第十四話 千歳の値段
11月11日、月曜日。
11月に入って、教室の人数が減った。
推薦や総合型で決まった子から、来なくなる。決まっていない子は来る。11月の3年5組は、日によって20人を切った。
わたしと楓は、毎日来ていた。
12月の選考委員会まで、あと3週間だった。
10月の終わりから11月の初めにかけて、わたしは3つのことをした。
1つ。室生先生の週の動きを記録した。放課後に職員室にいる日と、いない日を分けた。火曜と木曜は、5時前に出ていくことが多かった。
2つ。学校の内規をもう一度、最初から最後まで読んだ。図書室に置いてある。誰でも読める。読んでいる生徒を、わたしは3年間で1人も見たことがない。
3つ。都築のことを、10月24日以降、一度も見に行かなかった。
3つ目は、やったことではない。やらなかったことだ。
だが、記録に残しておく。
わたしは10月24日に、都築と千歳が話しているのを見た。見て、まずいと思った。
まずいと思ったのに、都築に確かめに行かなかった。
行けば、都築に「何を話したの」と聞くことになる。聞けば、こちらが怯えていることが伝わる。
わたしは3週間、1年生の教室のある棟を通らなかった。
通らないことで、何かを避けたつもりでいた。
避けていたのは、都築ではない。
あの子に答えを渡さなかった自分だ。
その日の昼休み、わたしは柏木千歳の席に行った。
自分から行くのは、6月以来だった。
千歳は英語の単語帳を見ていた。
「柏木さん」
「うん」
「話がある」
千歳は顔を上げた。
「珍しいね」
「うん」
「立ち話?」
「どこでもいい」
千歳は単語帳を閉じた。
「じゃあ、生物室の前」
6月と同じ場所だった。
場所を指定したのは千歳で、6月と同じ場所を選んだのも千歳だった。
「何が欲しいの」
千歳が先に言った。
6月に、わたしが言った台詞だった。
「神谷さんの評定のこと」
「うん」
「夏の補習で修正されたのは、神谷さんだけ。12人受けて、1人だけ」
「そうだね」
「知ってたんだ」
「知ってた」
千歳は壁にもたれた。
「で?」
「誰が決めたのか知りたい」
「規定上は、教科担任が上げて、進路指導部が認める」
「じゃあ室生先生」
「そう」
「なんで室生先生が」
千歳は少し黙った。
黙ったのは、考えていたからではないと思う。値段を決めていたのだと思う。
「1つ渡す。そのかわり、1つ聞かせて」
「なに」
「あなた、今どんな気分?」
わたしは、質問の意味がわからなかった。
「12月まで3週間で、たぶん負けそうで、どんな気分?」
「……最悪だよ」
「そう」
千歳は少し笑った。
「じゃあ渡す」
「室生先生、神谷さんのお母さんと会ってるよ」
わたしは、その1文を聞いて、動かなかった。
「9月に2回、10月に1回。駅前の喫茶店」
「なんで知ってるの」
「わたしの母、あそこでパート。週3」
千歳はそう言った。
「言っとくけど、母は何も知らない。誰と誰が会ってたか、家で喋っただけ。教師の顔は覚えるでしょ、生徒の親だから」
わたしは、その情報を頭の中で置いた。
9月に2回、10月に1回。
楓の評定が修正されたのは、8月の補習のあとだ。9月2日の時点で、もう修正されている。
つまり、9月の2回は、修正のあとの話だ。
「修正されたのは8月なのに、なんで9月以降も会ってるの」
「それは知らない」
「……」
「1つって言ったでしょ」
千歳はそう言った。
わたしはそこで、帰るべきだった。
帰らなかった。
「柏木さん」
「うん」
「もう1つ聞かせて」
「値段がつくよ」
「いい」
わたしは言った。
「4月の動画の元データ。誰から手に入れたの」
千歳は、はじめて表情を変えた。
変えた、というより、消えた。
「それ、聞くんだ」
「聞く」
「6月に、聞いてもいい質問は1つだけって言ったのに」
「6月は6月だから」
千歳は少しのあいだ、こちらを見ていた。
見ていた時間が、長かった。
「神谷さんだよ」
わたしは、意味を取るのに時間がかかった。
「……楓が、渡したの」
「うん」
「なんで」
「5月の終わりに、教室で渡された」
千歳は言った。
「わたし、あの日、教室で英語やってたの。神谷さんが来て、USBを置いて、こう言った」
千歳は、そこで一度、言葉を止めた。
止めてから、続けた。
「『澪に渡して。ただであげないで』」
わたしは、壁に手をついた。
ついたことを、あとで思い出した。
「それだけ?」
「それだけ」
「何も聞かなかったの」
「聞いたよ。なんでわたしなの、って」
「なんて言った」
「『柏木さんなら、ちゃんと高く売ってくれるから』」
わたしは、生物室の前の廊下に立っていた。
窓から入る光が、床に四角く落ちていた。
5月27日、空き教室で、楓はこう言った。
——先生に言えばいいよ。わたしが撮ったって言えば、澪は戻れるでしょ。
わたしは断った。
「言っても、わたしの評定は上がらないから」と言った。
あのとき、わたしは自分が賢い選択をしたと思っていた。
楓を潰しても得がない。だから使わない。合理的だ、と。
楓は、その返事を聞いていた。
聞いて、わたしが自分の手を汚さずに戻る気がないことを知った。
だから、千歳に渡した。
ただであげないで、と言い添えて。
——値段をつけて渡せば、澪は払う。
払わせるために渡した。
7月17日、掲示の前で楓は笑った。悔しそうではなかった。強がってもいなかった。
理由が、そこにあった。
楓は7月に負けていない。
楓は6月に勝っていた。
わたしが1年生の名前を選んだ瞬間に、勝っていた。
「大丈夫?」
千歳が言った。
わたしは顔を上げた。
「なんで、今まで言わなかったの」
「聞かれてないから」
「そうじゃなくて」
「そうだよ」千歳は言った。「わたし、聞かれたことしか答えない。それだけは、ずっとそう」
たしかに、そうだった。
5月11日も、9月2日の夜も、千歳は聞かれたことしか答えていない。
わたしは6月に、聞くべき質問を1つ間違えた。
「何が欲しいの」ではなく、「どこで手に入れたの」を聞くべきだった。
あのとき千歳は「聞いてもいい質問は1つだけにして」と言った。
1つに絞れと言われて、わたしは自分にとって都合のいいほうを選んだ。
千歳はわたしに、6月の時点で選ばせていた。
「値段」
わたしは言った。
「何を払えばいいの」
「いらない」
「え」
「今のあなたの顔で、もう受け取った」
千歳はそう言った。
言い方に、勝ち誇ったところはなかった。
支払いを確認した人の言い方だった。
「柏木さん」
「うん」
「なんでそんなことするの」
千歳は、少し考えた。
考える顔をしたのは、6月に「暇なの」と言ったとき以来だった。
「わたし、欲しいものがないの」
「……」
「1回もないの。ほしいと思ったことが」
千歳は窓のほうを見た。
「あなた、ずっと何か欲しがってるでしょ。3月からずっと」
「うん」
「見てて、飽きないの」
それだけ言って、千歳は行った。
わたしは廊下に残って、床に落ちている四角い光を見ていた。
家に帰って、わたしは自分の部屋で、6月からのことを並べ直した。
5月27日。楓が「先生に言えばいい」と言う。わたしが断る。
その週のうちに、楓が千歳にUSBを渡す。
6月3日。千歳がわたしに接触する。3人の名前を出す。
6月10日。わたしが都築を売る。
6月20日。千歳が元データをわたしに渡す。
7月1日。わたしが疑いを晴らす。
7月17日。候補指名。楓が笑う。
並べると、1本の線になった。
線の始まりは、5月27日のわたしの返事だ。
「言っても、わたしの評定は上がらないから」
あの1文が、全部の起点だった。
わたしはあの日、自分が損得で動く人間だと、楓に見せた。
見せた相手が、いちばん見せてはいけない相手だった。
——楓が欲しかったのは、わたしが自分と同じ場所まで降りてくることだ。
5月27日に、わたしは降りられることを証明した。
あとは、降りる階段を1つ用意すればよかった。
千歳が階段だった。
わたしは自分で降りた。誰にも押されていない。
そこまで書いて、わたしはノートを閉じた。
閉じて、10分くらい何もしなかった。
10分たってから、もう一度開いて、1行足した。
『それでも、わたしは楓に勝ちたい』
書いた字が、7月17日に書いた「もう誰も信じない」より、大きかった。
11月12日、火曜日。
わたしは1日、楓と普通に話した。
昼も一緒に食べた。楓は模試の話をした。わたしは化学の課題の話をした。
一度も、動画の話をしなかった。
しなかったのは、怖かったからではない。
言えば、楓が答えるからだ。
楓は答える。5月27日に全部答えた人だ。今度も答える。
答えられたら、そこで終わる。
わたしは、まだ終わらせたくなかった。
12月の選考委員会まで、あと3週間ある。
3週間のうちに、こちらから動く必要がある。
そのためには、楓に警戒されてはいけない。
わたしはその日、笑って弁当を食べた。
笑うのは得意なほうだ。3月から、ずっとそうだった。
お読みいただき、ありがとうございました!
ブックマークや下の☆☆☆☆☆の評価にて応援していただけますと励みになります!
この作品が面白いと思ったら
『( ゜∀゜)o彡°』
とだけコメントください




