「今年はあなただけに作りました」中編
土曜の午前。
新田は一人暮らしのマンションで、スマートフォンを手にしたまま、しばらく画面を見つめていた。
先日、橘真由の電話で話した内容を頭の中で反芻させる。
『また連絡しても良いですか?』
返ってきた言葉は
『はい…ありがとうございます。』
白石の連絡先は知っている。
初めて二人で食事をしたときに交換したのだ。
だから不自然ではない。
不自然ではないはずなのに——
親指が、発信ボタンの上で止まる。
昨日の森の言葉も脳裏に繰り返される。
ーー『毎年白石さんがくれるお菓子、めちゃうまいんすよね。』
「…結構ショックなんだよな…」
断られたらどうする。
体調が悪いところに迷惑だったら。
そもそも、いま電話していいのか。
小さく息を吐く。
——いや。
一度くらい、いいだろう。
通話ボタンを押す。
数コールのあと、
「はい、白石です」
少しだけ掠れた、でも落ち着いた声が耳に届いた。
「もしもし、新田です。」
「…新田さん…こんにちは!」
ほんの少しだけ、声が明るくなる。
それだけで胸が緩む。
「土曜にすみません。
体調どうですか」
短く、できるだけ自然に。
電話の向こうで、白石が小さく息をつく気配がした。
「だいぶ良くなりました。
月曜日には本調子に戻れそうです!」
「それならよかった。」
それだけで、
肩の力が少し抜ける。
数秒、沈黙。
本題を言うべきだとわかっているのに、
言葉が出てこない。
新田は視線を落とし、
テーブルの木目を見つめた。
「…あの」
「はい」
「元気になったら、
また今度…」
言いかけて、
一瞬だけ迷う。
だがそのまま続けた。
「食事でもどうですか」
静かな提案だった。
押しつけるでもなく、
ただ選択肢として差し出すような声。
電話の向こうで、白石が少しだけ黙る。
断られるかもしれない。
そう思った次の瞬間。
「……来週の土曜日」
小さな声。
「空いてますか?」
新田は一瞬理解できず、
「え?」と聞き返しそうになって、飲み込んだ。
カレンダーに目をやる。
来週の土曜日。
2月14日。
表示された日付を見て、
指が止まる。
——バレンタイン。
ほんの一瞬だけ、思考が空白になる。
「……空いてます」
そう答えると、
白石が電話の向こうで少しだけ息を吐いた気配がした。
「よかった」
その一言が、
思っていたよりやわらかく耳に残る。
「じゃあ…来週の土曜日。
お昼でも、夜でも」
「白石さんの都合に合わせます」
「じゃあ…夕方。
場所、どのあたりがいいですか?」
とんとん拍子に場所がきまり、通話が切れる。
スマートフォンの画面が暗くなるまで、
新田はしばらく動かなかった。
——バレンタイン。
偶然か。
それとも。
小さく首を振る。
考えすぎだ。
だが胸の奥が、
わずかに落ち着かない。
白石は電話を切ったあと、
静かにソファへ腰を下ろした。
テーブルの上には、
何冊かのレシピ本と、メモ帳。
開きかけのページには、
チョコレート菓子の写真。
小さなころから、
お菓子を作るのが好きだった。
家で一人で作って、
家族に食べてもらうのが嬉しくて。
社会人になってからは、
バレンタインに部署のみんなへ
心ばかりの手作り菓子を配るようになった。
大げさなものじゃない。
ただの気持ち。
入社三年目の春。
新田が中途で入ってきた。
中途採用は珍しくない。
けれど彼は、すぐに目に留まった。
仕事が速い。
判断が柔軟。
客先にも自然に好かれる。
それでいて、
事務を雑に扱わない。
忙しいときほど、
「助かりました」と必ず言う。
誰に対しても。
人を大切にする人だと、
すぐにわかった。
——去年は出張で渡せなかった。
——一昨年は直帰で、タイミングが合わなかった。
ただ、それだけ。
それだけなのに。
小さく息を吐く。
テーブルの上のメモ帳を引き寄せ、
ペンを持つ。
今年は。
心の中で静かに言葉を置く。
——今年は、彼だけに渡そう。
そう決めたのは、初めてだった。
白石はゆっくりとレシピを書き始めた。




