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親友に嵌められて推薦枠を失った日から、わたしは同じことをする側になりました  作者: 桜野結
第1章

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4/14

第四話 倒産

5月7日、連休明けの火曜日。


家に帰ると、玄関に知らない靴が3足あった。


黒い革靴が2足と、茶色いのが1足。全部、先が四角い形をしていた。父の靴はそういう形ではない。


居間から声が聞こえた。父の声ではなかった。


わたしは自分の部屋に上がって、ドアを閉めた。


30分くらいして、玄関が開いて、閉まった。


下に降りると、父がテーブルに座っていた。母は台所にいて、こちらを見なかった。


「おかえり」


「うん」


「学校、どうだった」


「普通」


父はうなずいた。テーブルの上に、A4の紙が伏せて置いてあった。


「お父さん」


「うん」


「今の人たち、誰」


「取引先だ」


「連休明けに?」


父は少し笑った。


「お父さんは、大丈夫だから」


それが答えだった。


5月8日、水曜日。


朝、家を出るときに、郵便受けを見た。


いつもは見ない。その日は見た。


封筒が7通あった。銀行が2通。信用金庫が1通。あとの4通は会社の名前で、聞いたことのない社名だった。


全部、父宛てだった。うち3通に、赤い字で「重要」と印刷してあった。


わたしは封筒を郵便受けに戻して、学校に行った。


戻したのは、開けたら知ることになるからだ。


知らなければ、まだ何も起きていない。


わたしはこの4か月で、その考え方をずいぶん使うようになっていた。


母が変わったのは、5月7日からだった。


正確には、変わったことにわたしが気づいたのが5月7日だった。


母は台所にいる時間が長くなった。作るものは減った。前は3品作っていたのが2品になり、5月の10日ごろには1品になった。


減ったのに、台所にいる時間は増えた。


わたしは一度、下に降りて見たことがある。


母は流しの前に立って、何もしていなかった。水を出していなかった。手にも何も持っていなかった。ただ、そこに立っていた。


「お母さん」


母は振り返って、少し笑った。


「なあに」


「何してるの」


「考えごと」


「何の」


「たいしたことじゃない」


わたしは部屋に戻った。


戻りながら、わたしは母に何を聞くべきだったのかを考えた。


考えたが、思いつかなかった。


思いつかなかったのは、わたしが母のことを、この2年間ほとんど見ていなかったからだ。


わたしが見ていたのは自分の評定で、母は「情報が漏れる経路」だった。


佐倉建材が事業を停止したのは、5月9日だった。


元請けの工務店が3月に破産していて、そこへの売掛が2,400万円あった。回収できなかった。4月の手形が落ちなくて、5月に2回目が来た。


この数字を、わたしは6月になってから知った。


5月9日の時点でわたしが知っていたのは、社員が14人いること、それだけだった。


その夜、父は帰ってこなかった。


10日の朝、父はスーツで台所にいた。ネクタイを締めていた。


「行ってくる」


「どこに」


「会社」


会社はもうないはずだった。わたしはそれを言わなかった。


父は7時40分に家を出て、6時に帰ってきた。


それから2週間、父は毎朝スーツで出ていった。


5月10日、金曜日の夜、うちに人が来た。


50代くらいの男の人だった。作業着の上にジャンパーを着ていた。


父と2人で玄関先で20分話して、帰った。


わたしは階段の上から見ていた。話の内容は聞こえなかった。


聞こえたのは、最後の一言だけだった。


「社長、うちは大丈夫ですから」


大丈夫、という言葉を、その週にわたしは3回聞いた。父から2回、その人から1回。


3回とも、大丈夫ではなかった。


玄関を閉めたあと、父はそこにしばらく立っていた。


わたしは階段を上がって、部屋に入った。


見ていたことを、父に知られたくなかった。


5月11日、土曜日。


土曜は自習室が開く。3年は使える。わたしは11時から4時まで自習室にいて、帰りに教室に寄った。


千歳が窓際で参考書を読んでいた。


「佐倉さん」


「うん」


「佐倉建材、止まったんだね」


わたしは止まった。


「なんで」


「うちの父が言ってた。手形が落ちなかったって」


千歳は顔を上げなかった。ページをめくりながら話していた。


「大変だね」


「うん」


「奨学金、去年の所得で見られるよ」


「……知ってる」


「そう」


千歳はページをめくった。


「じゃあ、いいや」


わたしは教室を出た。


出てから、あの人は何をしに残っていたんだろう、と思った。


参考書は、開いたページが最初から最後まで同じだった気がする。


5月12日、日曜日。


わたしは1日、自分の部屋にいた。


昼過ぎに、下から声が聞こえた。父と母が話していた。何を言っているかはわからない。声の高さだけがわかる。


父の声が2回、高くなった。


母の声は、一度も高くならなかった。


そのあと、30分くらい何も聞こえなくなって、それから玄関が開いた。誰かが出ていく音だった。


わたしは窓から見た。


母だった。買い物袋を持っていなかった。財布も持っていないように見えた。手ぶらで、駅のほうへ歩いていった。


2時間後に帰ってきた。手には何も持っていなかった。


わたしはそのとき、母がどこへ行ったのかを聞かなかった。


聞かなかったのは、聞くと、答えを聞くことになるからだ。


わたしは4月からずっと、そればかりやっていた。


5月13日、月曜日。担任に呼ばれた。


「佐倉、学費の引き落としが止まってる」


「はい」


「4月分と5月分。事務から連絡が行ってると思うんだけど」


「聞いてないです」


「そうか」担任は言った。「家の人に、確認してもらえるか」


「はい」


「あと、これ」


担任は封筒を出した。授業料減免の申請書だった。


「該当するかもしれないから、一応」


「ありがとうございます」


わたしは受け取った。


受け取りながら、この先生はどこまで知っているんだろう、と考えた。


考えて、たぶん全部知っている、と思った。


千歳の父が知っているなら、地元の業者はだいたい知っている。地元の業者が知っているなら、学校も知る。


わたしはその封筒を鞄に入れて、家では出さなかった。


その夜、給付型奨学金の申請ページを開いた。


家計基準の表を読んだ。世帯年収と、世帯人数と、通学形態で区分が分かれている。うちの区分がどこに当たるのかは、去年の所得で決まる。


去年の所得は、まだ会社があったときの数字だ。


つまり、いま一番困っている家が、いま一番通らない。


千歳の言ったとおりだった。


申請には書類が要る。課税証明書。所得証明書。父の署名。


わたしはページを閉じて、それから、もう一度開いた。


閉じても、明日になれば同じページを開くことになる。それがわかっていた。


5月14日から15日まで、わたしは楓と普通に話していた。


昼は一緒に食べた。楓は数学の小テストの話をした。平均が42点で、自分は39点だったと言った。


「澪は?」


「48」


「差、開いてくね」


楓は笑った。


わたしも笑った。


わたしはそのとき、楓の評定のことを考えていた。


数学が4のままなら、楓は4.5から上がらない。上がらなければ、わたしが外されていても、順番はわたしの下のままだ。


わたしは、動画のことを一度も口に出さないまま、楓の評定を数えていた。


数えていた自分のことを、ここに書いておく。


わたしは被害者だったが、それはわたしが何もしていないという意味ではない。


わたしはその週、学校で誰にも家の話をしなかった。


楓にも、担任にも、千歳にも。


千歳には言う必要がなかった。もう知っていたからだ。


言わなかったのは、言うと、この4か月の説明を最初からやり直すことになるからだ。


推薦から外されたこと。その理由。動画。そこに家の話が乗ると、話が全部つながってしまう。


つながると、わたしは「かわいそうな子」になる。


かわいそうな子になると、もう戻れない。1回そう見られた人間は、次の年もそう見られる。


わたしはそれを、中学のときに1人見ている。


その子は、家の事情をクラスに話した。誰も悪く言わなかった。全員が優しくした。そして3年間、その子はずっとその子のままだった。


わたしはあの子になりたくなかった。


だから黙った。


黙ったことが正しかったのかは、今もわからない。ただ、黙ったせいで、5月16日の朝、わたしには話せる相手が1人もいなかった。


5月15日、水曜日の夜。


わたしは父に書類を頼んだ。


「書類、お願いしたいんだけど」


「何の」


「奨学金の」


父は少しのあいだ黙った。


「お父さんが出すから、いい」


「出せないでしょ」


言ってしまってから、しまったと思った。


父は怒鳴らなかった。


テーブルの上の紙を、端をそろえるように動かして、それからこう言った。


「そういうことを、お前が言うな」


声は低かった。低いほうが、怒鳴られるよりきつかった。


「……ごめんなさい」


「うん」


父は謝らなかった。


わたしは部屋に上がって、その夜は勉強をしなかった。


5月16日、木曜日。


朝、洗面所で歯を磨いていて、コップに歯ブラシが2本しかないことに気づいた。


赤と、青。


母の白いのが、なかった。

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