第十一話 悠真の値段
9月17日、火曜日。
その週、わたしは楓の評定のことを調べていた。
調べる方法は1つしかない。楓の1学期の通知表を見ることだ。見せてもらえるわけがない。
だからわたしは、別のことをした。
夏の補習に出た3年生を探した。
数学の補習は5日間で、出席は12人だった。名簿はない。だが、5日連続で学校に来ていれば、部活や自習室で誰かが見ている。
わたしは3日かけて、4人の名前を特定した。
4人のうち1人が、1年のとき同じクラスだった子だった。
「あの補習、確認テストあった?」
「あったよ。最終日」
「難しかった?」
「普通。授業でやったとこそのまま」
「点、よかった?」
「まあまあ。でも、あれで評定変わるとか言われてないよ」
「そうなんだ」
「変わるの?」
「知らない。聞いただけ」
わたしはその会話を、そこで終わりにした。
終わりにして、家で整理した。
12人が同じ補習に出て、同じ確認テストを受けた。そのうち、評定が変わったのは楓だけだ。
そうでなければ、12人分の評定が動く。12人分動けば、学年の順位が変わる。順位が変わったという話は聞いていない。
つまり、楓だけが変わった。
規定にはこう書いてある。『補充指導及び追認考査の結果に基づき、学期評定を修正することができる』
できる、と書いてある。しなければならない、とは書いていない。
できる、というのは、誰かが判断するということだ。
判断したのは誰か。
その日、わたしはそこまでたどり着いて、名前は書かなかった。
書かなかったのは、書くと、確かめに行くことになるからだ。
9月20日、金曜日。
放課後、昇降口で東悠真に呼ばれた。
7月17日の掲示の前で「おめでとう」と言われて以来、一度も話していない。
「佐倉」
「うん」
「ちょっといい?」
わたしたちは、校舎裏の自転車置き場のほうへ歩いた。
「神谷と別れる」
悠真はそう言った。
わたしは、何も言わなかった。
「もう決めた。今週中に言う」
「そう」
「怒らないんだ」
「なんで怒るの」
「いや」
悠真は少し笑った。
笑い方が、4月の昇降口のときと同じだった。
「悪かったと思ってる。5月のこと」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「別にだよ」
わたしはそう言った。
言ってから、これは本当だと気づいた。
5月20日に悠真が離れたことを、わたしはもう何とも思っていない。彼の計算は正しかった。沈む船から降りるのは正しい。わたしは同じ計算を1年以上やってきた人間だ。
思っていないことを、わたしは正確に言った。
正確に言われた悠真は、少し困った顔をした。
「特待、どうなったの」
わたしは聞いた。
「C判定」
「そう」
「11月にもう1回ある。それでB取れないと、無理」
「借りればいいじゃん」
「借りてる」悠真は言った。「兄貴の分もある」
「お兄さん」
「うん」
悠真は自転車のスタンドを蹴った。立てて、また倒した。
「うち、母親いないんだよ」
わたしは何も言わなかった。
「小6のときに出てって、それから兄貴が働いてる。俺が高校行けたの、兄貴のおかげ」
「……」
「だから、俺が大学行くなら、金は俺が何とかしなきゃいけない」
彼はそう言った。
言い方に、悲しさはなかった。
計算の話をするときの声だった。
9月21日、土曜日。
わたしはバイトに入っていた。9時から3時までのシフトだ。
3時に上がって、私服に着替えて、店を出た。
駅前のロータリーのベンチに、悠真がいた。
隣に、女の人が座っていた。
紺のジャケットではなかった。ベージュのカーディガンだった。それでも、すぐにわかった。
神谷涼子。
わたしは20メートルくらい離れたところで止まった。
2人は3分くらい話していた。
それから、涼子が鞄から白い封筒を出した。
悠真は、受け取る前に、一度、手を止めた。
止めたのは、たぶん1秒くらいだ。
1秒止まって、それから受け取った。
封筒を内ポケットに入れた。入れるときに、厚みを指で確かめる動きをした。
わたしは、その動きを見ていた。
わたしはロータリーを回って、2人の前に出た。
隠れる必要がなかった。隠れる理由が思いつかなかった。
悠真が先にこちらを見た。
顔色が変わらなかった。
「佐倉」
「うん」
涼子が立ち上がった。
「こんにちは」
「こんにちは」
わたしは頭を下げた。下げてから、なぜ下げたのかわからなかった。
涼子は何も言わずに、駅のほうへ歩いていった。
止められなかった。
止める言葉を、わたしは持っていなかった。
「いつから」
わたしは聞いた。
「6月から」
「6月」
「神谷と付き合い始めて、すぐ」
悠真は自販機のほうを見ていた。
「向こうから来たんだよ。娘と付き合ってる子ですよね、って」
「……」
「最初は食事だった。そのうち、金の話になった」
「なんの金なの」
「わからない」
「わからないって」
「ほんとにわからない」悠真は言った。「用途は言われてない。渡されるだけ」
「受け取るなよ」
言ってしまってから、わたしは自分の声が大きかったことに気づいた。
悠真はこちらを見た。
「佐倉さ」
「うん」
「6月に、1年の子1人、転校させただろ」
わたしは、息が止まった。
「……なんで」
「バドミントン部に友達いるんだよ。ずっと犯人探ししてたから、そのうち3年の誰かって話になって」
「……」
「俺は誰にも言ってない」
悠真はそう言った。
「言ってないけど、知ってる」
「なんで、そんなに金がいるの」
わたしは聞いた。声はもう大きくなかった。
「兄貴の借金」
「お兄さんの」
「うん」
悠真は自転車置き場のほうを見た。
「俺の口座、兄貴が管理してる。バイト代も、奨学金も、全部そこに入る」
「なんで」
「俺が管理できないからって」
「できるでしょ」
「できる」悠真は言った。「でも、そう言うと兄貴が壊れる」
わたしはそこで、何も言えなくなった。
「神谷の母さんからもらう分は、兄貴が知らない口座に入れてる。それだけが、俺が自由に使える金なんだよ」
「……いくら」
「4か月で32万」
わたしは、その数字を頭の中で置いた。
わたしのバイトは、8月の1か月で128,520円だった。21日、レジに立った。
悠真は、封筒を受け取るだけで、4か月に320,000円もらっている。
「それ、なんのお金かもわからないのに」
「わからないから、もらえるんだよ」
悠真は言った。
「用途を聞いたら、断らなきゃいけなくなるだろ」
わたしは、そのとき、はじめて彼が何を言っているのかがわかった。
わたしは4月から、ずっと同じことをしている。
母がどこにいるのかを聞かない。父が何を隠しているのかを聞かない。楓の母がなぜ家に来たのかを聞かない。
聞かなければ、知らないでいられる。
知らなければ、断らなくていい。
わたしと悠真は、同じ構造の中にいる。
違うのは、彼が受け取っているのが現金で、わたしが受け取っているのは推薦の枠だということだけだ。
「東くん」
「うん」
「わたしたち、似てるね」
悠真は少しのあいだ黙った。
「それ、慰めてる?」
「慰めてない」
「だろうな」
彼は笑わなかった。
「金がないと、好きって言う資格もないんだよ」
悠真はそう言った。
「5月に佐倉から離れたのも、それ。俺が佐倉のこと嫌いになったわけじゃない。金がない人間が2人いると、どっちも助からないってだけ」
「わかってる」
「わかってるって言うなよ」
「わかってるから」
わたしはそう言った。
悠真は自転車の鍵を外した。
「神谷とは別れる。それは本当」
「うん」
「別れても、金はもらう」
「うん」
「そういうやつなんだよ、俺は」
彼は自転車に乗った。
乗ってから、こちらを向いた。
「柏木千歳って、神谷と仲いいの知ってた?」
わたしは、答えられなかった。
「9月入ってから、2人でいるとこ何回か見た」
「……いつ」
「先週と、今週」
悠真は、それだけ言って、行った。
わたしはロータリーのベンチに座った。
座って、10分くらい動かなかった。
わたしはその夜、9月に入ってからのことを紙に書き出した。
9月2日。最終決定が12月だと知る。
9月5日。楓の評定が4.6に並んだと知る。同点なら出欠と素行で決まると知る。
9月9日。神谷涼子が家に来る。父が居留守を使う。
9月12日。校門で、その人が楓の母だと知る。
9月17日。楓だけが評定を修正されたと知る。
9月21日。悠真が涼子から金を受け取っているのを見る。
6つ書いて、わたしは線を引いた。
線の上に、こう書いた。
『全部、9月に起きたことではない』
神谷涼子が佐倉建材を辞めたのは3年前だ。楓が撮ったのは4月だ。悠真が金を受け取り始めたのは6月だ。
わたしが知ったのが9月なだけで、動いていたのはずっと前からだった。
わたしは4月から9月まで、自分が反応する側にしか立っていない。
外されて、証明して、売って、取り返して、また外されそうになっている。
全部、誰かが動かしたあとで動いている。
わたしはそこで、はじめて考えた。
——こちらから動くには、何が要るのか。
情報が要る。
情報を持っているのは、1人しかいない。
わたしは千歳の名前を、紙の右下に書いた。
書いてから、9月5日の夜に千歳が送ってきた5文字を思い出した。
『今のあなた、見てて面白くない』
面白くないと言われたなら、面白くすればいい。
そう考えた自分に、わたしはもう驚かなかった。
9月22日、日曜日。
バイトの帰り、駅の改札を出たところで、視線に気づいた。
ロータリーの向かいに、男の人が立っていた。グレーのスウェットの上に、黒いジャンパーを着ていた。20代前半くらいだった。
目が合った。
その人は、そらさなかった。
わたしは歩き出した。10メートル歩いて、振り返った。
まだ、こちらを見ていた。
立っていたのは、昨日わたしが座っていたベンチの、真正面だった。
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