第三話 外される
4月25日、木曜日。放課後、進路指導室に呼ばれた。
室生先生は座ったまま、わたしにも座れと言った。
机の上に、印刷した紙が1枚あった。動画の1コマだった。
「知ってるな」
「はい」
「やったか」
「やってません。消しゴムを落としました」
「わかった」
室生先生は紙を裏返した。
「早瀬大の校内選考、佐倉は外す」
わたしは、意味を取るのに2秒かかった。
「……理由を、聞いていいですか」
「今のがそうだ」
「わたしはやっていません」
「知ってる」
「じゃあ」
「知ってるのは、俺だけだ」室生先生は言った。「疑いがある時点で、無理なんだよ」
「証拠はないんですよね」
「ない」
「ないのに外すんですか」
「ないから外すんだ」
先生は椅子の背にもたれた。
「あるなら処分して終わりだ。処分すれば記録が残る。記録が残れば、済んだことになる。今は済んでない。済んでない話を抱えたまま推薦を出すと、うちの枠が来年から消える」
「わたし1人のために、ですか」
「そうだ」
先生は否定しなかった。否定しないことに、わたしは何も言い返せなかった。
「先生は、信じてますか」
「信じてる」
「じゃあ」
「信じてるのと、推せるのは、別だ」
「証明したら、戻れますか」
わたしは聞いた。
「証明って、何を」
「消しゴムを落としただけだって」
「どうやって」
「わかりません」
「そうだろうな」
室生先生は少し黙った。
「無いことは証明できない。やってないことを証明するのは、原理的に無理だ」
「じゃあ、どうすれば」
「あの動画が、そういう意味の動画じゃないと示す。それしかない」
「示すって」
「元のやつが出てくれば早い」
先生はそう言った。言ったあとで、言わなければよかった、という顔をした。
「まあ、出ないだろうけどな」
「誰が撮ったか、調べないんですか」
わたしは聞いた。
「調べない」
「なんでですか」
「調べると、大ごとになるからだ」室生先生は言った。「撮ったやつが出てきたら、そいつを処分することになる。処分すると保護者が来る。保護者が来ると、なんでうちの子だけって話になる。そうすると、元の動画の話に戻る」
「戻ればいいじゃないですか」
「戻ると、佐倉の話に戻るんだよ」
わたしは黙った。
「試験中に撮影があったってことは、試験監督が見てなかったってことでもある」
「……」
「そこまで行くと、今度は先生の話になる」
先生はクリアファイルをそろえた。
「悪いな。俺が決めたわけじゃない。規定にそう書いてある」
規定を書いたのは誰なのか、わたしは聞かなかった。
聞いても意味がないことは、そのときにはもうわかっていた。
進路指導室を出て、階段の踊り場で、わたしは計算をした。
早瀬大学経済学部を一般で受ける場合。
去年の倍率は4.8倍。わたしの模試の判定はC。C判定は合格率40パーセント前後だ。
受験料は35,000円。滑り止めを2つ受けて、合計105,000円。
入学金は250,000円。初年度の授業料を入れると、最初の1年で約1,300,000円。
推薦なら、この数字のうち受験料の部分が消える。合格率は100パーセントになる。
わたしは、その計算を2回した。
1回目は、合格率を見ていた。40パーセントをどう上げるかを考えていた。
2回目は、1,300,000という数字しか見ていなかった。
見ているうちに、これが自分で答えを出せる計算ではないことに気づいた。
うちにその金があるかどうかを、わたしは知らない。3月4日の夜に年収を調べようとして、知らないと気づいて、それきりにしてある。
答えを出すには、父に聞くしかない。
中学2年の冬、父は「うちは、学費の心配はするな」と言った。わたしはその一言の上に、4年分の計画を積んでいる。
聞くというのは、その一言がまだ生きているかを確かめることだ。
わたしは聞かなかった。
聞かなければ、まだ生きていることになるからだ。
家に帰って、わたしは母に何も言わなかった。
夕食のとき、母が「今日、進路の話あった?」と聞いた。
「なかった」
嘘だった。
嘘をついたのは4月22日に続いて2回目で、1回目より簡単だった。
嘘は2回目から簡単になる。1回目は心臓が動く。2回目は動かない。3回目からは、嘘だと思わなくなる。
わたしはそのとき、そのことを知らなかった。
知らないまま、味噌汁を飲んで、部屋に上がった。
父はその日、8時に帰ってきた。前は9時半だった。
わたしは自分の部屋で、父が帰ってくる音を聞いていた。玄関が開いて、閉まる。靴を脱ぐ音。鞄を置く音。
そのあと、居間で誰も喋らない時間が、3分あった。
4月26日、金曜日。
昼休みに、柏木千歳がわたしの席の横を通った。
通りながら、こちらを見ずに言った。
「外されたんだ」
わたしは顔を上げた。千歳はもう2歩先にいた。
「なんで知ってるの」
千歳は止まった。振り返らなかった。
「先生が電話で喋ってた。職員室の窓、開いてたから」
「……」
「聞こうと思って聞いたわけじゃない」
「そう」
「大変だね」
千歳はそのまま行った。
大変だね、という言葉に、感情が1つも乗っていなかった。
同情でも、嘲りでもなかった。天気の話をするときの声だった。
わたしはそのとき、少しだけ楽になった。
同情されるより、そのほうが楽だった。
楽だと感じたことを、あとになって思い出す。わたしはあの時期、自分に何も感じない人間だけを、安全だと感じるようになっていた。
4月27日から29日まで、3連休だった。
わたしは3日で20時間勉強した。やったのは英語と数学と、あと化学基礎だ。全部、評定に関係のある科目だった。
外されたのに、評定を積んでいた。
意味がないことは、自分でわかっていた。わかっていて、やめられなかった。
やめると、この2年間が全部消えるからだ。
1年の6月から積んできたものは、1枠のためだけに積んできた。1枠がないなら、積んだものには使い道がない。使い道がないと認めることが、どうしてもできなかった。
だから、わたしは意味のない勉強を3日間やった。
3日目の夜、シャープペンの芯が切れて、替えを探して、机の引き出しを開けた。
引き出しの奥に、3月4日に印刷した評定分布の一覧が入っていた。
——ではなかった。あれは財布に入れてある。
引き出しに入っていたのは、その前に印刷した、2年の2学期時点の一覧だった。
数字は同じだった。4.6が、上から3番目にあった。
わたしはそれを見て、2枚とも捨てなかった。
4月30日、火曜日。
わたしが校内選考から外されたことは、掲示されない。そういう発表はしない。
だが、こういう話は2日で伝わる。
伝わったあと、教室でのわたしの位置が変わった。
変わった、というのは、誰かが冷たくなるということではない。誰も冷たくならない。
ただ、進路の話がわたしの前で止まる。
「推薦どうするー」という会話が、わたしの席の2つ手前で終わる。終わってから、別の話が始まる。
その配慮は、たぶん善意だ。善意だから、断れない。
わたしは自分の席で、その2つ手前の会話が終わるのを、毎日聞いていた。
4月30日から3日、わたしは撮影者を探した。
わたしがやったのは、こういうことだ。
1日目。4月30日。あの日の座席で、わたしの後ろ3列にいた人間を思い出した。7人いた。
2日目。5月1日。7人のうち3人に、それとなく聞いた。「あの動画、誰が撮ったんだろうね」と言うと、3人とも「わかんない」と言った。3人の顔は、隠しごとをしている顔ではなかった。
3日目。5月2日。何もしなかった。
5月2日に何もしなかったのは、次に聞く相手が、あと4人しかいないと気づいたからだ。
4人のうち1人が、神谷楓だった。
わたしはそこで止まった。
止まった理由を、そのときのわたしは自分に説明していない。説明しないまま、リストを閉じた。
その日の放課後、廊下で楓が待っていた。
待っていた、という顔ではなかった。たまたま通りかかった、という立ち方をしていた。
「呼ばれてたんでしょ、この前」
「うん」
「動画の?」
「うん」
「どうなった」
「外された」
楓は口を開けて、それから閉じた。
「……嘘でしょ」
「ほんと」
「そんなの、おかしいよ」
楓は本当に怒っているように見えた。今でも、あれは本当に怒っていたのだと思う。
「先生に言おうよ。わたしも一緒に行く」
「いい」
「なんで」
「行くと、話が大きくなるから」
「大きくなればいいじゃん」
「大きくならないほうがいいって、先生が言ってた」
楓は少し黙った。
「澪って、そういうとこあるよね」
「そういうとこって」
「怒らないとこ」
わたしは何も言わなかった。
「わたしは信じてるから」
楓は言った。
「うん」
「澪がそんなことするわけないもん」
「ありがとう」
わたしは礼を言った。
礼を言ってから、歩き出して、階段の3段目で足が止まった。
いま、楓はどこから来た。
進路指導室は本館の1階だ。3年5組は3階にある。楓の部活の練習は体育館で、体育館は渡り廊下の先だ。
このあいだも、楓は同じ場所に立っていた。
たまたまが2回ある。
そこまで考えて、わたしは別のことを思い出した。
動画の角度だ。
わたしの背中は、右斜め後ろから映っていた。少し高い位置から。前の席の頭が、画面の下に少しだけ入っていた。
実力テストの座席は、出席番号順ではない。学年で共通の試験座席表が使われる。
わたしは鞄から座席表のコピーを出した。テストのたびに配られるやつを、捨てずに入れたままだった。
わたしの席は、窓側の後ろから2番目。
その右斜め後ろ。窓側の一番後ろ。
神谷楓。
わたしは、階段の3段目に立ったまま、その紙を2回見た。
2回見ても、名前は変わらなかった。
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