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親友に嵌められて推薦枠を失った日から、わたしは同じことをする側になりました  作者: 桜野結
第2章

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第十話 楓の母

9月9日、月曜日。


家に帰ったのは4時50分だった。玄関の前に、女の人が立っていた。


40代半ばくらいだった。紺のジャケットを着ていた。手にA4の封筒を持っていた。


「佐倉さんのお宅ですよね」


「はい」


「お父さん、いらっしゃいますか」


わたしは玄関を開けた。


父の靴があった。


「います」


「呼んでいただけますか」


わたしは中に入って、居間に行った。


父はソファに座っていた。テレビはついていなかった。


「お父さん、お客さん」


父は顔を上げなかった。


「誰だ」


「女の人。名前は聞いてない」


父は5秒くらい黙った。


「いないって言え」


「いるじゃん」


「いないって言え」


わたしは玄関に戻った。


「すみません、いないみたいです」


女の人は、少しのあいだわたしを見ていた。


「そうですか」


嘘だとわかっている顔だった。


わかっていて、それ以上言わなかった。


「あなた、娘さん?」


「はい」


「高校生?」


「3年です」


女の人はうなずいた。


「わたし、佐倉建材で経理をやってました」


わたしは、何と答えていいかわからなかった。


「3年前に辞めました。辞めさせられた、が正しいですけど」


「……」


「今日は、うかがいたいことがあって来ました」


「父に、ですか」


「そうです」


女の人は封筒を持ち直した。


「5月に会社が止まったでしょう。そのときの処理のことです」


「わたしは何も知りません」


「知らないでしょうね」


言い方に、棘はなかった。


事実として言っていた。


「知らないほうがいいと思います」


そう言って、女の人は帰りかけた。


3歩歩いて、止まった。


戻ってきて、こう言った。


「1つだけ言っておきます」


「はい」


「あなたのお父さんが、わたしの人生を壊したの」


わたしはその言葉を、玄関に立ったまま受け取った。


「わたし、横領したことになりかけたんです。3年前に。数字を合わせろって言われて、断ったら、辞めろって言われて」


「……」


「証拠はありません。全部、口で言われたことなので」


女の人は封筒を鞄に入れた。


「ごめんなさい。娘さんに言うことじゃなかった」


そう言って、今度は本当に帰った。


わたしは玄関を閉めて、鍵をかけた。


居間に戻ると、父はまだソファにいた。


「誰だった」


「経理の人だって」


父は動かなかった。


「3年前に辞めさせられたって言ってた」


「そうか」


「本当なの」


「知らん」


わたしは父の顔を見た。


父はテレビの画面を見ていた。テレビはついていない。


黒い画面を見ていた。


「お父さん」


「うん」


「知らないって、何を知らないの」


父は答えなかった。


答えなかったが、目が一度、右に動いた。


わたしは、その動きを覚えている。


3月に「お父さんは、大丈夫だから」と言ったとき、父の目は動かなかった。5月に「そういうことを、お前が言うな」と言ったときも動かなかった。


9月9日に、はじめて動いた。


その夜、わたしは佐倉建材のことを調べた。


法人番号で検索すると、登記の情報が出てくる。無料で見られる範囲は限られている。


出てきたのは、役員の変更の履歴だった。


取締役 佐倉誠


取締役 佐倉綾


2人だけだった。20年、2人だけだった。


経理の人の名前は、当然だが載っていない。経理は役員ではない。


わたしは検索の画面を閉じた。


閉じてから、母のことを考えた。


母は20年間、取締役だった。取締役なら、経理が辞めさせられたことを知っているはずだ。


知っていて、判を押していた。


読まずに、上から順に。


わたしはその夜、母に電話をかけた。


7月13日以来だった。


3回コールして、切れた。


もう一度かけた。今度は5回鳴って、出た。


「もしもし」


母の声だった。


「わたし」


「うん」


わたしは、何から聞けばいいかわからなかった。


「今日、うちに人が来た」


「そう」


「経理の人だって。3年前に辞めたって」


母は、何も言わなかった。


「お母さん、知ってる?」


「知らない」


早かった。


質問より、答えのほうが早かった。


「まだ何も言ってないよ」


「……」


「名前も言ってない」


母は黙った。


黙っている時間が、12秒あった。数えていた。


「澪」


「うん」


「お父さんに聞きなさい」


「聞いた。知らないって言ってた」


「そう」


「お母さんも知らないの」


「知らない」


わたしは、そこで聞くのをやめた。


やめたのは、母が嘘をついているとわかったからではない。


母が、嘘をつくことに慣れていないとわかったからだ。


慣れていない人が嘘をつくときは、早く答える。考える時間を見せると、考えたことがわかってしまうからだ。


母は20年、判を押してきた。


判を押すのには慣れていた。嘘には慣れていなかった。


「元気でやってる?」


母がそう聞いた。


「うん」


「ならいいの」


電話が切れた。


通話時間は、2分44秒だった。


9月10日から12日まで、わたしは学校で普通にしていた。


楓とは毎日話した。昼も一緒に食べた。楓は数学の問題集の進み方を報告してきた。


わたしは1回も、評定の話をしなかった。


楓も1回も、評定の話をしなかった。


わたしたちはその週、40分から50分、毎日話して、一度も本題に触れなかった。


そういうことが、人間には可能だった。


可能だと知ったのは、5月27日からだ。あの日、空き教室で全部言い合って、翌日から普通に弁当を食べた。


あれ以来、わたしと楓は、何を知っていても続けられるようになった。


続けられることは、よくないことだと思う。


止まらないから、最後まで行く。


9月12日、木曜日。


放課後、わたしは楓と一緒に昇降口を出た。


「今日、駅まで一緒に行っていい?」


「うん」


校門を出たところで、楓が止まった。


わたしも止まった。


門の外に、人が立っていた。


紺のジャケットの女の人だった。


「楓」


女の人が言った。


楓が「なんで来たの」と言った。


声が、聞いたことのない声だった。


「話があるって言ったでしょ」


「学校には来ないでって言ったよね」


「あなたが帰ってこないからでしょう」


わたしは、2人のあいだに立っていた。


女の人がこちらを見た。


「あら」


そう言った。


それだけだった。それだけで、全部わかった。


楓がわたしの腕をつかんで、引いた。


「行こ」


「……楓」


「行こうって」


わたしは引かれるまま、5歩歩いた。


5歩歩いて、振り返った。


女の人は、まだ門のところに立っていた。こちらを見ていた。


見ていたのは、楓ではなかった。


わたしだった。


9月13日、金曜日。


昼休みに、楓が机に来た。


いつもどおりの顔だった。


「昨日、ごめんね」


「うん」


「うちの母」


「そうかなと思った」


「うん」


楓はそれだけ言って、弁当を開けた。


わたしは、何を聞くべきかを考えた。


——なんで、あなたのお母さんが、うちに来たの。


その1文を、わたしは口に出さなかった。


出さなかったのは、出したら楓が説明するからだ。説明されると、こちらが「教えてもらう側」になる。


わたしはもう、教えてもらう側に立ちたくなかった。


自分で調べるほうがいい。


そう決めたことを、ここに書いておく。


5月のわたしは、聞かなかった。答えを聞くのが怖かったからだ。


9月のわたしは、聞かなかった。相手に主導権を渡したくなかったからだ。


同じ「聞かない」でも、中身が変わっていた。


「澪」


「うん」


「うちの母のこと、誰にも言わないでね」


「言わないよ」


「ありがと」


楓は玉子焼きを食べた。


わたしも、自分の弁当を食べた。冷凍のものが3つ入っていた。自分で詰めたやつだ。


楓は、一度も聞かなかった。


うちの母がなんであなたの家に行ったの、とは聞かなかった。何を言われたの、とも聞かなかった。


聞かないということは、知っているということだ。


わたしは弁当の蓋を閉めた。


その日は、そこまでにした。


9月14日、土曜日。


わたしは自習室に行かなかった。


家で、3年前のことを調べた。


調べる、といっても、高校生にできることは限られている。会社の登記は取れる。ハローワークの求人履歴は見られない。裁判の記録は、当事者でなければ簡単には出てこない。


わたしがやったのは、記憶をたどることだった。


3年前。わたしは中学3年だった。受験の年だ。


その年の何月かはわからないが、うちの家で1度だけ、大人が言い争っている声を聞いた記憶がある。夜だった。声は2つで、両方とも男の声だったと思う。


思うだけで、確かではない。


わたしはその記憶を、10分かけて掘り返して、10分でやめた。


やめて、別のことを考えた。


——楓の母親は、うちの父の会社の経理だった。


これは事実だ。今日、本人が言った。


だとすると、楓は、うちの父の会社のことを、ずっと前から知っていたことになる。


会社が傾いていることも。3年前に人が1人辞めさせられたことも。


5月11日に千歳が「佐倉建材、止まったんだね」と言ったとき、わたしは驚いた。


驚いた相手を、間違えていた。


千歳は父から聞いた。取引先だから当然だ。


楓は、母親から聞いていた。


——ずっと。


わたしはノートに、時系列を書いた。


3年前、神谷涼子が佐倉建材を辞める。


そのころ、楓とわたしは中学3年で、同じクラスだった。毎日話していた。


そして中学の卒業式で、わたしは楓に「楓のおかげだよ」と言った。


楓は「あれが一番きつかった」と言った。


わたしはそのとき、家の話が絡んでいるとは思っていなかった。


いまも、絡んでいるかどうかはわからない。


わからないが、順番としては、母親が辞めさせられたあとに、卒業式が来ている。


ノートにそこまで書いて、わたしはペンを置いた。


置いてから、自分がやっていることに気づいた。


わたしは、楓が自分を憎む理由を探している。


理由が見つかれば、楓は「理由のある人」になる。理由のある人になれば、わたしは「理由もなく憎まれた人」ではなくなる。


なぜそれを探しているのか。


探せば、まだ友達に戻れる可能性が残るからだ。


わたしはノートを閉じて、その日は何もしなかった。


9月16日、月曜日。


放課後、千歳がわたしの机の横で止まった。


「9月9日の夕方、あなたの家の前に、女の人がいたでしょ」


わたしは顔を上げた。


「……なんで知ってるの」


「見たから」


「なんで、柏木さんが」


「通ったの」千歳は言った。「通り道じゃないけど」


「見に来たの」


「うん」


千歳は否定しなかった。否定しないところは、6月から変わっていない。


「1週間、黙ってたんだね」


「聞かれなかったから」


千歳は鞄を持ち上げた。


「1つ、ただであげる」


「……なに」


「あの人、9月9日が初めてじゃないよ」


わたしは、立ち上がりかけた。


「7月にも来てた」千歳は言った。「あなたの名前が掲示に出た、次の日」

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