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「もっと自分を大切にしてほしい」前編

2月に入り、ますます冷え込む月曜の朝。

いつもより少しだけ早く、白石綾子はオフィスに入った。


暖房の効いたフロアは静かで、まだ人もまばらだ。

更衣室でコートを脱ぎ、デスクへ向かう。その動作だけで、ほんの少し息が上がる。


——大丈夫、大丈夫。


自分に言い聞かせるように、パソコンの電源を入れた。


喉が少し痛い。

頭もぼんやりする。

でも熱を測るほどじゃない、と朝は判断した。


今日はどうしても終わらせないといけない資料がある。

午前中にまとめて、14時までに送らないと先方の会議に間に合わない。


画面が立ち上がるまでのわずかな時間、

白石は静かに目を閉じた。


——今日だけ乗り切れば。


キーボードに指を置いた瞬間、

関節が熱を持っているみたいに重かった。


その時。


「白石、おはよう」


低く落ち着いた声。

顔を上げると、片山部長が立っていた。


「おはようございます」


いつも通りに答えたつもりだった。

けれど部長は、そのまま白石の顔をじっと見た。


「…体調悪いだろ」


間髪入れずに言われて、白石は一瞬言葉を失った。


「いえ、大丈夫です」


反射的に返す。

だが部長の表情は変わらない。


「声違うし、顔色も悪い」


デスク横まで歩いてきて、モニターをちらりと見た。

作りかけの資料をしばらく見て部長は言う。


「これ、今日中じゃないとダメか?」


「…はい。午前中にまとめて、午後送付予定で」


白石が答えると、部長は小さく息を吐いた。


「森と新田は?」


「森くんは午前中直行でF社、新田くんもA社直行です」


「…そうか」


数秒の沈黙。

そのあと部長は、淡々と言った。


「今すぐ帰れ」


「え」


「今すぐ帰れ。聞こえてるか?」


白石は思わず姿勢を正した。


「でも、この資料だけ…」


「無理してミスされた方が困る」

ぴしゃりと言い切る。


「途中までやってるならデータ共有して帰れ。あとはこっちで振る」


その声は厳しいが、

責める響きは一切なかった。


白石は画面を見つめる。

まだ七割。

あと少しで形になる。


——でも。


指先が少し震えていることに気づいた。


ゆっくりと息を吸う。


「…わかりました。途中まで整理して共有します」


「そうしろ」


部長は頷くと、自販機の方へ歩いていった。

戻ってきた手には、温かいペットボトルのお茶。


「ほら」


「…ありがとうございます」


「タクシー使えよ。」


そこまで言われて、白石は小さく笑った。


「そこまでじゃないです」


「笑える元気があるうちに帰れよ」


ぶっきらぼうに言って、自分の席へ戻っていく。


白石は画面に向かい直し、

急ぎながらも丁寧に、引き継ぎメモを残した。


十分後。

自部署の社内グループチャットに資料データと進捗を送る。


『体調不良のため本日早退します。

資料はここまで整理済みです。

申し訳ありませんが、よろしくお願いします。』


送信ボタンを押すと、

急に力が抜けた。


更衣室でコートを羽織り、フロアを出る。


エレベーターの扉が閉まる瞬間、

オフィスの光が少し遠く感じた。



午後一時過ぎ。


外出から戻った森海斗は、

コートを脱ぎながらフロアを見回した。


「あれ」


白石の席が空いている。


パソコンも落ちている。

珍しい。


ちょうどその時、新田も戻ってきた。


「お疲れっス」


「お疲れ。…白石さん席外し?」


森は首を傾げた。


「いや…今日午後イチ資料って言ってましたよね」


二人同時に違和感を覚える。


そこへ、片山部長が席から声をかけた。


「白石なら早退した」


「え?」


森と新田の声が重なる。


「体調不良。朝来たが顔色悪くてな。帰らせた」


一瞬、空気が止まる。


森が先に口を開いた。


「…大丈夫なんスか」


「熱はわからんが、無理してたな。

資料は途中まで共有済みだ」


新田は白石の席を見た。

きちんと揃えられたデスク。

空の椅子。


「……そうですか」


短く答える。


森はモニターを立ち上げながら言った。


「俺、残りやります。F社は俺の担当なんで。

どこまでできてるんですか?」


「共有フォルダ見ろ。七割出来てる」


「了解っス」


椅子に座りながら、森は小さく呟いた。


「…ちゃんとしてる人ほど無理するんスよね」


新田は何も言わなかった。

ただ一度だけ、白石の席を見てから

自分のパソコンを開いた。


画面の向こうに、

整然とまとめられた資料データ。


引き継ぎメモも、完璧だった。


新田は小さく息を吐く。


——ちゃんと帰ったならいい。


そう思いながらも、

どこか落ち着かない。


スマートフォンを一度だけ手に取り…すぐ伏せた。


キーボードに手を置く。


「森くん」


「はい」


「早めに終わらせよう」


「っスね」


月曜の午後のオフィス。

いつもと同じ光なのに、

白石の席だけが少し静かだった。


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