「もっと自分を大切にしてほしい」後編
火曜の夕方。
定時を少し過ぎた頃、橘真由はパソコンを閉じ、小さく息をついた。
今日は珍しく、少しだけ仕事が長引いた。
更衣室でコートを羽織り、バッグを肩にかけフロアを出る。
エレベーター前でスマートフォンを取り出した。
発信履歴の一番上。
白石綾子。
コール音が二回鳴って、繋がる。
「…もしもし」
少しかすれた声。けれど昨日よりはずっとしっかりしている。
「綾子?わたし、真由。大丈夫?」
「真由…ごめん、昨日連絡できなくて」
「いいって。体調どう?」
エレベーターホールは退勤の人が行き交っている。真由は少し端に寄った。
「熱は下がった。まだちょっとだるいけど…明日は行けそう」
「そっか。よかった」
心から安堵した声が出た、その時。
背後から聞き慣れた低い声。
「橘さん、お疲れ様です」
振り向くと、新田が立っていた。外回りから戻ったばかりなのか、コート姿のまま。
「あ、新田さん。お疲れさまです」
軽く会釈。
その瞬間、真由は察した。
——あ、これ。
数秒だけ考える。
そしてすぐに決めた。
スマホを耳に当てたまま、自然な声で言う。
「綾子、ちょっと待ってね。もう一人の同期に代わる」
新田の方を見て、スマホを差し出した。
「はい」
小声で。
目が少しだけ笑っている。
新田は一瞬だけ戸惑った。
橘さんの同期は白石さんと経理の金田さんだけ。
だが、すぐ受け取った。
「…もしもし」
電話口の向こうで、小さな沈黙。
『…え?』
白石の声が、はっきりと驚いた。
『え…遥…じゃない?あの…もう一人の同期って…?』
思わず新田は小さく笑う。
「違います。…新田です」
また沈黙。
『……え』
想像できる反応だった。
「突然すみません。橘さんから…」
少しだけ言葉を探す。
「体調どうですか」
電話越しに、わずかな息遣いが伝わる。
『…昨日よりは、だいぶ』
「それならよかった」
短く。
でも確かに安堵が混じる。
新田はエレベーターホールのガラスに映る自分をぼんやり見た。
言いたいことが、いくつかある。
——今度元気になったら。
——また会いたい。
——ちゃんと話したい。
喉元まで来て、止まる。
橘真由が、すぐ横にいる。
ほんの一瞬の逡巡。
「…あの」
声が少し低くなる。
「また連絡してもいいですか」
言ってから、自分で少し驚いた。
こんな言い方になるとは思っていなかった。
電話の向こうで、息が止まる気配。
『…はい』
小さく。でもはっきり。
『ありがとうございます』
その声が、少しだけ柔らかくなった気がした。
新田はほっと息を吐く。
「無理しないでください。ちゃんと治してからで」
『…はい』
「じゃあ」
少し名残を感じながら、言葉を切る。
「お大事に」
通話を終え、スマホを真由に返した。
真由は何も言わず受け取る。
ただ一度だけ、新田の顔を見る。
「…同期、って便利ですね」
さらっと言う。
新田は少し苦笑した。
「俺は中途ですけど」
「年齢一緒なら同期みたいなもんですよ」
軽く言って、スマホをバッグにしまう。
エレベーターが到着し、扉が開いた。
二人で乗り込む。
下降する箱の中で、真由はふと笑った。
——あー、なるほどね。
声には出さない。
ただ静かに思った。
上手くいくといいな、と思いながら。




