「卒業の日」 後編
「これ、橘さんがくれた御守り」
そう言って、森海斗はポケットからそれを取り出した。
あの日、真由が渡したもの。
「ありがとうございます」
少しだけ視線を落としながら、続ける。
「俺、この間の……結婚に縁ないって話とか、自分の生い立ちとか……誰かに話したの、初めてなんです」
真由は何も言わず、ただ静かに聞いている。
「本当は、誰にも話すつもりなかったんですけど」
ふっと小さく笑う。
「なんとなく、橘さんには話したくなって。
墓参りも、ついてきてもらいましたし」
視線を上げる。
「こういう話って、聞かされた方も困るだけで、何も解決しないし……気まずくなるだけだって思ってたんで」
少しだけ間を置く。
「だから、ずっとしまい込んでました」
真由は、その言葉の重さを受け止めるように、静かに頷いた。
「でも——橘さんは違う」
まっすぐに、見る。
「ちゃんと聞いてくれて……俺の“これから”を、考えさせてくれた」
「導いてくれた、っていうか」
「……大袈裟よ」
真由はそう返す。
けれど、その奥にある感情は、軽くない。
(あの日のこと、ちゃんと届いてたのね)
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「橘さん……俺——」
視線が、重なる。
その目は、いつもの軽さでも、仕事のときの鋭さでもない。
まっすぐで、逃げ場のない——
温度のある視線。
(……嘘でしょ)
一瞬、言葉が落ちる。
逃げ場がない沈黙。
真由は、次に来る言葉を理解してしまう。
頬が、わずかに熱を持つ。
そして——
「橘さん、俺と結婚してください」
「……はぁ!?」
思わず立ち上がる。
テーブルに手をつき、声が漏れた。
すぐに我に返り、慌てて座り直す。
周囲をちらりと見渡す。
「ちょっと……!」
小声で詰め寄る。
「なんで!?そこは“付き合ってください”でしょ!?」
森は、表情を崩さない。
「この御守り」
手の中のそれを、軽く掲げる。
「橘さん、自分を守るために毎年買ってるって言ってましたよね」
真由は、小さく頷く。
「これ、俺がもらっちゃったら……
誰が橘さんを守るんですか?」
まっすぐな声。
「俺に、守らせてください」
空気が、変わる。
(……本気だ)
逃げ場のない、まっすぐな熱。
「それに」
少しだけ柔らかくなる声。
「橘さんのこと、もっと知りたいんです」
「何から自分を守ってるのかも」
「どうして結婚に縁がないなんて言うのかも」
「全部」
そのとき——
料理が運ばれてきた。
絶妙なタイミング。
「……とりあえず、食べましょ」
真由は息を整えるように言う。
「冷めちゃうわ」
(落ち着け、私)
内心では、心臓がうるさい。
一口、口に運ぶ。
「……美味しい」
思わずこぼれる。
「でしょ」
森が笑う。
「橘さん、こういうの好きだろうなって思って」
その視線は——
以前とは違う。
“知っている人を見る目”ではなく、
“想っている人を見る目”。
静かに食事が進んでいく。
やがて皿が下げられ、紅茶が運ばれる。
「それで」
森が、再び口を開いた。
「いつ、聞かせてくれますか?」
「……何を?」
分かっていて、聞き返す。
「さっきの返事も」
「橘さんのことも」
「全部です」
逃がさない声音。
「俺、待てますし」
「傷つけたくもないですけど」
「断られても、何回でも口説きます」
真由は、一瞬だけ言葉を失う。
(……何なの、この人)
けれど、目を逸らさずに答える。
「……誰にも話したことないの」
「綾子にも、遥にも」
「だから——森くんにも、言えない…。
私の問題だから」
森は、少しだけ考えてから言う。
ほんの一瞬、視線を落として。
「じゃあ、結婚が先ですね」
「は?」
「結婚したら、夫婦の問題になるでしょ」
あまりにも真顔。
真由は、力が抜けたように笑った。
「……あんた、本気で言ってる?」
「はい」
(……ほんと、なんなのよ)
呆れと、少しの安心。
「わかったわよ」
小さく息を吐く。
「でも、ここじゃ無理」
「二人きりの場所じゃないと話せない」
「分かりました」
「じゃあ、また日程——」
「待って」
「ちゃんと聞いてた?」
「“二人きり”って言ったの」
「はい」
「俺、一人暮らしなんで」
「……叔父さんの家じゃないの?」
「さすがに就職のときに出ました」
一瞬、影が落ちる。
「本当の家族に戻してあげないとって思って」
真由は、すぐに言う。
「そんなことないわよ」
「きっと、あなたのことも家族だと思ってる」
まっすぐな言葉。
一度会っただけだが、わかる。
海斗!と呼ぶ叔父の声。
そして、5人はちゃんと家族の距離感だった。
森は、少しだけ驚いたように笑った。
「こういうときでも、ちゃんと正してくれるんですね」
「当たり前でしょ」
「じゃあ、また決めましょう」
そう言って、二人は席を立った。
真由の最寄り駅。
改札の前まで、森はいつも通りの距離で見送る。
「じゃあ、お疲れさまです」
「……お疲れ」
軽いやり取り。
けれど——
今日だけは、何もかもが違う。
改札を抜けたあと、真由はふっと息を吐いた。
(……何なの、ほんと)
頭の中で、言葉が整理されない。
プロポーズ。
あの目。
あの言葉。
——結婚してください。
電車に揺られながらも、答えは出ないまま。
ただ——
胸の奥だけが、静かに騒がしかった。
——答えはまだ、出せないまま。




