図書室の本のバーコードを剥がして、古書店に持ち込んでる。わかってるだけで11冊」
顔がわかった。去年の当番表で名前を見ている。おとなしそうな子だった。
「3人目。1年3組の都築陽さん。バドミントン部。駅前の文具店で万引きしてる。4月に3回」
「……」
「どれでもいい。あなたが選んで」
わたしは、千歳の顔を見た。
「選ぶって」
「選んだ子のことを、先生に言うの。それで、わたしは動画のデータを渡す」
「なんで3人なの」
「1人だと、断りにくいでしょ」千歳は言った。「3人あれば、選べる。選べるほうが、いいと思って」
親切のような言い方だった。
親切ではないことは、そのときすでにわかっていた。
「なんで、わたしが」
わたしは聞いた。
「わたしが言うと、わたしの手が汚れるから」
千歳ははっきりそう言った。
「わたし、評定も欠席も全部揃ってるから。ここで揉めても得しない。損しかしない」
「わたしも損だよ」
「あなたは損しない。あなたは、もう底にいるから」
わたしは何も言えなかった。
「なんでそんなことするの。柏木さんに何の得があるの」
千歳は少し考えた。
考えている顔だった。答えを探しているのではなく、言っていいかどうかを選んでいる顔だった。
「暇なの」
千歳はそう言った。
「わたし、負ける心配がないから、暇なの」
「それだけ?」
「それだけ」
嘘だと思った。
思ったが、追及しなかった。追及すると、こちらが取引をしたがっていることが伝わる。
わたしはそのとき、すでに交渉の形でものを考えていた。
わたしは3日、考えた。
考えた、と書くのは正しくない。
3日のあいだにわたしが実際にやったことは、こうだ。
1日目。3人の情報の裏を取ろうとした。内田くんの部費の件は、聞ける相手がいなかった。吉沢さんの件は、図書室の蔵書を数えれば足りないとわかるはずだが、数えれば数えたことが残る。都築陽の件は、千歳がスクリーンショットを持っていた。トークの画面で、名前は塗ってあった。
『あの店ちょろい』
『3回いった』
『まだバレてない』
本人が書いた文字だった。
誰が書いた文字なのかは、塗ってあってわからない。都築だと言ったのは千歳だ。
塗ってある紙を、わたしはその日から証拠と呼んだ。
3人のうち、証拠があるのは都築だけだった。
2日目。校内処分の基準を調べた。生徒手帳に載っている。窃盗は特別指導。停学ではなく、家庭謹慎と反省文。前歴がなければ退学にはならない。
3人とも、同じ項に当たる。どれを言っても、同じ処分が下りる。
3日目。報告の仕方を考えた。
わたしが自分で見たと言えば、わたしが証人になる。証人になると、名前が残る。
伝聞として言えば、わたしは「聞いた人」になる。名前は残らない。
わたしは3日目の夜、そこまで整理して、寝た。
3日のあいだ、断るという選択肢について考えた時間は、たぶん5分もない。
なぜ都築を選んだのかを、当時のわたしはこう説明していた。
証拠がある。証拠があるということは、確実に処分が下りる。確実に処分が下りるということは、千歳が確実にデータを渡す。合理的だ。
これも、もっともらしい。
もっともらしくない部分を書く。
内田くんの顔を、わたしは思い出せる。1年のとき、体育のペアを組んだことがある。集金袋を持って教室を回っていたのも覚えている。母親が病気だと言っていた。
吉沢さんの顔も思い出せる。図書委員の集まりで、隣に座ったことがある。
都築陽の顔は、思い出せなかった。
会ったことがなかった。1年生の名前を、わたしは1人も知らない。
わたしは、思い出せる2人を外して、思い出せない1人を選んだ。
証拠があるから選んだ、というのは、あとから足した理由だ。
先に選んで、あとから理由を足した。3月から、わたしはずっとそうしている。
6月7日、金曜日。
わたしは体育館に行った。
放課後、バドミントン部の練習を、2階の通路から見た。
10分だけ見るつもりだった。実際、10分で降りた。
1年生は7人いた。コートの外でシャトルを拾っていた。順番にコートに入って、先輩とラリーをして、また外に出る。
わたしは、どの子が都築陽なのかを知らなかった。
知らないまま、7人を見た。
そのうち1人が、レシーブを外した。シャトルがコートの外まで飛んで、その子は追いかけて、拾って、戻ってきた。
戻ってくるときに、笑っていた。
先輩が何か言って、その子がまた笑った。距離があって、声は聞こえなかった。
わたしは、その子がそうかどうかを知らない。
7人のうちの誰でもよかった。誰でもよかったのに、その1人を目で追った。
10分たって、わたしは通路を出た。
出るときに、自分が何のためにここに来たのかを考えた。
顔を見に来た、というのが正直なところだ。
見て、やめるつもりだったのかもしれない。
やめなかった。
見てからやったのだから、見なかった場合より悪い。
その週、楓は毎日、普通に喋っていた。
模試の結果が返ってきて、楓は英語が上がったと言った。数学は変わらなかったと言った。
「澪、6月の実力どうする?」
「受けるよ」
「意味あるの、今」
楓は悪気なく聞いた。
外されているのに実力テストを受けるのか、という意味だ。
「評定に入るから」
「あ、そっか」
楓はそれで終わりにした。
わたしはそのとき、千歳の話を1ミリも出さなかった。
楓は動画を撮った本人で、わたしはそれを知っていて、楓もわたしが知っていることを知っている。
その状態で、わたしたちは模試の話をしていた。
そういうことが、できるのだと知った。
人間関係というのは、決着がつかなくても続く。続くというより、続けようと思えば続いてしまう。
だから、みんな続けるのだと思う。
6月10日、月曜日。放課後、生徒指導部に行った。
担当は3年の学年主任だった。
「1年の子のことで、聞いた話があるんですけど」
「聞いた話?」
「はい。わたしが見たわけじゃないです」
わたしはそう前置きした。前置きすることを、3日目の夜に決めていた。
内容を話した。店の名前と、時期と、回数を言った。名前も言った。
「なんで佐倉が知ってるんだ」
「同じ学年の子から聞きました」
「その子は」
「言いたくないです」
「そうか」
先生はメモを取った。
「わかった。こっちで確認する」
「はい」
「よく言ってくれたな」
わたしは、その言葉に何も感じなかった。
何も感じなかったことを、家に帰る電車の中で思い出して、それでも何も感じなかった。
6月11日、火曜日。
昼休みに、千歳が「言った?」と聞いてきた。
「言った」
「どの子」
「都築さん」
千歳は少し黙った。
「なんで」
「証拠があるから」
「ふうん」
千歳はそれ以上聞かなかった。
聞かないことが、答え合わせをされているようだった。
「どう言ったの」
「聞いた話です、って言った」
「上手だね」
「……」
「わたし、もっと下手にやると思ってた」千歳は言った。「泣きながら言うとか、そういうの」
「泣かないよ」
「うん。わかった」
千歳はそれから、はじめてまっすぐこちらを見た。
見られている、と感じた。1年と2か月、同じ教室にいて、そのときが初めてだった。
「面白い」
千歳はそう言って、行った。
面白い、と言われたことの意味を、わたしはそのときわからなかった。
わからないまま、少しだけ、うれしかった。
うれしかったことを、ここに書いておく。
6月14日、金曜日。
都築陽の特別指導が決まった。家庭謹慎3日と反省文。
6月18日、都築陽の転校が決まった。
処分は退学ではない。学校を辞める必要はない。それでも辞めた。
理由は簡単だった。バドミントン部の中で、誰が話したかの犯人探しが始まったからだ。都築は自分で書いたことを、覚えていなかったらしい。
6月19日、水曜日。
昇降口で、1年の女子に呼び止められた。
背が低くて、髪を1つに結んでいた。目は赤くなかった。泣いたあとの顔ではなかった。
「佐倉先輩ですか」
「うん」
「都築です」
謹慎は前の日で明けていた。荷物を取りに来ていたのだと、あとで知った。
わたしは、何を言えばいいかわからなかった。
7日の体育館で見た7人の中に、この子はいたと思う。いたと思うが、どれだったのかはわからない。
「なんで先輩が言ったんですか」
「……」
「先生が言ってました。3年の子から聞いたって。3年で、わたしのこと知ってる人、いないんですけど」
「……ごめん」
「謝らないでください」
都築は言った。声は落ち着いていた。
「わたし、やってます。だから、先生に言われたことは全部そうです」
「うん」
「でも、なんで先輩なんですか」
わたしは答えられなかった。
答えられない、というのは正確ではない。答えは持っていた。
——あなたが、わたしの知らない人だったからです。
それが答えだった。
言えば、この子は理解できる。理解できるが、納得はできない。
「わたし、先輩のこと知らないんですけど」
都築はそう言って、頭を下げて、行った。
頭を下げられたのが、一番きつかった。
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