第十三話 都築の帰還
10月21日、月曜日。
朝、昇降口で靴を履き替えていると、1年生の列のほうから声が聞こえた。
「え、戻ってきたの?」
「らしいよ」
「なんで」
わたしは、その会話を最後まで聞かなかった。
聞かなかったが、心臓が動いた。
動いてから、なぜ動いたのかを考えて、答えが出た。
わたしは、その日が来ることをずっと想定していた。
想定していて、来ないことを願っていた。
昼休みに、確認した。
1年3組に、都築陽が戻っていた。
転校先は隣県の県立高校だった。1学期の終わりに移って、2学期の途中で戻ってきた。
理由は、誰も知らなかった。
「向こうで馴染めなかったんじゃない?」と、3年の誰かが言っていた。
わたしはその推測を、たぶん当たっていると思った。
思ってから、自分が「馴染めなかった理由」の側にいることを、もう一度確認した。
10月22日、火曜日。
わたしはその日、1日中、都築の名前を考えていた。
考えていたのは、都築のことではない。
自分の推薦のことだ。
都築が戻ってきた。都築は、自分を売ったのが3年の誰かだと知っている。生徒指導部の先生から「3年の子から聞いた」と言われている。名前までは知らない。
知らないが、6月19日にわたしのところへ来た。
——先生が言ってました。3年の子から聞いたって。3年で、わたしのこと知ってる人、いないんですけど。
あのとき、都築はわたしの名前を突き止めていた。どうやってかはわからない。だが、突き止めていた。
つまり、都築は言おうと思えばいつでも言える。
言えば、どうなるか。
わたしは規定を思い出した。『評定平均値が同一の場合は、出席状況及び日常の行動記録を総合して判定する』
日常の行動記録。
室生先生は9月にこう言った。「日常の行動記録っていうのは、文書だけじゃないんだ」「印象だよ」
1年生を売った3年生。
その印象がつけば、12月の選考委員会で、わたしは終わる。
わたしは1日かけて、そこまで整理した。
整理してから、自分に聞いた。
——都築が戻ってきたことを知って、最初に考えたのが、これでいいのか。
答えは出なかった。
出なかったが、翌日、わたしは1年3組の前を通った。
10月23日、水曜日。
放課後、わたしは1年3組の前を通った。
通る用事はなかった。7月19日にも同じことをした。あのときは誰もいなかった。
今度は、いた。
廊下側の窓から2列目、前から3番目に、背の低い子が座っていた。髪を1つに結んでいた。
都築陽だった。
顔を見て、思い出した。
6月19日に、昇降口で会っている。1回だけだ。あのときも、この子は泣いていなかった。
わたしは廊下に立っていた。
都築が顔を上げた。
目が合った。
都築は何もしなかった。立ち上がりも、目をそらしもしなかった。
こちらを見ていた。
わたしのほうが、先に目をそらした。
翌日、都築のほうから来た。
昼休み、3年5組の廊下側の窓の外に立っていた。
「佐倉先輩」
「……うん」
「ちょっといいですか」
教室にいた何人かが、こちらを見た。楓も見た。
わたしは廊下に出た。
わたしたちは、階段の踊り場まで歩いた。
「戻ってきました」
「うん」
「向こう、無理でした」
「そう」
「途中から入ると、もう席が決まってるんですよね。誰も悪くないんですけど」
都築はそう言った。
言い方が落ち着いていた。6月と同じだった。
「先輩に聞きたいことがあって」
「なに」
「なんで、わたしだったんですか」
わたしは、答えを持っていた。
6月19日にも持っていた。
——あなたが、わたしの知らない人だったからです。
その1文を、わたしは4か月持っている。
「……わたしが悪かった」
わたしはそう言った。
都築の顔が、はじめて動いた。
「そういうのが一番むかつく」
声が、少しだけ大きくなった。
「わたし、謝ってほしいなんて一言も言ってないです」
「……」
「なんでわたしだったのかを聞いてるんです」
わたしは黙った。
「先輩、答えを持ってますよね」
「……」
「持ってて、言わないですよね」
わたしは、そこで、言うべきだと思った。
思ったのに、口が動かなかった。
言えば、この子は理解する。理解して、それでも納得しない。納得しないまま、わたしを一生憎むことになる。
——それでいい。
そう思ったはずだった。思ったはずなのに、言えなかった。
「言えないんですね」
都築はそう言った。
「わかりました」
「先輩、1個だけ言っていいですか」
「うん」
「わたし、やってます」
「知ってる」
「3回やってます。全部、本当です」
「うん」
「だから、処分されたのは当然なんです」
都築は階段の手すりに手を置いた。
「当然なのに、腹が立つんですよ」
わたしは、その言葉を聞いていた。
「自分が悪いってわかってて、それでも誰かのせいにしたいんです。でも、誰のせいにもできないんです。だって、わたしがやったから」
「……」
「だから先輩に聞いてるんです。理由があれば、そっちのせいにできるので」
わたしは、そこではじめて理解した。
この子が欲しいのは、謝罪ではない。
理由だ。
理由がないと、この子は自分だけを憎み続けなければならない。
わたしが理由を渡せば、この子は半分だけ楽になる。
わたしは持っている。持っていて、渡していない。
渡さない理由は1つだ。
——渡したら、わたしが最低な人間だと確定するからだ。
わたしはこの子の回復より、自分の見え方を選んでいる。
6月に選んだのと、まったく同じ選び方だった。
「先輩」
「うん」
「万引きした理由、聞かないんですね」
わたしは顔を上げた。
「……聞いていいの」
「聞いてこないと思ってました」
都築は少し笑った。
笑ったのは、そのときが初めてだった。
「みんな聞くんですよ。なんでやったのって。先生も、親も、転校先の先生も」
「うん」
「言わないですけど」
「なんで」
「言うと、かわいそうな子になるので」
わたしは、その言葉を聞いて、階段の手すりを握った。
同じことを、わたしも5月に考えている。
——かわいそうな子になると、もう戻れない。1回そう見られた人間は、次の年もそう見られる。
わたしは黙った。
「じゃあ、失礼します」
都築は頭を下げた。
6月と同じように、下げた。
下げてから、行った。
わたしは、その夜、都築のことを書き出した。
書き出したのは、整理するためではない。
言えなかった理由を、文字にしておかないと、また忘れると思ったからだ。
都築陽。16歳。1年3組。バドミントン部。4月に3回、駅前の文具店で万引きをした。理由は言わない。言うとかわいそうな子になるからだ。
6月に処分を受けた。家庭謹慎5日と反省文。退学ではなかった。
部の中で犯人探しが始まって、転校した。転校の余波で、1年が2人辞めた。
10月に戻ってきた。転校先で馴染めなかった。
この子が失ったものを、数えてみる。
部活。学校。1学期の後半。転校先の4か月。それから、たぶん、親との関係も。
わたしが失ったものは、7月に5つ数えた。
母。父の会社。東悠真。神谷楓。都築陽。
その5つ目に、この子の名前が入っている。
わたしは自分の損失リストに、自分が壊した人間を入れていた。
7月に書いたときは、それが変だと思わなかった。
10月に読み返して、はじめて変だと思った。
失ったのではない。
こちらが捨てたのだ。
教室に戻ると、楓が机に来た。
「今の子、誰?」
「1年」
「知り合い?」
「知らない」
嘘だった。
この半年で、はっきりした嘘をついたのは、これが6回目だった。
4月に3回。「寝てないだけ」と、「ないよ」と、「なかった」。
9月に1回。玄関で、涼子さんに「いないみたいです」と言った。
10月に1回。父に「わたしも知らない」と言った。
6回目は、楓に対してだった。
4月は、数えなくても覚えていた。10月は、数えないと出てこなかった。
「ふうん」
楓はそれ以上聞かなかった。
聞かなかったので、わたしは席に座った。
その日の放課後、わたしは昇降口で、都築と柏木千歳が話しているのを見た。
2人は下駄箱の列のあいだに立っていた。
千歳が何か言って、都築がうなずいた。
30秒くらいだった。
千歳が先に出ていって、都築が少しあとから出ていった。
わたしは柱の陰から見ていた。
見ていたことを、そのときの自分がどう思っていたかを書いておく。
わたしは、まずいと思った。
都築がかわいそうだとは思わなかった。千歳が何を企んでいるのかも考えなかった。
まずい、とだけ思った。
自分の推薦が危ないと思った。
柱の陰から出たとき、千歳が下駄箱のところに戻ってきていた。
戻ってきた、というより、待っていた。
「見てたでしょ」
「……うん」
「聞かないの」
「何を」
「あの子が、何を言ったか」
わたしは聞かなかった。聞けば、こちらが怯えていることが伝わる。
千歳は、少しのあいだ待った。
待ってから、言った。
「じゃあ、教えてあげる。これもただでいい」
「……」
「あの子、わたしに聞いてきたの。柏木先輩は、6月にわたしのことを誰かに話しましたか、って」
わたしは、下駄箱の縁に手を置いた。
「なんて答えたの」
「答えてないよ」
千歳は靴を履き替えた。
「まだ」
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