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親友に嵌められて推薦枠を失った日から、わたしは同じことをする側になりました  作者: 桜野結
第1章

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第五話 母

母の靴が、なかった。


クローゼットの左半分が空いていた。ハンガーが12本、何もかかっていない状態で残っていた。


置き手紙はなかった。テーブルの上に何もなかった。冷蔵庫に貼り紙もなかった。


わたしは電話をかけた。3回コールして、留守番電話に切り替わった。


もう一度かけた。同じだった。


3回目はかけなかった。


かけたら、たぶん、出ないことが確定するからだ。2回までなら、まだ気づいていない可能性が残る。


その日、わたしは学校に行った。


行った理由は、欠席が記録に残るからだった。


授業は6時間あった。何を聞いたか覚えていない。ノートは取ってある。字はきれいだった。


その日、父は6時に帰ってきた。


スーツだった。ネクタイも締めていた。


わたしは台所に立って、父が靴を脱ぐのを待った。


「お母さん、いなくなった」


「知ってる」


「知ってるって」


「昨日、聞いてる」


わたしは、そこで一度、息が止まった。


昨日というのは、5月15日だ。わたしが書類の話をして、父が「そういうことを、お前が言うな」と言った日だ。


あの夜、母はもう決めていた。


そして父は知っていた。知っていて、わたしには何も言わなかった。


「なんで言わなかったの」


「言うことじゃない」


「わたしの母親だよ」


「そうだ」


父はそれだけ言って、居間に入った。


わたしは父の向かいに座った。


父はテレビをつけなかった。つけない日が、5月に入ってから増えていた。


「理由、教えて」


「理由か」


「あるんでしょ」


父は少しのあいだ、何も映っていないテレビの画面を見ていた。


「母さんは、佐倉建材の取締役だ」


「……取締役?」


「名前だけだけどな。20年前、会社を継いだときに入れた。役員が1人だと銀行が渋る」


わたしは、知らなかった。


母は専業主婦だと思っていた。学校に出す家庭調査票にも、そう書いていた。父も母も、それを訂正しなかった。


「それで」


「取締役だから、借入の連帯保証人になってる」


「保証人」


「20年前からずっとだ。借り換えるたびに判を押してる」


父は右手を出して、判を押す動きをした。


「何回押したと思う」


「わからない」


「俺もわからん」父は言った。「30回はある」


「それが、いなくなった理由なの」


「そうだ」


「なんで」


「一緒にいると、次のときに、また判を押すことになる」


父はそう言った。


「離れたほうがいい。それだけだ」


わたしはその説明を、そのときは信じた。


信じたというより、信じたほうが楽だった。


母が逃げたのではなく、計算して離れたのなら、まだ話は通る。話が通るなら、耐えられる。


わたしはそのころ、通る話と通らない話を分けて、通る話のほうだけを見るようになっていた。


「お父さん」


「うん」


「わたし、大学行けるよね」


父は、わたしの顔を見た。


「行ける」


「ほんとに」


「お父さんは、大丈夫だから」


その言い方を、わたしはもう4回聞いていた。


5月17日、金曜日。


朝、父が台所にいた。スーツを着ていなかった。


「今日は」


「今日はいい」


父はそう言って、それきり出ていかなかった。


7時40分に家を出るのが、8日続いていた。9日目に止まった。


母がいなくなった翌日に止まった。


わたしはそれを見て、父が毎朝出ていっていたのは、母に見せるためだったのだと思った。


そう思ったが、違うかもしれない。


わたしにも見せていたのかもしれないし、自分に見せていたのかもしれない。


どれでも同じことだった。見せる相手が1人減って、続かなくなった。


朝、わたしは自分で弁当を作った。冷凍のものを3つ入れて、ごはんを詰めた。


作りながら、母がこれを17年やっていたことを、はじめて数として考えた。


部屋に戻ってから、わたしは母のことを思い出そうとした。


判を押している母を、見たことがあるかどうか。


1つだけあった。


小学5年か6年のころだ。日曜の朝で、父が居間に書類を並べていた。母が来て、印鑑を持って、順番に押していった。


母は書類を読んでいなかった。


読まずに、上から順に押していた。父が「ここ」と言うところに押す。それだけだった。


10分くらいで終わって、母は台所に戻った。


わたしはそのとき、母に「何それ」と聞いた。


母は「お父さんのお仕事」と答えた。


それで終わった。


20年で30回。1年に1回か2回。そのたびに、母は読まずに押していた。


読まなかったのは、たぶん、読んでもわからないからではない。


読むと、押せなくなるからだ。


その日から、わたしは家の音を聞くようになった。


母がいたころは、家に音があった。台所の水、換気扇、テレビ、洗濯機。誰かが動いている音が、常にどこかでしていた。


母がいなくなると、音が減った。


減ったぶん、残った音が大きくなる。冷蔵庫のモーターの音がずっと聞こえる。時計の秒針が聞こえる。父が椅子を引く音が、階段の上まで届く。


わたしは自分の部屋で、下の音を数えるようになった。


椅子を引く音が1回。立ち上がって、また座る。それが5分おきに続く日があった。


そういう日は、父は一晩中、居間にいた。


わたしは降りなかった。


降りて何を言えばいいのか、思いつかなかった。


思いつかない、と書いたが、正確ではない。


言うことはあった。「お母さんに連絡した?」と聞けばよかった。


聞かなかったのは、父が「してない」と答えるとわかっていたからだ。


答えを知っている質問を、わたしはこの時期、一度もしなかった。


母のことを、わたしは誰にも言わなかった。


楓にも言わなかった。


言わなかったのは、言ったら楓が優しくするからだ。優しくされると、こちらが弱い側になる。弱い側になったら、もう戻れない気がした。


楓は毎日、普通に話しかけてきた。バドミントン部の後輩の話と、模試の話をした。


わたしは全部に返事をした。


返事をしながら、わたしは楓に、自分の家のことを一度も話していないことを確認していた。


確認していた、というのが正確だ。話していないという事実を、毎日、数えるみたいに確かめていた。


5月18日、土曜日。


わたしは家の電話を使って、母の携帯にかけた。


自分のスマホからだと出ないかもしれないと思ったからだ。


3回コールして、切れた。


10分後に、わたしのスマホにメッセージが来た。


『家の電話からはかけないで』


それだけだった。


わたしは打った。


『どこにいるの』


30分たっても返事は来なかった。


1時間後に来た。


『元気です』


質問に対する答えではなかった。


わたしはもう一度打とうとして、やめた。


やめたのは、次に打つのが『帰ってきて』しかないと気づいたからだ。


打てば、断られる。断られたら、確定する。


わたしは母に対しても、父に対してと同じことをしていた。


5月19日、日曜日。


わたしは家庭調査票のことを思い出して、去年のものを探した。


去年の分は、コピーが引き出しにあった。


保護者氏名の欄に、父の名前が書いてある。職業の欄に「会社役員」とある。


母の欄は「無職」だった。


字は母のものだった。母が自分で「無職」と書いていた。


20年間、取締役で、連帯保証人で、30回判を押していた人が、自分の職業を「無職」と書いていた。


わたしはその紙を、しばらく見ていた。


嘘ではない。母は給料をもらっていなかったと思う。会社に行ったこともなかったと思う。


だから「無職」は正しい。


正しいのに、この紙は何かを隠している。


わたしはそのとき、はじめて、父と母が20年かけて何かを積み上げてきたことに気づいた。


積み上げてきたものの中身を、わたしは1つも知らなかった。


知らないまま、その上に自分の進路を立てていた。


5月20日、月曜日。


昼休みに、楓が弁当を持って机に来た。


「食べよ」


「うん」


楓は普通に喋った。バドミントン部の後輩が1人辞めたこと。辞める前に、その子が3回相談に来ていたこと。


「わたし、止めなかったんだよね」


「そう」


「止めたほうがよかったのかな」


「わからない」


楓は笑った。


わたしも笑った。


同じ日の放課後、廊下で東悠真とすれ違った。


彼は目を合わせなかった。


わたしは声をかけた。


「東くん」


彼は止まった。止まってから、こちらを見た。


「うん」


「なんか、避けてる?」


「避けてない」


「そう」


「……」


悠真は何か言おうとした。言おうとして、それから息を吸い直した。


「悪い。今、余裕ないんだ」


「わたしも余裕ないよ」


「うん」彼は言った。「だから」


だから、の続きは言わなかった。


わたしはそのとき、はっきりわかった。


沈んでいる人間の隣にいると、自分も沈んで見える。悠真は特待生の枠を狙っている。特待を狙う人間は、印象を落とせない。


彼の言っていることは、わたしが3月からやってきたことと、まったく同じだった。


「わかった」


わたしはそう言った。


それ以上、言うことがなかった。


悠真は行った。


わたしは、彼が飲み込んだ言葉を、今度は「優しさ」として受け取らなかった。


4月には受け取った。5月には受け取らなかった。


1か月で、わたしはそれくらい変わっていた。

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