「今年はあなただけに作りました」前編
白石が風邪から復帰した週末。
昼過ぎのオフィスは少しだけ静かで、ようやく一息つける空気が流れていた。
コピー機から戻ってきた森が、白石のデスクの横で立ち止まる。
「白石さん、今週ほんと大変でしたね」
穏やかな声だった。
白石はキーボードから手を離して、小さく笑う。
「うん…みんなに迷惑かけちゃったね。
たくさんフォローしてくれて、ありがとう」
軽く頭を下げる。
森は少しだけ口元をゆるめ、
「相変わらず律儀だなあ」というように肩をすくめた。
「いやいや、迷惑とかじゃないっすよ。
でも来月やばいっすね」
「うん?」
「3月末決算。
営業も事務も、地獄」
ああ、と白石が小さく息を吐く。
「まぁその前に一個楽しみなイベントありますけどね」
森がキラキラとする。
白石は首をかしげる。
「イベント?」
「バレンタインっす」
その言葉に、
白石の指先がほんの少し止まった。
「…ああ」
森は楽しそうに続ける。
「毎年白石さんが手作りでくれるやつ、
めちゃうまいじゃないですか。
今年何ですか?」
「え?」
「去年のチョコの挟まったクッキーとか、
一昨年のブラウニー?とか。
俺、密かに楽しみにしてるんすよね」
白石は一瞬だけ言葉に詰まり、
それからいつもの柔らかい笑顔を作る。
「今年はどうしようかな」
「絶対なんか作りますよね?」
「どうかな」
ふふ、と曖昧に笑う。
その会話を、
三つ隣の席で新田が聞いていた。
視線はモニターに落としたまま。
だが、指は止まっている。
森は白石が席を外したタイミングで、
椅子をくるりと回し、新田の方へ身を乗り出した。
「新田さんは何だと思います?」
「…なに」
新田は少し眉間にしわを寄せる。
森は構わず続ける。
「バレンタインっすよ!
毎年白石さんがくれるお菓子、
めちゃうまいんすよね。
今年なんだろ」
その瞬間。
新田の動きが止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……毎年?」
「え?」
「みんな、もらってるの?」
森はきょとんとする。
「え、そうっすよ?
部署の営業も事務も全員」
新田の頭が一瞬真っ白になる。
森は軽く笑って言った。
「新田さんも去年食べたじゃないですか。
あれ白石さんのっすよ」
「……」
沈黙。
「……俺、もらったことない」
森の笑顔が固まる。
「え?」
「一度も」
静かだった。
本当に静かに言った。
森は数秒固まり、
それから、え、え、え、と小さく声を漏らす。
「いやいやいや、そんなはず…」
新田は視線を落とす。
「……」
胸の奥に、
うまく名前のつかない感情が沈む。
別に、欲しかったわけじゃない。
そういうイベントに期待するタイプでもない。
でも。
――白石さんから自分に対してだけ、ない。
期待していなかった、はずだった。
それが思ったより、
じわっと刺さった。
きっと他の女性からだったら気にも留めない。
森は慌ててフォローしようとする。
「いや今年!今年ありますよ!
絶対!なかったら俺作りますから!」
「何言ってんだよ」
必死でカバーしようする後輩に新田はふっと笑う。
そのとき。
遠くから白石が戻ってくるのが見えた。
森は口を閉じる。
新田も何事もなかったように画面へ視線を戻す。
白石は気づかないまま、
自分の席に座った。




