第六話 自白
座席表のことを、わたしは25日抱えていた。
5月2日に気づいて、5月27日まで、誰にも言わなかった。
言わなかった理由を、当時のわたしはこう説明していた。
角度だけでは証拠にならない。同じ列にいた人は他にもいる。楓の隣の席は空席だったが、廊下側からでも似た画は撮れるかもしれない。確証がないのに人を疑うのはよくない。
全部、もっともらしかった。
いま書き出してみると、1つも本当ではない。
本当の理由は1つで、聞いたら終わるからだ。
聞いて、楓が「違う」と言えば、わたしは信じない。信じないまま、これからも一緒に弁当を食べることになる。
聞いて、楓が「そう」と言えば、それで終わる。
どちらでも、いまより悪くなる。だから聞かない。
わたしは25日、そうやって毎日、楓と昼を食べた。
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5月20日から23日まで、何も起きなかった。
わたしは学校に行って、授業を受けて、帰って、勉強した。父は家にいた。母から連絡はなかった。
それが、その週の全部だった。
何も起きない、というのは、いいことのはずだった。
わたしは3月に「94日、何もしなければいい」と書いた。書いたときは、何も起きないことを望んでいた。
5月の終わりには、望んでいなかった。
何も起きないままだと、わたしは外されたまま7月を迎える。
わたしには、何かを起こす必要があった。
そう考え始めていたことを、ここに書いておく。
千歳が取引を持ちかけてくるのは6月3日だ。わたしはその10日前から、自分で自分を用意していた。
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5月24日、金曜日。
昼休みに、千歳がわたしの席の前で立ち止まった。
わたしは弁当を食べていた。楓は購買に行っていた。
「佐倉さん、7月まで何日か知ってる?」
「……なんの」
「1学期の期末。評定が締まる日」
「50日くらい」
「49日」千歳は言った。「今日から49日」
「なんで数えてるの」
「数えてないよ。今、逆算した」
千歳はそう言って、行った。
わたしはそのあと、49という数字を1日中考えていた。
考えていたのは、日数のことではない。
なぜ千歳がわたしに日数の話をしたのか、だった。
答えは1つしかない。
わたしが焦っているかどうかを、確かめに来ている。
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25日の土曜、自習室で6時間やった。帰りに、楓から『今日ひま?』とメッセージが来た。
わたしは『勉強中』と返した。
『えらい』と返ってきた。
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5月26日、日曜日。
楓と悠真が付き合い始めた、という話を、わたしはクラスの女子から聞いた。メッセージで来た。
『神谷さんと東くん、付き合ったらしいよ』
『知らなかったの?』と続いた。
『うん』
『神谷さん、言ってなかったんだ』
『うん』
『意外』
意外、と書いてきたその子は、面白がっていなかった。
ただ、事実として意外だと思っていた。
それが一番きつかった。
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わたしは30分くらい、スマホを持ったまま座っていた。
30分のあいだに考えたのは、悠真のことではなかった。
楓が言わなかった、ということだった。
3年になってから、楓は毎日わたしに話しかけていた。バドミントン部の後輩が誰と誰と誰なのか、わたしは全員の名前を知っている。模試の判定も知っている。数学の点数も知っている。
その量を毎日聞かせておいて、これは言わなかった。
隠したのではない。隠すつもりなら、他の量を減らすはずだ。
量を増やして、1つだけ抜く。
それは、抜いていることを気づかせないためのやり方だ。
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わたしは、その夜も眠れなかった。
眠れなかったのは、悠真のことではない。
もう一度書くが、悠真のことではなかった。わたしは5月20日の時点で、悠真については終わっている。彼が沈む船から降りたのは、彼の計算として正しい。わたしは同じ計算を1年半やってきた人間だ。だから怒れない。
眠れなかったのは、こちらだった。
3年になってから、わたしには友達が1人しかいなかった。
早坂という名前の子とは、2年で別のクラスになってから話していない。中学からの子は、みんな別の高校に行った。
1人しかいない友達に、わたしは家のことも、外されたことも、座席表のことも言っていない。
言っていないのに、毎日、一緒に食べている。
これを友達と呼ぶのかどうかを、わたしはその夜、天井を見ながら考えた。
考えて、答えが出なかった。
出なかったから、翌日の月曜に呼び出した。
呼び出したのは、答えを出したかったからだ。
出したら終わるかもしれない、とは思っていた。
思っていて、呼んだ。
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5月27日、月曜日。放課後、わたしは楓を呼んだ。
4階の空き教室に行った。使われていない教室が2つあって、掃除当番だけが割り当てられている。
机は後ろに寄せてあった。床に日が入っていた。
「東くんと付き合ってるの」
「うん」
楓は否定しなかった。言い訳もしなかった。
「いつから」
「先週」
「言わなかったよね」
「言えなかった」
「なんで」
楓は、窓のほうを見た。
「言ったら、澪が『よかったね』って言うから」
わたしは、その意味がわからなかった。
「言うよ」
「うん。だから」
「だから、って」
楓は答えなかった。
「なんでそれが嫌なの」
わたしは聞いた。
聞いてから、自分の声が少し大きかったことに気づいた。
楓は黙っていた。
黙っている時間が、思ったより長かった。10秒くらいあったと思う。10秒は、会話の中では長い。
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わたしはその10秒で、いくつか考えた。
「よかったね」と言われるのが嫌だ、というのは、こういうことだ。
こちらが祝う側に立つのが嫌だ。祝われる側と祝う側では、祝う側のほうが上に見える。楓はそれを嫌がっている。
だが、それは楓がわたしを「上」だと思っているということだ。
思っているということは、ずっと比べているということだ。
比べているということは、ずっとこちらを見ているということだ。
——ずっと見ていた人間なら。
わたしはそこで止まった。
止まって、それから、口が動いた。
「動画、撮ったの、楓?」
言うつもりはなかった。25日、言わないと決めていた。
言ってしまってから、心臓が速くなった。
楓はこちらを見た。
驚いていなかった。
「うん」
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わたしは、しばらく何も言えなかった。
「……」
「なんで、今まで聞かなかったの」
聞き返されたのは、そちらだった。
わたしは答えられなかった。
「気づいてたでしょ。座席表、見ればわかるもん」
「……いつ気づいたと思ってたの」
「1週間くらいかなと思ってた」楓は言った。「1か月かかったんだ」
楓は少し笑った。
からかう笑い方ではなかった。むしろ、疲れた顔だった。
「消しゴム落としたの、知ってたよね」
「知ってた」
「知ってて撮ったの」
「撮ったのは、その前から」楓は言った。「あの日だけじゃない」
「え」
「4月の実力テスト、3日あったでしょ。3日とも撮ってる」
わたしは、その言葉を理解するのに時間がかかった。
「3日?」
「うん。1日目と2日目は何も映らなかった。3日目に映った」
「何が映ると思ってたの」
「わかんない」
楓は言った。
「何かあるかな、と思って撮ってただけ。何もなかったら消すつもりだった」
---
「なんで」
わたしは聞いた。
楓は窓の外を見た。野球部のノックの音がしていた。
「ずっと、あなたが羨ましかった」
声が、少し変わった。
わたしは何も言えなかった。
「中学の卒業式、覚えてる?」
「……なんの」
「最後の実力テスト。わたし3年間1位で、最後だけ澪が上だった」
「覚えてない」
「だよね」
楓はそう言った。
「そのとき澪、なんて言ったか覚えてる?」
「覚えてない」
「『楓のおかげだよ』って言ったの」
楓は笑った。笑いながら言った。
「あれが、一番きつかった」
「なんで」
「本気で言ってたから」
わたしは、そこで初めて、言われている意味がわかった気がした。
「嫌味で言ってくれてたら、まだよかったの。嫌味なら、こっちも嫌えるから」楓は言った。「澪は本気で言ってた。本気で、わたしのおかげだと思ってた」
「思ってたよ」
「うん。だから、こっちが1人で勝手に負けてるだけになるの」
楓は机の端に手を置いた。
「わたしがどれだけ数えてても、澪は数えてないの」
「……数えてるよ」
「今は数えてるでしょ。でも、あのときは数えてなかった」
そのとおりだった。
わたしが評定を積み始めたのは、高校1年の6月からだ。中学のとき、わたしは何も数えていなかった。
数えていない人間に抜かれた、というのは、そういうことだ。
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「先生に言えばいいよ」
楓が言った。
「わたしが撮ったって言えば、澪は戻れるでしょ」
「言わない」
「なんで」
「言っても、わたしの評定は上がらないから」
言ってから、わたしは自分の言葉に驚いた。
そういう言い方をするつもりはなかった。
楓もこちらを見た。
「……ほんとに、そういう人になったんだね」
「なった」
「わたしのせい?」
「わからない」
わたしはそう答えた。
わからない、というのは嘘だった。
半分は楓のせいで、半分は違う。動画がなくても、父の会社は潰れた。母は出ていった。わたしは金の計算をすることになった。
だが、それを説明すると、家の話をすることになる。
わたしは、この期に及んで、まだ家の話をしたくなかった。
「今の、聞かなかったことにして」
楓は言った。
さっき自分が言った「羨ましかった」のことなのか、いま言った「わたしのせい?」のことなのか、わからなかった。
聞き返さなかった。
楓は教室を出ていった。
わたしは、日の入っている床を見ていた。
その日から、わたしと楓は、一度もこの話をしていない。
翌日から、また一緒に弁当を食べた。
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