第十二話 兄
10月1日、火曜日。
昼休みに、職員室の前を通ったら、廊下に男の人が立っていた。
制服ではない。教員でもない。グレーのスウェットの上に、黒いジャンパーを着ていた。
20代前半くらいだった。
わたしが通り過ぎようとすると、その人が言った。
「佐倉澪さん?」
わたしは止まった。
「はい」
「東剛です。悠真の兄」
顔を見ると、たしかに似ていた。目のあたりが同じだった。
似ていることより先に、思い出したことがあった。
9月22日、駅のロータリーの向かいに立っていた人だ。
服が同じだった。
「弟が世話になってます」
「……いえ」
「ちょっといいですか」
わたしは、断る理由を探した。
昼休みは25分残っていた。職員室の前だった。人は通っていた。
断る理由が見つからなかった。
わたしたちは、渡り廊下の端まで歩いた。
「悠真から聞きました。佐倉さんのこと」
「何を、ですか」
「同じ学年で、推薦を取ろうとしてる人だって」
「はい」
「頭いいんですね」
「そんなことないです」
「いや」剛さんは言った。「うちの弟も頭いいんですよ。中学のとき、学年で3番だった」
わたしは、それにどう返せばいいかわからなかった。
「知ってましたか」
「知りませんでした」
「そうでしょうね。あいつ、言わないから」
剛さんは笑った。
笑い方が、悠真と同じだった。
「本題いいですか」
「はい」
「弟に近づかないでもらえますか」
わたしは、意味を取るのに時間がかかった。
「……近づいてないです」
「9月21日、駅前で会ってましたよね」
「あれは、たまたま」
「たまたまでも会ってる」
剛さんの声は、大きくなかった。
怒っている声でもなかった。事実を確認する声だった。
「なんでそれを知ってるんですか」
「あいつのスマホ、俺が見られるようにしてあるので」
「……」
「口座も俺が管理してます。だから、あいつが何にいくら使ったかも見えます」
わたしは、何も言えなかった。
「変だと思いますよね」
「……はい」
「思っていいですよ。俺も変だと思ってます」
剛さんはそう言った。
言ってから、渡り廊下の窓の外を見た。
「うち、母親が出てったの、あいつが小6のときで。それから俺が働いてます。高校は2年でやめました。あいつを高校に行かせるために」
「……」
「6年です」
剛さんは、6年、ともう一度言った。
「6年やってきて、いま、あいつが大学に行くって言ってる」
「はい」
「行かせてやりたいですよ。行かせてやりたいけど、行ったら、あいつは戻ってこない」
わたしは、その言葉の意味がわかった。
わかったが、何も言わないほうがいいと思った。
「佐倉さんも、進学するんですよね」
「……そのつもりです」
「金、あるんですか」
わたしは答えなかった。
「すいません。答えなくていいです」
剛さんは頭を下げた。
「ただ、うちにはないんですよ。俺が6年働いて、それでも足りない」
「……」
「だから、あいつが誰かから金をもらってるなら、それは俺の失敗なんです」
わたしは、そこで一度、息を吸った。
「知ってるんですか」
「何をですか」
「東くんが、お金を」
剛さんは、こちらを見た。
「知りません」
嘘だと思った。
「今のは、俺が答えるべきことじゃない」
そう言い直した。
言い直したことが、答えだった。
「弟に近づかないでください」
剛さんはもう一度言った。
「近づかれると、あいつが余計なことを考えるので」
「余計なことって」
「自分でどうにかしよう、とか」
わたしは、そこで少しだけ腹が立った。
腹が立ったので、こう言った。
「それ、東くんが決めることじゃないですか」
剛さんは黙った。
黙ってから、こう言った。
「俺がいなかったら、あいつは今ここにいない」
「……」
「それだけです」
そう言って、剛さんは渡り廊下を戻っていった。
3歩歩いて、止まって、振り返った。
「あいつ、頭いいんですよ」
そう言って、行った。
その日の放課後、わたしは悠真を探さなかった。
探さなかったのは、剛さんに言われたからではない。
探して何を言うのかを、思いつかなかったからだ。
「お兄さんが来た」と言えば、悠真は困る。困っても、状況は何も変わらない。
わたしは、その計算をして、探さなかった。
計算をしてから探さないのと、怖くて探さないのは、外から見ると同じだ。
わたしはこの半年で、外から見て同じことを、いくつも積んできた。
10月に入って、教室の空気が変わった。
推薦組と一般組が分かれる。推薦組は10月から11月に試験がある。一般組は1月まである。
3年5組の38人のうち、公募や総合型で受ける子が9人いた。その9人が、10月の第1週から順に休み始めた。
指定校推薦の候補は、うちのクラスにはわたしと楓の2人だけだった。
わたしたちは、毎日学校に来ている。
来て、同じ教室で、同じ授業を受けて、昼に一緒に食べている。
10月1日、楓が「化学の課題やった?」と聞いてきた。
「やった」
「見せて」
「いいよ」
わたしはノートを渡した。
楓は5分見て、返してきた。
「ありがと」
そのやりとりを、4月にもやった。あのときは楓のノートをわたしが借りた。
貸す側と借りる側が入れ替わっただけで、動作は同じだった。
わたしたちは、いまだに友達の形をしている。
形だけが残っているものを、何と呼べばいいのかを、わたしは知らない。
10月2日、水曜日。
家に帰ったのは5時20分だった。
家の前の電柱のところに、人が立っていた。
黒いジャンパーだった。
剛さんは、こちらを見ていた。何も言わなかった。
わたしは会釈をして、家に入った。
鍵をかけて、階段を上がって、部屋の窓から見た。
まだ立っていた。
15分見て、まだ立っていた。
わたしはカーテンを閉めた。
10月3日、木曜日。
同じ時間に、同じ場所に立っていた。
わたしは今度は会釈をしなかった。
家に入って、父に言った。
「お父さん」
「うん」
「家の前に人がいる」
父はソファから立ち上がった。
窓のところに行って、カーテンの端から外を見た。
3秒見て、戻ってきた。
「知らん人だ」
「わたしも知らない」
「そうか」
父は座った。
「取引先じゃない」
「うん」
「じゃあ、いい」
父はそう言って、それで終わりにした。
わたしは、自分の部屋に上がった。
上がりながら、5月に父が「お父さんは、大丈夫だから」と言ったときのことを思い出した。
あのころ、父はまだ何かを守ろうとしていた。
10月の父は、窓の外に立っている人間が誰かを、確かめようともしなかった。
守るものが1つずつ減って、いま、父には何も残っていない。
わたしはそのことに、その日はじめて気づいた。
気づいて、部屋に入って、ドアを閉めた。
窓を見た。
まだ立っていた。
10月3日の夜、わたしは剛さんのことを調べた。
調べるといっても、本人が言ったことしか知らない。東剛。高校を2年でやめて、6年働いている。逆算すると、22か23だ。
SNSで名前を検索した。同姓同名が4人出てきた。どれも違った。
わたしは検索をやめて、別のことを考えた。
——なぜ、わたしのところに来たのか。
悠真に近づくなと言いたいだけなら、悠真に言えばいい。実際、剛さんは悠真のスマホも口座も見ている。言えば済む。
それなのに、わざわざ学校まで来て、わたしに言った。
理由は1つしか思いつかない。
悠真に言っても、止まらないからだ。
止まらないから、外側を止めにきた。
そこまで考えて、わたしはもう1つ気づいた。
剛さんは、涼子さんの名前を一度も出さなかった。
弟が金を受け取っていることを、剛さんは知っている。知っていて、金の出どころには触れなかった。触れずに、わたしのところに来た。
触れないほうが都合がいいからだ。
金が入ってくるのは、剛さんにとっても悪いことではない。悠真の借金は、剛さんの借金でもある。
つまり剛さんは、弟が誰かから金をもらうことを止めていない。
止めているのは、弟が誰かと親しくなることだ。
わたしはノートにそう書いて、線を引いた。
線の下に、こう書いた。
『全員、金の話をしている。誰も金の話をしていない』
書いてから、その1行が何を意味するのか、自分でもよくわからなかった。
わからないまま、消さなかった。
10月4日、金曜日。
朝、家を出るときに、電柱のところを見た。
誰もいなかった。
学校に着いて、昇降口で、悠真とすれ違った。
彼は左の頬に絆創膏を貼っていた。
「どうしたの、それ」
「転んだ」
「そう」
「うん」
それだけ言って、悠真は行った。
わたしはその日、そのことを誰にも言わなかった。
言う相手がいなかった、というのが正しい。
楓には言えない。千歳には、言っても興味を持たれない。父は窓の外を確かめもしない。
言う相手がいないと、人は何も見なかったことにする。
わたしは10月4日に、絆創膏を1枚、見なかったことにした。
その1枚のことを、わたしは今も覚えている。
10月7日、月曜日。
昼休み、楓が机に来た。いつもどおりの顔だった。
「澪」
「うん」
「スーパー、いつまで?」
わたしは、箸を止めた。
「……なんの」
「駅前のとこ。レジ」
楓は玉子焼きを箸で持ち上げた。持ち上げたまま、こちらを見なかった。
「先週の土曜、買い物行ったら、いた」
「……そう」
「届出、出してるんだよね?」
わたしは、答えなかった。
答えないことが答えになるのは、9月9日に父を見てわかっている。
楓は、それ以上聞かなかった。
聞かないで、玉子焼きを食べた。
「そっか」
そう言って、自分の席に戻った。
戻ってから、一度もこちらを見なかった。
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